つま先で蹴る

昼星石夢

第1話つま先で蹴る

 和馬が友人から電話をもらったのが一昨日。高校からの友人だし、切羽詰まった様子だったから、週末にお気に入りの公園で会うことにした。

 和馬は独り身で発達支援センターの非正規職員という立場だが、友人は大手不動産会社の次長職のポジションで、綺麗な奥さんと幼い息子が一人。年に数回一緒に飲む仲だが、近頃は専ら友人の自慢話に相槌を打つ会になっている。

 そんな友人が、息子のことで悩んでいるらしい。

 正月明けの寒風に首をすくめ、ジャケットの襟に口まで潜り込ませ待っていると、堤防道路から妙に軽快に駆けおりてくる幼い男の子と、その後ろから少し腹が出た友人が遅れてこちらにやってきた。

「よお、ひゃあーー寒いなぁ。あ、おめでとさん。おい、お前も」

 友人に後頭部をはたかれ、息子は礼儀正しく頭を下げて新年の挨拶をした。確か今年で五歳だが、友人よりしっかりしていそうだ。息子は驚くほど完璧な愛想笑いのあと、「あ、楽しそう!」と、公園の向こうで凧を揚げている子供達のほうへ走っていった。

「あんまり遠くへいくなぁ! ったく。……な、どう思う?」

「え? どう思うって?」

「あの走り方だよ、家にいるときは歩くときもああだ」

 顎で息子の後ろ姿をさす。小さな背中は跳ねるように凧を追いかけている。――あぁ、つま先立ちだからか。

「別に、可愛らしくていいんじゃないか?」

「呑気な事いうなよ。それにアイツ、癇癪かんしゃく持ちでさ。自分の思い通りにいかないことがあると、コップとか皿とか放り投げるんだよ。酷い時には家で飼ってたちっさい金魚、あれが床で跳ねてたんだぜ」

 友人が自分の腕をさする。しかめた顔が、寒さだけが原因でないことを伝えている。

「それでなんて言ったと思う? 金魚が死ねば猫が飼えると思ったって。幼稚園でも遊具から友達を突き落としたのに、自分から落ちたって平気で嘘つくし」

「うーーん、やんちゃな年頃だし、心配しすぎることはないと思うけどな。ちゃんといけないことだって教えてあげれば。相手の子は怪我を?」

「いや、まあ、大したことはなかったんだけどよ。でも、あの動き方。発達障害じゃないかと思って」

 思わず友人を見つめ返す。

「お前ならわかるだろ? そういうの。うちのやつは一度検査してもらうって言ってんだけど、その前にさ。な、違うよな? お前の言うように、子供だからだよな」

 和馬はこの友人に、高校時代、自身が発達障害であることを打ち明けていた。この問いが、「当事者であるお前から見て違うよな?」と言いたいのか、「発達支援センターに勤めているお前の経験から言って違うよな?」と問いたいのかはわからない。だがどちらにしろ、専門家でもない自分には確かなことは言えなかった。

「おじさん、この公園、好きなんですか?」

 いつの間にいたのか、友人の息子が和馬と友人の背後に立っていた。ぎくりと振り返る。さっきの会話が聞かれていなかっただろうか。

「うん、海とか湖をたまに眺めたくなるんだけど、近くにないからね。せめて川音が聞きたくて」

「ああ、わかりますよ。僕も水で遊ぶの好きです」

 にっこり、と音がしそうな笑顔だった。異様に大人びている。最近の子はしっかり者が多いのか。

 凧を揚げていた集団から、誰かの泣き声が聞こえた。


 教室の清掃を済ませ、備品に壊れた箇所がないか、誤飲の心配があるものはないか確認する。昨年、浩司君が本棚の角に落ちていた、小さなマグネットを呑み込もうとして、間一髪のところで気づき、事なきを得た。一瞬遅れていたら大変なことになっていたかもしれない。

 子供達が保護者と登所してくると、挨拶をしながら一人ひとりの顔を見て健康状態をチェックしていく。守君が登所途中で漏らしてしまったようなので、一緒に連れ立ってトイレに行く。

「寒いからなあ。よし、綺麗にできた、新しいのに換えような」

 守君も友人の息子と同い年だが、まだ昼間もオムツで過ごしている。だが、小ならトイレですることもあるし、着実に成長している。

 着衣を整えてあげると、守君はさっさと走って教室に戻っていった。苦笑しながら、後始末をおえると、和馬も教室に戻る。

 教室では皆が先生と童謡を歌っていた。邪魔をしないように、後で絵を描く子達のために画用紙やクレヨンを準備して、遊戯室へ一足先に移動し、コースに沿ってトンネルや小さなトランポリンをセッティングする。やがて感覚統合トレーニングをする予定の子達が入ってきた。一緒に軽くリズム体操をしてから、マットを敷いたコースにチャレンジさせる。とわちゃんが、「やらない!」と言って、遊戯室を出ていこうとするので、引き止めつつお話をする。

「どうしてやりたくないのかな?」

「やらないからやらない!」

「ええ、面白そうだよ。一緒にやらない? 先生だけでやっちゃおうかなーー」

 和馬がマットで転がり、トンネルをくぐろうとし始めたところで、とわちゃんも転がりだした。そうして午前中を終えると、昼食の準備をして、子供達の食事を手伝う。ようやく一息つけるのは、皆が食べ終わり、自由遊びになった頃。だが、和馬には一つ気がかりなことがあった。

 登所のときから元気がなく、お昼もあまり食べていないミクちゃんのことだ。自由遊びの時間にも、椅子に座ったまま動かないミクちゃんのもとへ行き、様子を窺う。

「あのね、この間の通りに、貸して、って言ったの。公園で遊んでるときに、おもちゃを見つけたから。そしたらそのおもちゃを持っていた女の子が、貸してくれなかったの。さわるなって。それで女の子のお母さんに、ミクが取ったって言ったの。そしたらそのお母さんが、ミクを変な子ねって言った。取ってないのに。だから帰ったの」

 ミクちゃんはポツポツと言った。この間の通り、とは、昨年に行った、貸して訓練のことだ。ミクちゃんは他の子の持ち物を勝手に使ってしまうことがあり、そのことに気づいて貸さない子がいると、叩いたりしてしまうことがあった。そのため、使いたいときには「貸して」というように練習していたのだ。センターではミクちゃんが「貸して」と言った場合には、なるべく貸してあげるようにし、家庭でもそうするようお願いしていた。貸したくない子がいた場合には、それがその子にとって大切なものであることをミクちゃんに伝えたうえで、お互いが納得できるように、代わりの物をすすめたり、時間を区切ったりして対処していた。

 でもミクちゃんが遭遇したような、攻撃的な断られ方をされ、さらに嘘をつかれ、相手に第三者が加勢するという練習はしていなかった。

 和馬はミクちゃんが、そんな目にあったにもかかわらず、相手の子を叩かなかったこと、相手のことを受け止めて、帰ったことを大いに褒めた。それからミクちゃんが『変な子』ではないことをしっかりと伝えると、ようやく薄っすら目に光が戻った。


 その日センターに着くと、なんとなく見覚えのある女性が、友人の息子と同じ年頃の男の子を連れて教室を覗いていた。「あの、どちら……」と言いかけたところで振り返った女性と目が合った。一瞬気のせいだと思ったが、女性が「和馬君?」と言うので確信した。彼女は中学の頃の初恋の人だった。もちろん、両想いどころか告白もしないままだったが。「あああぁ」と情けない声が出た直後、

「あら。相変わらず早いわね、和馬君。こちら長谷さん、今日見学の」

 と、職員の田中さんが顔を見せた。

「和馬君、センターを案内して差し上げて」

「あ、はい」

 和馬は平静を取り戻すと、彼女と息子を連れて、教室や遊戯室、外のグラウンドを案内して回った。

「可愛いね。いくつ?」

 和馬が問うと、彼女は、

「来年小学生になるの……」

 とぼんやり答えた。

 教室に戻ると、子供達が登所していた。彼女の息子が少し体験するとあって、教室の隅に椅子を置き、彼女を座らせる。

「今日は元気君も一緒です、仲良くしてね」

 先生に皆が「はあーーい」と答える。

「いい名前だね」

 和馬が言うと、彼女は、うん、と小声で頷いた。

「幼稚園に行かせてたんだけど、全然友達が出来なくて、先生が言うには会話ができないって。言葉は話すし、家じゃ、そんなことないんだけど。なんていうか、自分のルールがあって、三回回ってからじゃないと座らないとか。こだわりが強いだけだって思ってたんだけど。園の行事とかにも参加したがらなくてね。お泊りとか絶対行かないし」

 元気君は、名前の通り元気に、他の子供と粘土を使って何か作っている。ここからでも笑い声が聞こえる。突然立ち上がると、元気君は粘土を持って床に転がった。

「元気! 座りなさい!」

 皆が一斉に彼女を見る。元気君と同じように、壁にもたれかかって粘土をいじっていた春樹君が、するするする、と床に座り込む。当の元気君は知らん顔だ。

 再び大声を出そうとする彼女に、「いいんだよ」と耳打ちする。彼女は歯を食いしばって、言葉をのみ込んだ。

 机を動かして、場所を作り、皆でドミノをする。各自貰った個数のドミノを、昨日和馬が模造紙に描いておいたヘビに沿って、好きな場所へ置いていく。だが、あともう少しで元気君が飛び跳ねた足が当たり、倒れていく。

「元気! はっ、申し訳ありません、すみません、うちの子が」

 彼女が先生に近寄って頭を下げる。

「いえいえ、謝らないでください。出来上がるのが目標ではないんですから」

 彼女は元気君を一瞥すると、教室を出ていってしまった。

 元気君は他の子と、ドミノを作ったり壊したりして取り組み続けていた。

 彼女の後を追いかけると、グラウンドの脇のベンチに座り込んでいた。

「通っていたの、親戚の幼稚園でね。すごくいい所なのよ。入っていれば有名校に進学できたのに! 他の子の迷惑になるからって、やめさせられたの。もう! どうしてうちの子が……。――こんなことなら、産まなきゃよかった……」

 和馬は項垂うなだれる彼女の首筋を見て、急速に胸の中の熱が冷めていくのを感じた。

 同時に彼女をどうすれば励ませるのか、どうしたら元気君を誇りに感じてくれるのか思案した。

「私は、運がなかったのね……」

 ベンチの向かいにある自販機の広告の中で、爽やかに笑う野球選手を見つめて、彼女が呟いた。体に穴が開いた気がした。ひょっとすると、母もそう思っただろうかと、和馬は静かに深い息を吐いた。


 いつもの公園で菓子パンをかじっていると、「よーー!」と聞いた声がした。

 振り向くと、友人が息子と一緒にやってくるところだった。息子は、今日はいたって普通の歩き方だった。

「やっぱりいたな! コイツがここにいるんじゃないかって」

 この前とは打って変わり、息子の頭をごしごしと撫でながら友人は言った。息子のほうはこの前と変わらず、大人びた顔で「こんにちは、寒くないですか?」と聞いてきた。

「平気だよ。冬のこの空気も気に入っているんだ。――今日はどうしたの? 凧でも揚げに?」

 息子は、ふふ、と笑った。

「それが一応報告しておこうと思ったんだけど、コイツ、正常だったよ。いやあ、良かったよ。面倒なことになってなくて、普通でな?」

 友人が息子の顔を覗き込む。「そうだね」と息子は友人を見上げた。

 なんと言ってほしいんだ? よかったな、と答えればいいのか?

 和馬が伏せた目を上げると、息子がこちらを観察するように、薄ら笑いで見ていた。

「お前も大変だと思うけど頑張れよ」

 友人はそれだけ言うと、息子と仲睦まじそうに去っていった。

 その背中に向かって心が叫ぶ。

 普通ってなんだ。浩司君は幼い頃に出会ったどんな子供より優しいし、守君は先週初めてセンターのトイレで大をしたし、とわちゃんはお父さんの部屋で見たという日本地図の形を完璧に記憶している。ミクちゃんはプロ顔負けの絵を描くし、春樹君のやりたいことを選ぶ速さには目を見張るし、元気君は来てまだ二週間だけど、フラフープと玉投げを同時に出来た。なぜそれを見ようとしないんだ? 大したことはないと否定したがるんだ?

 通り過ぎる子供達が、つま先で小石を蹴飛ばした。

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