真夜中のコンフリクト
佐倉千波矢
真夜中のコンフリクト
眼下には広大な夜景が広がっていた。
東京のような眠りをしらない大都会は、完全な闇に閉ざされることがなく、一帯が人工の淡い光に包まれている。セスナ機はその上空を飛行していた。
徐々に高度が低くなる。灯りの一つ一つが大きくはっきりとしていき、そのうちに民家の屋根が視認できるようになった。
出発地と違って、到着地のここではすっかり雨雲が去っている。雨上がりの澄んだ空気のせいか、通常よりも地上の様子がくっきりと見えた。
焦れるほど長く感じられた二時間のフライトがようやく終わる。相良宗介は小さく溜め息をついた。窓に映りこんだ自分の顔には、わずかながら疲れが滲んでいる。もっとも、不機嫌そうな仏頂面はいつもとさほど変わらないので、パイロットは気付きもしないだろう。
東京には夕刻に着くはずだったのに、すでに日付が替わろうとしている。仕事が終了して報告書の提出もそこそこに職場を出てきたのだが、ターボ・プロップ機からセスナ機に乗り換える経由地で、悪天候のために足止めを食ってしまったのだ。
事情を説明するために、八丈島から千鳥かなめに連絡したときが思い出された。
「何時になってもいいから、必ずウチに寄ってよ」
そっけない話し方にもかかわらず、どこか甘えるようなニュアンスを──感情の把握が不得手な彼には珍しく──彼女の声に感じた。だが、その後心情に変化があったかもしれない。念のために到着を知らせようと、携帯電話のディスプレイに相手のナンバーを表示し、通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴りだすのとほぼ同時にかなめが出た。
「ソースケ? 今どこ?」
聞き慣れたアルトの声が心地良く耳に届く。
「東京上空だ。約五分で調布空港に着陸する」
「そっ。帰って来られたんだ」
「うむ、時間はかかったがな。ところでこのような遅い時間になってしまったので、君の家に行くのは明日の朝にしようと──」
「ダメ! 絶対にウチに寄ってってよね」
宗介としては彼なりに、深夜に女性の自宅で二人きりなるのはよくないと配慮してのことだったが、かなめには気に入らなかったらしい。声色がトーンを上げた。
「だって……その……ご、ご飯。……そうよ、夕ご飯、あんたの分も作っちゃったんだから、ちゃんと責任とりなさいよね!」
少女の声は、怒ったようにぶっきらぼうだ。
「しかしだな」
「しかしもかかしもない!」
「よくわからんが、了解した。馳走になる」
「よろしい」
セスナ機は旋回しながらさらに高度を落としていった。熟練したパイロットはなんの問題もなくセスナを着陸させ、宗介は三日ぶりに日本に戻った。
タクシーを彼女の住むマンション、メゾンKの前に乗り付けた。入り口から風除室を抜け、エントランスホールへと入る。オートロックは彼女から貰い受けたキーを持っているので問題ない。
四階まで階段を一気に駆け上がって、共用廊下を進み、建物の西端に位置する玄関前に立つ。インターフォンの押しボタンを躊躇(ためら)いなく押した。
しかし、なんの反応もない。
アルコーヴに立ち尽くし、しばし考える。三〇分前にセスナ機から連絡したときには即座に応答があった。だが現在は呼び出し音には反応がなく、内部から人の気配は感じられない。
非常事態を考慮し、腰のホルスターから愛用のグロックを抜いた。玄関のドアを解錠して室内に入り、音を立てずに廊下を進む。
リビングのドアの前で、中の様子を探った。かすかに複数の声が聞こえるが、やはり人の気配はまったく感じられないので、TVの音声と判断された。
一呼吸おいてから、そっとドアを開く。
蛍光灯が照らす明るい室内に、少女の姿を見つけた。ソファーに横たわっている。
「千鳥?」
なにかあったのだろうかと慌てて傍らに寄った。だが、ソファの背の側に傾いている少女の顔をのぞきこみ、すぐに納得する。
眠っていては、返事も気配もあるわけがない。
かなめは実に安らかな寝息をたてていた。寝顔はどことなく普段よりも幼い印象がする。黒髪に縁取られた白い顔からは、目を閉じているために見た目の気の強さが消えて、柔和な印象がある。彼女のコードネームである天使を体現しているようだ。
宗介は安堵感から大きく息を吐き、緊張を解いた。銃もホルスターに戻す。
そこでハッとした。彼は靴を履いたまま室内に上がってしまった。機能性重視のごついコンバットブーツをその場で慌てて脱ぎ、玄関に引き返す。
フローリングの床を多少汚していた。洗面所から雑巾を持ち出し、可能な限り静かに素早く証拠を隠蔽(いんぺい)する。
リビングに戻って様子を窺ったが、少女は眠ったままだ。宗介は自分の上着を脱ぎ、その肩にかけてやった。一瞬いつ洗濯したものだったろうかと心配になったが、三日前にこちらを出かける際、彼女がもたせてくれた着替えだったと思い至る。
ふと見ると、ソファの前に配置されたリビングテーブル上にメモ用紙がのっている。普段は電話の横においてあるものだ。なにか書き付けてあるので取り上げた。
メモは、一八〇度回転させ、さらにもう九〇度回転してようやく、
「チンしてたべて
↑2分
れいぞーこにサラダ」
というメッセージだとわかった。読みやすいすっきりした文字を書く彼女のものとは考にくいほど乱雑で、判読するのに少々苦労した。
なんといっただろうか、と宗介は思案した。このような文字を表現する慣用句があったはずだ。少しして「ミミズがのたうち回ったような」という言い回しが浮かんだ。どことなく違っている気もしたが、正誤の確認は後日に回す。
(チンするとは、たしかマイクロウェーブで温めるという意味だったな)
ダイニング・テーブルを振り返る。ランチョンマットの上に、彼のために用意しておいてくれたのだろう、一人分の食器が揃えてあった。
ラップがかかった中央の平皿にだけ、料理が盛ってある。豚肉の野菜巻き──茹でたアスパラガスとニンジンを、薄切りの豚肉で巻いてから焼いたもの──だったが、料理名の知識に乏しい彼には肉料理としかわからない。それでも温めてから食べるようにと指示されたのはこれのことだと見当は付いた。
(つまりこれをマイクロウェーブで二分加熱するのだな)
宗介は皿を電子レンジに入れた。
キッチンのカウンター越しに、ソファに目をやる。いまだ目の覚める気配のない少女を眺めた。
そういえば電話でもあくびをしていたのを思い出す。前日遅くまで映画を見ていたのだとかなめは言い訳していた。レンタルして見ないままだったDVDの、貸出期限が切れるところだったのだそうだ。
状況から察するに、自分の帰りを待っていたが、眠気に負け、撃沈寸前にメモを走り書きした、といったところか。一般人の行動原理を想像するのが苦手な宗介だが、それでも最近はかなりマシになり、これぐらいなら察せられるようになっていた。
夕食は、実は時間がありあまってしまった八丈島で済ませていた。移動時に持ち歩いているカロリーメイトとミネラルウォーターだ。
立ち往生を連絡したときのかなめは、食事のことなど一言も触れなかったので、用意してくれているとは想像できなかった。空腹はまだ感じていなかったが、彼女の厚意を無碍にするわけにはいかない。完食を心に決めた。
さばさばとしていて活発で行動的な彼女には、意外なほど家庭的な一面がある。母親のしつけがよかったのか、炊事、洗濯、掃除など家事全般をカリスマ主婦なみにこなす。しかも面倒見がいいために、なんやかやと世話を焼いてくれるので、宗介の生活は東京で暮らすようになってからの数ヶ月で飛躍的に向上した。
特に食生活の改善は大きい。料理が得意な彼女のおかげで、かなりの恩恵を受けているためだ。今ではハム一切れとトマト一切れの食事を豪華だとは言えなくなり、ランチを干し肉だけで済ませるのに侘びしさを感じる。夕食への招待を心待ちにするようになってしまった。
贅沢に慣れてはいけないと自分に言い聞かせつつも、望んで元の状態に戻ろうとも思わない。
それを「餌付けされた」と周囲の同僚や友人が評しているのは承知している。たしかにそうかもしれないと、彼自身も納得していた。
電子レンジが文字どおり「チン」と音を立てたので、中から豚肉の野菜巻きを取り出す。ついでに冷蔵庫を探り、豆のサラダが盛ってある小鉢も無事に見つけ出した。両方をランチョンマット上に並べる。ご飯茶碗には炊飯ジャーからご飯を盛る。
ソファーのスプリングが小さく軋んだ。
宗介はそちらに視線を向けた。どうやらかなめが身動きしたようだ。身体の向きがわずかに変わっている。だが起きた様子はなかった。
スプリングの軋む音は少しの間続き、少女はもぞもぞと寝返りをうつ。やがてソファの背に顔を埋めるように、身体ごと向こうを向いてしまった。
天井の明かりが、やわらかく包み込むように部屋を照らしている。それが寝ていても眩しかったのだろうか? 宗介は必要があればどこでも──明るくても、騒がしくても──眠ることができるため、判断がつかない。
どちらにしても、寝入っているのだから照明を暗くしたほうがいいのかもしれない。だが、気を利かせすぎても場合によってはまずいのだとここ数ヶ月で学習していた。迷ったが、結局そのままにしておいた。
テーブルの定位置に着き、かなめに躾けられたとおりに手を合わせる。
「いただきます」
小さく呟いてから、彼にとってはその日二度目の夕食を食べ始めた。
遅い夕食──というより夜食──をすませ、食器を洗い終えた。宗介にはとうとうこの部屋でやることがなくなってしまった。
辞去するべきだが、なんとなく立ち去りがたい。かなめに食事の礼を言うために目覚めるのを待とう。そう理由を作って、ソファーの前に腰を下ろした。
時計の針が時を刻む音ですらはっきりと聞こえるほど、部屋は静まりかえっている。その中で、規則正しい少女の寝息に耳を澄ました。
ひょっとしたらこのまま朝まで目覚めないかもしれない。そう思ったとたん、いろいろな考えがせめぎ合った。
朝まで寝顔を眺めているのも悪くないのではないか。
いや、そんなことをすれば、おそらく彼女から何らかの制裁を受けそうな気がする。
しかしソファに寝ているのを放ってこのまま帰ったなら、なぜ起こさなかったのかと後で責められるかもしれない。
いっそ起こしてみてはどうだろう。
彼女の寝起きの悪さからすると、そのほうが危険かもしれない。
それならやはりこのまま……。
堂々巡りとなり、この問題を一旦放棄する。
ギシ。ソファーが今度は大きく軋んだ。
かなめはまた寝返りを打って、今度はすっかり仰向けになった。目を閉じたまま、なにか呟いている。
「千鳥?」
呼びかけてみたが少女は目を開かない。ただの寝言だったらしい。内容は聞き取れなかった。
艶のある紅い唇は、半開きの状態で動きを止めた。宗介はその唇を見つめる。視線が吸い寄せられてしまい、どうしても外せない。
そんな自分に、どういうわけか罪悪感を覚えた。
(なぜだ?)
唇が気になるのも、それに伴った罪悪感も、まるで理由がわからない。自分で自分の感情を把握できないというのが、彼には理不尽に思えた。
このところの宗介は、彼女に対して抱くなんと表現すればいいのかわからない感情を、頻繁に意識させられていた。持て余しているともいえる。
あれこれと自問を繰り返した。
守りたいと思うのは、彼女が護衛対象であるからなのか?
否(いな)。以前ならともかく、現在は護衛であることを自身で選択し、戦って勝ち取ったのだ。だとしたら守りたいからこそ護衛の立場を固守したと言える。
自分の感情はもっと単純明快だったはずなのに、自身で掴みきれないほど複雑になるとはな、などと彼はある意味感心もしていた。厄介ではあったが、なぜか悪いものではないと思える。
どうにか少女から顔を背けられたのは、五分が経過した後だった。
自分にとってよいと思われる行動ではなく、相手にとってよいと思われる行動をとるよう考慮しなおした。
宗介の出した結論は、かなめをベッドに運ぶというものだった。朝になった彼女のハリセンがうなるかもしれないが、それは甘んじて受けるしかない。
かなめの背と膝下に腕を差し入れ、そっと抱き上げた。
やわらかい感触と、髪からほんのりと漂う甘い香りに、目眩に似た感覚を受ける。彼女の体温が伝わってくると、なぜだか胸の奥のほうにも暖かさを感じた。
しばらくの間、宗介はかなめを抱えてその場に突っ立っていた。
腕の中の心地良い重さを手放したくなくなってくるが、いつまでもそうしているわけにもいかない。少女の身体を抱え直し、リビングを出た。
廊下を数歩移動すれば、隣部屋のドアの前だ。躊躇いが宗介の動きを止めた。かなめの寝室に入ったことはない。
(寝かしつけるだけだ。やましいことなどないぞ)
自分を説得し、ドアを開きにかかる。
かなめを抱えたままレバーハンドルに手をかけるのに少々苦労し、腕を大きく動かした。それがいけなかったのかもしれない。見下ろすと、少女の瞳がぼんやりとこちらを向いていた。
「ち、千鳥。起きたのか?」
「……ん……ソースケ?」
「ああ」
「……おかえり……」
「うむ、ただいまだ」
「……えへへ、ちゃんと顔見てぇ、お帰りなさぁい、って言いたかったの」
かなめはまだ半分眠っているらしく、ほんの少し舌足らずに間延びして話す。
「だから家に寄るように言ったのか?」
「……そ~よ~。……だあって直接顔見なきゃ~、安心できないじゃなぁい。……よかった。ソースケ……帰ってきて」
少女が浮かべた満面の笑みを見て、宗介は急に落ち着かなくなった。
「下ろすぞ」
言葉どおりに実行しようとすると、少女は不満げな顔を見せる。
「ヤダ。抱っこ」
首に少女の腕が巻きついてきた。彼女の身体を抱えるのに両手を使っていて、宗介には抵抗ができない。
「千鳥。手を離せ」
「ちゃんとお布団まで運んでくんなきゃヤダ」
寝ぼけているのはわかったが、対応がわからない。宗介はすっかり固まってしまった。
押し問答を繰り返すうちに、だんだんとかなめの目の焦点が合ってきた。夜目の利く宗介には、窓から入る街灯の明るさだけでも、それがよくわかった。安堵する気持ちと焦る気持ちが同時に押し寄せる。
「千鳥、状況がわかるか?」
「……へ? なに? ……えっ? ソースケ?」
「そうだ」
ようやくかなめは、夢でなく現実に、自分が俗に言うお姫様抱っこをされているのだと気づいた。
「なななななんなの?」
「…………」
問われても答えようがない。宗介は返事に窮して黙り込んだ。
かなめの顔が一気に真っ赤に染まる。
「い、今のは間違いよ! あたしが言ったんじゃないの。いや、あたしだけど、あたしじゃないの」
どうやら直前の自分のセリフは覚えていたようだ。宗介はホッとしないでもなかった。
「と、とにかく下ろして」
言葉に従って、かなめを床に下ろした。
「俺はだな、君をソファからベッドに移そうとしていただけだぞ」
「あ……うん、わかってる」
かなめは、一瞬なんともいえない表情を浮かべた。表情の意味を宗介が理解する前に、彼女は一歩下がって下を向いてしまった。
「ソースケ、あの、えっと、そうよ、ご飯は? ご飯は食べたの?」
かなめは自分の足元に視線を落としたままだ。
「ああ、美味かった。君の指示どおり、おかずは二分温めたぞ」
「三色豆サラダは? ちゃんと食べた?」
「食べた。あれも美味かったな」
「そう、よかった。……えっと、寝ちゃってて悪かったわ。起こしてくれてよかったのに……」
「いや、そうしようかとも思ったのだが……」
「え~と、あ~、……じゃあ、よ、用は済んだよね?」
「うむ、そのようなだ」
「それじゃ、あの、あたし、もう寝るから。ちゃんとベッドに入るから大丈夫よ!」
「そうか」
「うん、じゃあね。おやすみなさい」
ほとんど突き飛ばされるようにして、宗介は部屋の外に押し出された。もちろん抵抗などはしない。かなめがすぐにドアを閉めたので、二人の間はそのドアで仕切られた。
宗介はすごすごと踵を返し、一度リビングに戻って荷物を持ち出す。リビングから玄関に向かおうとしたとき、隣の部屋のドアが開く音に気づいた。
振り向くと、かなめが首から上だけをだして、こちらを見ていた。
「ソースケ?」
「どうした?」
「また……明日ね」
「……あ、ああ。また明日……だ」
危うく「すでに今日ではないのだろうか」と指摘しかけたが、かろうじて飲み込めた。宗介も少しは学習している。
そのおかげで、もう一度にっこりと微笑む彼女を見られたのだった。
了
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