第7話 「嬉しかったみたいですよ、母は」
「やっぱり、正月前は台所で何か忙しくしてないと気がすまないようで」
と、サイダーを大事そうに飲みながら
それで、あの大量のおせちを作ってくれた、と言うことなのだろう。
「きっと、みんな集まってるだろうから、って」
「集まったバカ連中は今朝解散したが、な」
「でも、どうせまた今晩あたりに集まってくるだろうから、そのときにいただくよ。それにしても」
憲悟は短くことばを切った。
「だったら、
「やっぱり」
と春菜は恥ずかしそうにうつむいた。
「直接、顔を合わすのは恥ずかしいみたいで」
「気にするな、って言ってた、って言っておいてやってくれ」
憲悟は命令口調で言い、
「それにしても、そこまで旅館の
と訊く。
「ええ」
と、春菜は脚を軽く組んでもじもじした。目は伏せたままだ。
「もう、人も集められないし、仕事はできても、運営のやり方は知らないから」
「運営なんて」
と、憲悟は舌打ちする。
「おれだって知らねえよ。運営を知らないおれが、あの子があんたとおんなじくらいの歳からこうやってやって来たんだ、この店を。だから、なんとかなるわいな」
春菜は、肩をそびやかして、くくくっと笑う。
「やっぱり、人の命を預かるから、ですって」
言って、やっと目を上げた。
「まるで、ほかの人の仕事は、人の命を預かってないような言いかたで」
「ま」
と憲悟は千愛を弁護してやる。
「それが、責任感なんだろうよ。お客に対して、ってぇより」
「父に対して」
と、春菜ははっきりと憲悟の顔を両方の目で見た。
憲悟の答によっては笑ってやっていい、という顔で。
できないんだな。
これの母親には。こういうのが。
「まあ、そうだ」
春菜は中ぐらいに笑った。
もしかすると、春菜をもっと笑わせるもっと上のベストアンサーがあったのかも知れないが、憲悟には思いつかないから、しようがない。
「でも」
と春菜はまたうつむいた。中ぐらいの笑顔のまま。
「父が死んで嬉しかったっていうとへんになりますが、嬉しかったみたいですよ、母は」
と言う。
理由は。
推測はついたが、言わずにおく。
春菜が言う。
「男の人に、捨てられもせず、自分をバカにすることも言われず、ありがとうって言われて別れたのは、はじめてだったから」
「別れなければ、もっとよかった」
憲悟はぶっきらぼうに言う。
「まあ、しかたないですよね」
春菜がまた言って、両手でサイダーの入ったコップを撫でた。
何の工夫もない三階建てのビル、築年数はここと同じで四十年というところ、いまどきWifiもないのはまだいいとして、エレベーターもなし、バリアフリー対応設備ほぼゼロという
ある寒い日。
今日よりもずっと寒い日だったという。
夜明け前に成田空港へと出発する客を見送ったあと、千愛の夫は玄関の電話のところの椅子に座った。見るからに疲れ切った様子だったという。
無理して早起きするからだ、と、軽くなじった千愛に、彼は
「ああ。心配かけるな。ありがとう。千愛」
と言い、目を閉じた。
それが、最後のことばだった。
主人を失った福禄旅館は長い休業に入り、いまも再開していない。
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