第9話 「幸運の一族の過去②」
フォルトゥナは旅立ちを強制しようとする蛇の手を逃れ、地上の楽園を探す旅を始めた。
だが欧州に安住の地はなく、さまよううちに百年が過ぎ、冥界王が息を吹き返し、その手足たる死神が欧州を徘徊するようになった。こうして復讐に燃える死神に追われながらの生活が始まった。
トルテカ・アステカ時代――
十世紀頃、欧州で追い詰められた多くの眷属が秘密裏にアメリカ大陸北部に渡った。そして安住の地を求め南北に散っていった。フォルトゥナもこの時期にアイスランド経由で大西洋を渡ると南へ向かい、現在のメキシコ中央高原に居を構えた。
当時のメキシコは都市国家が争い合う群雄割拠の戦国時代。フォルトゥナは覇権都市トゥーラの人々と同盟を結び、傭兵として戦のたびに活躍した。落日のトゥーラが焼き尽くされた後も、低地の都市へ拠点を移しつつ、フォルトゥナは武力を維持したが、その頃から都市間を巡る商人としても活動するようになっていった。
メキシコ周辺にも少数の死神は存在していたが、彼らは隠遁者であり、人々への影響力も小さく、眷属たちへの敵意も弱く、そもそも死神という名で呼ばれていなかった。アステカがスペインに滅ぼされるまで、対立しつつも不干渉の状態が長く続いた。
スペイン侵攻の時代――
地上に残った異界の神の眷属たちが大西洋の対岸に逃げたことは欧州の死神も知っていた。
当時の欧州の人々はアメリカ大陸の存在さえ知らなかったが、死神たちは、マヤの死神たちからの情報でそこに陸地があることを確信しており、集団で海を渡るための策を探していた。
最終的に十六世紀、イベリアの二国、スペインとポルトガルから出る船の幾つかに潜入して新大陸入りに成功すると、彼らは眷属狩りを始めた。眷属たちは欧州全域での掃討戦で進化を続けた新世代の死神に滅ぼされていった。
同じく死神に大敗したフォルトゥナは多くの家族を失いながら北へと逃げ、北方で移動生活をしていた黒曜石の矢を用いる狩猟民、チチメカの人々に合流すると、アステカの首都テノチティトランを拠点としたヌエバエスパーニャへの反撃に彼らと共に参加した。
生き残り、逃げ延びた者はもたらされた新たな戦術を学び、長所を模倣し、弱点を突く方法を考え始めた。フォルトゥナもまた強奪した銃と鉄剣、そして馬を使って戦闘能力を高め、三百年のアステカ生活の中で鈍っていたゲリラ戦術を磨き直した。技術と武装、そして馬による機動力に勝るヌエバエスパーニャは、しかし、その弱点をつくチチメカの度重なる遊撃戦に敗北を重ねていく。半世紀後、ヌエバエスパーニャは遂に武力による征服を断念した。
チチメカ戦争が終結に近づく中、ヌエバエスパーニャの融和政策の中で孤立し始めたフォルトゥナはアメリカ大陸脱出を図る。混乱の中、裁定者の手を借りて、太平洋を横断するガレオン船に潜入すると、洋上での病によって家族の多くを失いつつ、アジアの地を踏んだのだった。
西方諸島時代――
西方諸島にてフォルトゥナは、メスチソ、つまりはスペイン人とメキシコ人の混血の入植者としてふるまいながら、新たな安住の地を探した。
スペインによって征服された西方諸島だが、スペイン人にとって西方諸島の大地や人々そのものの価値は大きくはなかった。
重要だったのは三つの好条件――
メキシコから貿易風に乗れば一直線にたどりつき、僅かに北上すれば偏西風をつかまえて北米西岸に帰れるという貿易港としての好条件。
香料諸島を擁する現在のインドネシアや中国、台湾、日本から近く、アジアの産物を集積するに手頃であるという中継点としての好条件。
最後に強力な集権国家が形成されていない空白地帯で、強いて言えば規模の大きい島のダトゥ(首長)が南方のブルネイ王国やテルナテ王国の血を取り入れている程度という軍事上の好条件だった。
大地そのものはスペイン人が必要とする食料をはじめとした生活物資の供給源として必要とされていた程度だった。
フォルトゥナが西方諸島を訪れた十七世紀初頭――
スペイン人のほとんどは幾つかの城塞と島ごとの中心地にあるスペイン人街に留まり、征服された集落に住んではおらず、必要な時に銃を携え、収穫しに行くだけだった。
ただし修道士たちは別で、各地の集落に単身で入り込み、島の言葉を覚えて布教した。
イベリア半島のムスリム領域を切り取り尽くしたレコンキスタの余勢を駆って航海に乗り出したスペインの征服活動には二つの相反する目的があった。黄金と布教である。
黄金を求めた征服者たちは世界を物理的にローマを捧げるためという名目で暴虐と収奪の限りを尽くしたが、修道士たちは世界を精神的にローマに捧げるためにあらゆる異教と偶像崇拝を根絶するために奮闘した。その半数はスペイン本土から長旅の末にやってきており、中でもローマが指名した者には相当数の死神が混じり込んでいた。
後にスペインから西方諸島と呼ばれることになる島々、その南に繋がるミンダナオ、スールー、モルッカ、スラウェシまで続く海上領域では、蛇と冥界王の国家を動員した広域闘争の中で二大勢力のどちらかにつくことを迫られたユーラシア中央部とは異なり、それぞれ独自のあり方を維持したままの古代の神々の小勢力が点在していた。
長い平穏の中でこの地に適応した神々の姿は、もう地上の生物に似た精霊や妖怪とでも呼ぶべきものに変化していた。眷属たちはその神々をアニートと呼び、その似姿として色々な姿の人形を作って崇拝していた。また強い力を持つ眷属もまたアニートと呼ばれた。
修道士に紛れ込んだ死神たちは、異教を廃絶するためには異教を知らねばならぬという名目で調査に明け暮れ、警戒心すら持つことなく安穏と暮らす古代の神々の眷属の居所を炙り出していった。
欧州から来た死神の一団は一つの島に長く留まることはなかったが、百年以上をかけて島々を巡回し、西方諸島全土に棲みついていた神々の眷属を淡々と滅ぼしていき、十八世紀半ばにその仕事を終え、去っていった。
それは欧州におけるスペインの凋落と軌を一にしていた。
十六世紀にモルッカ周辺を支配したポルトガルは十七世紀のうちにオランダに取って代わられ、オランダもまた十八世紀にはイギリスに追い落とされた。
イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ―― 現代まで大国として残る国々が世界を支配する時代が訪れようとしていた。
フォルトゥナにとって、それは朗報だった。
スペインとポルトガルの敗北はローマの敗北だった。教会もまたヨーロッパ全域で力の大部分を失い、世俗の権威としては打ち倒され、精神の権威としては見捨てられ、次第に無力化されていった。
この後、集団としての死神は二度と国家の力を自由に扱える地位には戻れず、個人の旅行者、出稼ぎの余所者として、または貿易商、学者、ジャーナリスト、国連職員、傭兵として活動していくことになる。
こうして百五十年以上の間、僅かな財産と武器だけを身体に巻き付け、時に山中、時に海上、島々の間を渡り続けたフォルトゥナは、遂に追われる身ではなくなり、余所者の目立たない港街にまずは腰を据えた。それが長い物語の終わりだった。
最後に仮面の少年は締めくくりの言葉を告げる。
「そして二百年前、裁定者はフォルトゥナが生活基盤を整えるのを見届けて別れたのです。それが長い別れになりました」
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