02 ―事件―

 次の日、朝日が昇るよりも先に僕は誰かの声で目が覚めた。

 

「おい、夙亜すくあ。起きろよ」

 

 その声と共に、地面に横たえていた体が左右に揺さぶられる。包まっている襤褸布の隙間から冬の冷たい風が入ってきて僕は身震いした。

 眠っていたからか体の体温が下がっているように感じる。僕は継ぎ接ぎの外套とは言えない襤褸布をより一層体に巻きつけ、風の侵入を出来るだけ阻止した。顔に巻いてある布が取れないようにゆっくりと体を起こす。

 

 目を擦りながら僕は、その誰かを見上げた。知っている顔なはずなのに思い出せない。僕の貧困街での名を知っているということは少なからず関わり合いがあった人物であることは間違いないはずなんだが。まぁ、覚えていないということは僕にとって重要な人物ではないということだろう。

 

 汚れていても十分目立つ獅子のたてがみ状に逆立った赤色の髪に、痩せこけた顔。貧困街にこんな派手な奴がいれば覚えていそうなんだが。

 というか、これは焦っている表情なのか。そう見えなくもないが、垂れ目だからか緊迫感がない。骨格が太い所為か、痩せていても体格がよく見える。喉仏が出ているから男か。よく見たら髭もある。年齢は見た目からでは判断できそうにない。とにかく知り合いではないと思う。おそらくだが。

 

 僕も目覚めたばかりだから少し寝惚けているようだ。結局、あれから熟睡してしまったからな。でも、その所為か普段より体の調子がいい。寒さは相変わらず酷いが、一晩食事をしていないにも関わらず、そこまで体力が落ちていないように感じた。


  

 それにしても、朝から甲高い声出して僕になんのようだろう。襲ってくる気はないみたいだけど。

 僕が返事をしないからか、男は肩を掴んで揺さぶってくる。やめてくれ、まだ寝起きなんだぞ。

 

「誰だお前」

 

 僕は男の手を振り払って一言だけ返した。強者は無駄に口を利かない。寝起きということで、機嫌悪そうな雰囲気を出すために睨みつける。もちろん、彼はまだ僕に何もしていない。でも下に出るわけには行かない。設定は忠実に守らないと。襤褸ぼろが出るのは良くないからな。

 

 僕の中の勝手な強者の印象だけど、効果はあったようだ。

 男は怯んだようで、僕から距離をとった。そして降り積もる地面の雪に足を取られ、僕の拠点で一番重要な屋根を支えている金属棒の柱にぶつかった。屋根が軋み、揺れる。

 僕は一生懸命に作った拠点を壊されそうになったことへの怒りは取り敢えず押さえて、何も言わずに突っ立っている男に問い掛けた。

 

「一体、僕に何のようだ?」

 

 やっぱりどこか出会ったことがある気もする。でも思い出せない。こいつは誰だ?

 

「す、夙亜…忘れちゃったのかよ俺のこと…兜悦とうえつだよ」

 

 男は悲しそうな目で僕を見て言った。僕の名前を知っているということは知らない奴なはずがないのだが。どうしても思い出せない。

 

「赤獅子の鬣、兜悦の名で通ってる、本名まぶかの俺だよ。初めてあった時、自己紹介し合っただろ。夙亜は本名教えてくれなかったけどさ」

 

 ああ、思い出した。犬の尿を飲もうとしていた狂人か。一ヶ月前に貧困街の東部で出会った記憶がある。食料を探して僕が表通りを歩いていたら電柱の傍に溜まった犬の尿を飲んでいたっけ。あそこは地面が若干凹んでいて、野良犬たちの匂いつけ場になっている。あの日は冬支度をする人で繁華街も賑わっていて、悪い意味で目立っていたっけ。

 

 

 それにしても、出会った時も思ったがこの通り名として通っていない通り名。しかも、赤獅子ではなくて、赤獅子の鬣って全然格好良くないことを本人は気がついているのか。

 

「思い出したよ、まぶか。兜悦って名じゃ思い出せなかった。やっぱり、犬の尿が好物のお前にはまぶか位が丁度いい」

「そうそう、まぶかだよ。て…えっ、犬のおしっこが好物?ふ、ふざけるなよ、そんなわけないだろ」

 

 まぶかは全力で首を横に振った。驚いた、違ったのか。あんなに必死に舐めていたからてっきり好物かと。

 

「あの時は…雨も降らなくて水が底をついてたから…生き残るために仕方がなく…って、それで君が水を分けてくれて知り合ったんじゃないか俺たち」

 

 そういえばそうだったかもしれない。それにしても、それ以来関わり合いがなかった僕に今日は一体何のようだろうか。これで会うのは二回目だぞ。一度しか会っていないなら覚えていないのも無理はない。

 

「で、何の用なんだ?」

 

 僕は話の軸を元に戻した。犬の尿についてはもうどうでもいいし、好きな時に舐めたらいい。僕の見ていないところで。僕は早く食料を探しに出かけたいんだ。邪魔しないで欲しい。

 

「いや、やべぇこと起こったよなって世間話しに来ただけなんだけど」

 

 まぶかの言っていることはよく分からなかった。心当たりがない。この貧困街でやばいに当てはまる事なんてたくさんある。今更、わざわざ僕の所まで来て話をすることか。朝早くから押し掛けて、僕の時間を削ってまで話したいことなのかよ。

 

「すまないが、お前の言っていることは要点が掴めないので分かりにくい。やばいとは具体的に何がやばいんだ?」

 

 僕がまぶかにそう訊ねると、彼は怪訝そうな顔をして答えた。

 

「…夙亜知らないのかよ。昨日、此処で人が殺されたんだぜ」

 

 自信満々にそう言い放ったまぶかを見て僕は溜息をついた。驚きはしなかった。でも、此処でと言うことは貧困街の何処かで殺人が起こったということか。それも僕が眠りについた後、夜中のうちに。だったら知らないのも無理はないだろう。そして、本当にどうでもいいことだった。

 

「誰が誰にだ?犯人は特定できていないのか」

 

 まぁだが、何にせよ自分の身を守るためには事件の詳細は知っておきたい。利用できることは利用させてもらう。

 

「それが…分からないんだよなぁ。夜中だったし、目撃者がいなくて」

 

 そう言って、まぶかは唸る。

 まぁ、端から期待はしてなかったので、残念な気持ちはそこまでなかった。それに大方予想はつく。

 多分、暴力団の連中だろう。以前から傷害事件はたびたび起こしていたからな。それに、夜中だから目撃者がいないのではなく、面倒臭いことになる前に消されただけだろう。

 

 此処がいくら無法地帯とはいえ、貧困街の後ろには繁華街がある。殺人が起きたと知れれば流石に保安組織が動き出すだろう。ただ、証拠さえ出なけば保安組織は捜査を中止する。だから目撃者を消した。

 

「でもな、驚いたことに殺された奴ってのが異界人だったんだよ」

 

 まぶかは更に言葉を紡ぐ。これも驚くことではない。むしろ驚いている君に僕は驚いているよ。

 

「それこそよくあることだろう。異界人への差別は貧困街に住む僕たちへの差別よりも酷いからな」

 

 差別。決して良くないことだが、日常的に行われていることだ。非異能者差別、異界人差別、数えれば数えるだけ際限なく上げることができるほど沢山あるが、その中でも異界人への差別は飛び抜け酷いものだ。中には人間がやることとは思えないものまである。もはや道端の石ころ同然。そんな扱いだ。

 いや、それは問題ではない。こういう言い方はあまり良くないが、差別よりも問題視すべきことがある。それは、差別をすることを法律で肯定しているこの国のことだ。異界人は殺されても、どんなに非人道的な扱いをされていても助けてもらえない。助けなくていいと法律で決められているのだ。

 

 今回の事件も、殺されたのが異界人なら納得がいく。目撃者もいないのではなく、事件になっていない。問題視されていない。事件じゃないのだから犯人が存在しない。犯人が存在しないなら目撃者もいない。きっと、公的に〝犯罪〟とはされなかっただろう。原因不明で片付けられた、もしくは道端で死んでいる虫同様、放置されている可能性が高い。結局、この国はそういうふうに出来ている。貧困街が良い例になるだろう。

 

「保安組織は動いてないんだろうな」

 

 僕の呟きを聞いてまぶかは、すかさず反応する。

 

「え、あれ、何でわかるんだ?俺言ってないよな」

 

 なぜ分からないと思うんだ。これくらい常識だろう。僕がおかしいのだろうか。

 

「言わなくても分かるよ。そんなこと」

 

 少し冷たい返答だっただろうか。まぶかの表情が硬くなった気がする。

 

「そ、そっか…まぁ、お前も気をつけろよ夙亜」

 

 そう言って僕の肩を叩くまぶか。気をつけろの意味が分からないな。僕は一応、現世人で貧困街でも強者の部類、もしくは怪しくて近寄りたくない奴の部類に含まれてると思う。実際に此処に来て一年と半年が経つが、あの日以来襲われたことはない。

 

「何が?僕は異界人じゃない。関係ないだろう」

 

 少し疲れた。これから食料集めをしなければならないというのに。まぶかは少し元気過ぎて、接しにくい。貧困街で珍しく明るい奴だ。良い奴なんだが、僕は苦手だ。

 

「そうだけど…」

 

 まぶかはまだ何か言いたそうにしている。これ以上此処にいられるのは困る。

 僕は無理やり話を切り上げることにした。まぶかには悪いが、時間は有限なのでね。

 

「まぁいい。ありがとう。取り敢えず、僕はこれから用事がある。君も、真冬に向けて備える為に早く自分のことをしたほうがいい」

 

 そう言って拠点からまぶかを追い出す。名残惜しそうにこちらを見るが気にしない。人のことを気にしていたら自分が生き残れないからだ。

 

「あの、夙亜…ごめん、またな」

 

 まぶかは申し訳なさそうに頭を下げて僕に謝ると、肩を落として去っていった。

 そんなまぶかを見送ることもせず、僕は身支度を始めるが、少し罪悪感が残る。もう少し話してもよかったかもしれない。でも、一つ許せば次へ次へと許すようになってしまう。適度な関係のままがいいだろう。親しくなりすぎず、だからといって険悪になる必要もないのだから。

 

 身支度と言っても替えの服は殆どないし、髪を整える必要もないので、僕は桶に溜めてある水を一口だけ飲んで拠点を出た。

 見慣れた貧困街には、至る所に雪が降り積もっていて、光が雪に反射してとても明るい。

 それに比べて、朝だというのに人はあまりいない。例の殺人事件の影響だろうか。まぁいい、気を取り直して食料探しを始めよう。

 僕は襤褸布をしっかり巻いて、西の方へと歩き出した。

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灯りもない路地裏に僕は今も住んでいる 灰湯 @haiyu190320

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