三. 八月二四日(金) 二〇時四六分
帆花との帰宅への途は想定よりひどくなかった。最初こそ帆花は暗い表情をしていたが、お菓子の話でなんとか機嫌を直すことに成功した。ドーナツの話題に徐々に笑顔を見せ始め、ついには、あの先輩は怖がらせるために冗談こいたんだよ、まじ性格悪いねと帆花は微笑みながら放言していたので、楽観的な方はお気楽でよろしいことだと強く認識した。
龍生が吐き捨てた「光が丘駅のA3出口、九時集合」。この言葉を心のうちで何度も唱えながら西武池袋線、変って都営大江戸線に乗る。結果、二〇時四五分に着いた。一五分前である。A3出口から外に出ると蒸しっぽく重い空気に包まれた。
出口から少し離れた集団の方に行ってみると仁奈子は紫月を除いて最後の一人だった。光が丘に住んでいる帆花は格別、他のクラスメートはずいぶん気が早いんだな、と思った。そんな中、もしかすると紫月は来ないのかもしれないよ、などと話す声がする。
駅の周りはそこら中に電燈が立っていて明るくなっているが、目と鼻の先にある公園はおそろしいほどに暗い。遠くから見るとそれ自体が森のような佇まいをしている。突然吹きつけた風は夏にしては冷たく、思わず肩をすくませた。
「すまないな、少し遅れたようだ」
紫月がA3出口に姿を現したのは二〇時五五分。セーラー服のまま、仁奈子たちの集まっている所へやってきた。
「何だ、ずいぶんと早く集まっているんだな」
どちらかというと、あれだけ文句を言っていた紫月がここに来た事実の方が意外であった。メンバーを見渡してみると帆花、龍生、顔は知っているが名前は憶えていない外一一名、そして紫月。結局、事前に顔合わせをした全員がいた。
「じゃあ全員来たっぽいので、公園向って出発します」
幹事の龍生が仕切って先頭に立ち、それぞれに二列になって後ろからついていく形になる。仁奈子は帆花の隣に行こうと考えていたが、いつの間にか紫月の隣にいた。
「君も二年E組なのか」
「ええ、そうなりますね」
「名前はなんていうんだ」
「篠田仁奈子です」
「じゃあ仁奈子、仁奈子は怖いのが好きなのか、こんな肝試しなんかに来て」
紫月は特段面白そうな顔をせず、感情のこもっていない調子で一々些細な事を聞いてきた。返答するにも嫌気が差して仁奈子はあくびをしそうになる。だいたい、怖いものが好きなわけではない。
「嫌いではないですけど」
細かい問答はその後もしばらく続いたが、ええとかうんとか適当に返事をするだけにとどめた。ぼんやりしながら歩いていると、もう八月も終るからか、涼風とともにコオロギの鳴き声が聞こえてくる。空を見上げた。月はもう沈んでしまったようだ。
「じゃあ、くじ引きましょう」
龍生の指示にしたがって、光が丘公園についた面々は龍生お手製のくじを引いた。順番はとくに決めなかったが、紫月が先輩として最後に、と言い張っている。うるさいな、と思いながら仁奈子は適当に選んで折られたコピー用紙を開いた。『五』。相手は帆花だ。
「何か、あれだね」
「うん、あれだね」
光が丘公園は意外と広い。コースはメインの道ではなく、横にそれる道に入って、一周するように元の場所に戻る、というもの。何かあると困るので、一個前のペアが見えるか見えないかの距離感で進め、と指示された。龍生もきちんと考えているんだな、と仁奈子は思ったが、紫月の発案だという。考えてみれば当り前だった。
続々とペアが出発していく。仁奈子と帆花、紫月を除いて全員男子なのでむさ苦しい。さすがに手を繋いでいる人はいないらしい、と笑いあっていると紫月がやってきた。
「申し訳ないのだが、ついていってもいいか」
「先輩が、うちらにですか」
帆花が怪訝そうに紫月の顔を覗き込んだ。何しろ、帆花にとって紫月の印象は「まじ性格悪いね」である。
「いや、くじは引いたんだが相手の子が他のペアと一緒に行っちゃったらしくてな」
ひらひらと紙切れを見せる。『一』と書かれた紙にすら力が入っていない。紫月とペアになったやつは逃げたのだろう。近くの街灯の光が逆光となって表情を窺い知ることはできないが、何だか腑抜けた声だった。
「しかし、夜の公園は昼と雰囲気がまるで違うな」
仁奈子と帆花の肩に手を乗せて身を乗り出し、弾んだ声で至極当然のことを言う紫月。チラッと帆花の顔を見ると、苦虫を噛み潰した顔だ。若いのに顔中をしわくちゃにしている。これは最高級品種の苦虫だろう。耐えられなくなったように帆花が口を開けた。
「あの、すみません、トイレ行きます」
一分ほど前に通りがかった公衆便所を目掛けて駆け出した。帆花が用を足したいわけではないのは明らかである。
「トイレ我慢してたのか」
「……さあ」
「一人で行かせない方がよかったか」
「さあ。じゃあちょっと待ちますか」
「うん、そうしよう」
もしかしたら面倒見のいい先輩なのだろうか。回り回って面倒見がいいではなく、面倒な先輩になっているのかもしれない。
「今日、意外と涼しいな」
「昼は暑かったですけどね」
「月は……沈んだのか」
「もう一〇時前ですから」
「仁奈子はどこ住みなんだ」
「富士見台です」
「じゃあ近くていいな」
「先輩はどこなんですか」
「私はあ――」
キャアアアアアアアアアアアアアア
叫び声が空間を切り裂く。仁奈子と紫月は突然鳴り響いたけたたましい音に凍りつき、互いに目で合図を送った。後方、公衆便所の方からである。帆花か? 仁奈子は有無も言わさず駆け出した。
「おい、仁奈子! 待て」
仁奈子は帆花の安否しか頭にない。地面を蹴り飛ばすように走った。
公衆便所との距離が近づくと、便所前の街灯に照らされた人影が徐々にはっきりしてくる。無彩色のパーカーにジーパン、帆花だ。公衆便所の手前で立っている。後ろ姿しか見えず、どんな顔をしているか分からない。
「帆花、帆花、大丈夫なの」
帆花の前に回って、眼鏡を中指で押し上げた。帆花の顔を見る。切れ長の目に浮かぶ黒々とした虹彩。視点こそ定まっているが、虚空を見つめているようだ。躰は小刻みに震えて、口が半開きになっていた。
「帆花、一体何が――」
帆花がただ見つめる一点を辿る。
枝張りの大きな
草の上にある箱は、黒い箱は、箱ではない! 端で天に突き出しているのは足だ。その先からは真っ黒な棒切れ、肢が肢であるとさえ分からない。照り返しで
どっと風が吹く。思わず顔を背けたくなる鋭い臭気。
この世界のありとあらゆる憎しみを無理やり手でねじ込んだ醜い凹凸は、かつて顔であったのだと理解するや否や、仁奈子は膝から崩れ落ちた。
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君と会えた夏、そして春 雪見心理 @myogonichi2004
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