第5話

 背にそっと触れると、彼が笑ってくれたのが分かった。フェルディナントは手を伸ばし、ネーリの身体をこちらへ向かせると、腕の中に抱きしめた。

「……朝が嫌いになりそうだ」

 お前から手を放さなきゃならない。

「フレディにお願いしたいことがあったんだ。思い出した……。あのね、僕今度、少し大きな絵を描いてみたいんだ。それで駐屯地に場所を借りたいなと思って」

 どんなに悲しいことや、幸せなことがあっても、夜が去り、朝が来れば絵の話をするネーリに、フェルディナントは微笑った。でも、彼のそんなところがとても好きだ。

「好きな所を使っていいよ」

 トロイと同じように彼はすぐ言ってくれた。

「じゃあ、フェリックスがいつもいる、倉庫そのまま使ってもいい?」

「フェリックスがいつもいるって……あの薪の倉庫か?」

「うん」

「勿論いいけど……新しい騎士館地区の建物を使ってもいいんだぞ。まだ何もどう使うか決まってない。誰が使うんだっていうダンスホールみたいなのもあるし、良かったら……」

 ネーリは頷く。

「ありがとう、フレディ。でも僕あそこが好きで。あそこならフェリックスも暇なとき中に入って来て絵が見れるでしょ」

 目を瞬かせてから、そんな理由で? という顔をすぐにフェルディナントは緩めた。

「いいよ。お前が描きたいところならどこだっていい。俺も楽しみだ。大きな絵ってどれくらい? あのエデンの園の絵より大きい?」

「あの二倍くらいで考えてる。横長の構図だよ」

 フェルディナントは驚いた顔をしたが、すぐに優しいキスをまた額にくれた。

「フレディって一緒に眠った次の日の朝ってすごく手も唇もやさしいね。いつもそうなの?」

 優しい手が、鼻を摘まんで来た。

「お前だけに決まってるだろ。お前は特別なんだから、他の人とか、お前は気にしないでいいんだ」

「……うん……ごめんね」

 笑いながらネーリが言った。

 小さく息をついて、フェルディナントはもう一度深くネーリの身体を両腕で抱きしめ直す。こんなに翌日の朝、明るくなるまで、離さないでダラダラだらしなく寝台に寝転がってるなんて、彼はネーリ相手以外にしたことはない。

(だって仕方ない。手放したくないんだ)

 普通は夜じゅう触れば、もう気が済むものだ。むしろ朝になってまでずっとくっついてなんていられたくない。

「……くっついてると言えば、このベッドだけど。お前、まえは『手の届く距離』くらいにしたいって言わなかったか? どう考えてもこれは……完全にくっついてるな?」

「うん。そうしようと思ったんだけど、竜騎兵のひとに頼んだら、どうせもっと近づけたくなるなって思って。そしたら何度も頼んで迷惑でしょ。だから先回りして、完全にくっつけてもらったんだよ。嫌だった?」

「ばっ! ……嫌だなんて一言も言ってない」

 思わず身を起こしかけて、ぼふ! とフェルディナントは戻った。

「すごく広くなったし、ゴロゴロするだけでフレディの側にいけるね」

 ネーリがと柔らかい笑顔でそんなことを言ったのでフェルディナントは赤くなった。

 なんだよ。その可愛い理由は。

「……お前がそうしたいなら、別に俺はいい」

 ありがとう、とネーリは静かに微笑んだ。

「今度の絵、僕が幼いころに行った、神聖ローマ帝国のあの竜の森を思い出して描きたいなって思ってるの」

「王家の森か?」

「うん。当時はホント僕もまだ自分がどこにいるのかも分からないくらい幼かったから、あんまり詳しくは覚えてないんだけど……。でも、描いてみたいんだ。思い出しながら。

あの聖域みたいに静かで穏やかな空気や、湖畔の風景……雰囲気は忘れてない。覚えてるから。フレディは、行ったことあるんだよね?」

「竜騎兵だから何度も」

「そっか。……じゃあ、僕の絵が君のものと同じか、答え合わせは君がしてね」

「お前が描いたものが正解なんだ。想いを込めて描きたいものを書ければ、間違いなんてない」

 ネーリは一瞬目を瞬かせたが、身じろいで、フェルディナントの額に優しく口づけで触れた。フェルディナントは彼の胸に顔を埋め、強く抱きしめる。

「ネーリ。 ……お前の本当の名前を知りたいと俺が言ったら……教えてくれるか?」

 少し驚いたが、ラファエルの顔が過った。しかし、彼はネーリの秘密を喜んで話すような人ではないと確信があったので、すぐにネーリは頷いた。

 ラファエルが話したのはネーリ・バルネチアが偽名であることまでだろう。

「本当に、君がそれを知りたいと望むなら、話すよ。でも僕の気持ちは、ただ、君には僕をネーリって呼んでほしいって思ってる。ダメなら構わないけど」

「……たかが名前だぞ」

「そう、ただの名前」

 ネーリは優しく微笑った。

自分をジィナイースと呼んでくれる人は、もはやラファエル・イーシャ以外にこの世にはいなくなった。だから別に、もういいのだ。その名前は。

 ネーリという名前で生きて行けば、何の問題もない。

「大切なのはそれ自体じゃなくて、誰がどう呼んでくれるかなんだと思う……」

「ネーリ……」

「だから、君が本当に知りたいなら、話す……。僕の名前が君への秘密だと、思われたくはないから」

 フェルディナントはネーリを抱きしめ、慰めるようなキスを額に落とす。

「いいよ。お前が話してもいいと思ったら話してくれればいい。猛烈に聞きたいと思ったわけじゃない。お前がネーリという名を、大切に思っていないなら……こうやって触れる時は、本当の名前でそうしてやりたいと思っただけだ。お前がネーリという名が好きなら、俺はいいんだ。言っただろ。お前の絵が好きで、名前がそこに在るかどうかが重要じゃないって」

 うん、と自分を抱きしめてくれるフェルディナントに、ネーリも腕を伸ばす。

 もう朝で、

 あたりは明るくて、

 腕を伸ばせばすぐお互いの身体に届く。抱き合える。

(……しあわせすぎる)

 フェルディナントはずっとこうしていたい、と思った。

「お前が本当は話してもいいんだと、俺に対しての秘密じゃないんだと言ってくれただけで、気は済んだ。……あいつに少し嫉妬しただけだ」

「ラファエルに会ったんだね」

「……。幼いころのお前を知っていると言っていた。詳しいことは話さなかったが。一時ローマの城に身を寄せていた時に、出会って少し遊んだとか……多分、それも祖父がらみで行った時のことなんだろ?」

「うん。僕の小さい頃のこと、知ってるの多分もう、ラファエルだけだから……。彼がヴェネトに来てて、本当に僕も驚いたんだよ」

「お前の絵の話もした。

 お前の絵は光が印象的だけど、あれは風を描いてるんだって。

 風が吹くと木々が揺れて、雲が動く。そして光の道が出来る。お前の絵が美しいのは風のある風景だからなんだと。……言葉を尽くして、お前の絵を誉めれる奴が少しだけ羨ましいと思った。俺は、きっとお前の絵を見た感動を、半分も上手く伝えられてない」

「そんなことないよ、フレディ」

 ネーリは優しくフェルディナントの髪を撫でた。

 慰めること。

 貴方はそれでいいんだよと、

 今いる貴方もいいのだと、その仕草は教えてくれる。

 フェルディナントがそうしてくれると嬉しいから、ネーリもそうした。

「言葉だけが全てじゃないんじゃないかな」

 鼻先に見つめ合った。

「君が向けてくれる眼差しとか、優しい触れ方とか。ちゃんと僕の絵が大好きだって、僕に伝えてくれるよ」

 まだ朝日の射し込まない、静かな白い、空気の中で微笑むネーリに焦がれて、フェルディナントはまた火が付いたりしないように慎重に、そっと唇を重ねに行った。優しいキスを受けながら、キスにも色んなキスがあるんだなあと幸せに思う。

「ね、フレディ教えて。……神聖ローマ帝国のあの竜の森、王都にあるんだよね? 僕詳しく覚えてないけど、すごく小さい時に行って……あの時とは、皇帝は変わってるのかな?

 神聖ローマ帝国は王様が変わると、遷都する風習があるって聞いたことがあるから、僕の記憶に少しだけあるあの森と、フレディが知ってる森は違うのかな? 王宮の側に、必ず竜の棲む森があるの?」

 好奇心に瞳を輝かせているネーリに優しい目を向けてやった。

「竜というのは、古の時代から『精霊の亜種』と呼ばれているんだ」

「精霊の……亜種?」

「そう。人の歴史が始まるずっと前のこと、神話の時代だ。地上に住んでいたのは精霊を帯びる神々や、精霊たちだったらしい。竜は動物というより、精霊寄りの生物なんだ。精霊というのは自由に世界を行き来しているように見えても、厳格な枠組みを守って動いている。夜に月が上り、朝に太陽が昇る、そういう世界の決め事の中で。精霊は奔放じゃなく、つまり居場所をちゃんと大地に見つける。湖に水の精霊が宿り、空に風の精霊があるように。だから精霊の亜種である竜も、生まれ育った森を変えることを、そんなに善しとしない」

 初めて聞く、竜の話だ。

 ネーリは瞳を輝かせる。

 神聖ローマ帝国にしか存在しない、特別な生き物。

「確かに神聖ローマ帝国の皇帝は、新しく即位すると、古い時代の慣習の束縛を嫌い、遷都を行う風習がある。でも王都がどこに移ろうと、竜の棲む森は神聖ローマ帝国ではたった一つだよ。たまたま今の王都はその森の側に王宮が建てられた。そして、お前の幼いころなら、十年前くらいのことのはずだから、今の皇帝陛下は父上から玉座を継がれたけど、周辺の列強に対抗するために古い時代の慣習を束縛と思うより、強い守りとされることを望んだんだ。だからこの十年、皇帝は変わったが……王都は変わっていない。ずっとヴィ―ナー・ノイシュタットのままだ」

「言葉では全て伝えられないと言っていたけど……フレディは言葉で伝えるのもとても上手いと思うよ。僕が聞きたいなあって思うこと、すべて今、教えてくれた。不思議な話だね。本当に神話みたい。フェリックス……あの子は精霊の亜種、だったんだ。神聖ローマ帝国に戻ると、フェリックスは竜の森に帰るの?」

 ネーリの顔を見下ろす。

「それとも国に戻っても、あの子はフレディのお家にいるの?」

 ああ、とフェルディナントは笑った。

「基本的には竜の森に帰るよ。その方があいつらも伸び伸び休めるし。ただヴェネトと違って市街の上も、竜騎兵は飛ぶことを国では許されてる。だから特別な許可を取れば、竜騎兵なら邸宅に竜を留まらせることは出来る。竜騎兵以外が飼育することは原則禁止されてる。あいつらは愛玩動物ではないから」

「じゃあ、竜がいる家があったら、その家は必ず竜騎兵の家って分かるんだね」

「そういうことになる。……許可をもらってフェリックスを連れて来るよ」

 ネーリはフェルディナントを見上げた。触らずにいられないみたいに、フェルディナントの指がネーリの柔らかい髪に触れた。

「お前がもし、一緒に国に戻ってくれて、俺の屋敷に来てくれるなら。許可をもらってフェリックスも庭に連れて来る」

「ほんと?」

 朝日が柔らかく射し込んだ。

「ああ。……おまえ、そうしたいんだろ?」

「フレディと、ぼくと、フェリックスも一緒だったら幸せだなあって思って」

「俺も色んなことを願われたことあるけど、竜と一緒に住みたいって言った奴はお前が初めてだよ」

 そうなんだ、とネーリは微笑った。

「フェリックスが好きか」

 本当は誰しも、恐れて怖がる生き物なのに。

 不思議な青年だ。

 大切に想うものが、他の人間とネーリはどこか違う所がある。

「大好き。今のフレディの話を聞いて、もっと好きになった。

 自分の居場所を知ってる、精霊の亜種……。

 あの子は君の側が自分の居場所だと思ってる。大好きだから。

 僕たちきっと仲良く出来るね」

 ネーリを大切に、抱きしめた。

 彼が少しずつ、神聖ローマ帝国に来る日のことを考えてくれている。そのことが堪らないほど嬉しかった。



【終】




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海に沈むジグラート22 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説