第4話

「ネーリ?」

 明かりを側に置いて、何も描いてない真白いキャンバスを眺めながら、座り込んでいたネーリは振り返った。

「フレディー おかえりなさい」

 ネーリが振り返り笑顔を見せると、それには一瞬フェルディナントも笑みを見せたが、すぐに下階を除くとこの階には自分たちしかいなくて、まだ完全に完成していない騎士館の静かな気配の中、仕事を終わらせて来たことを示す、首元のスカーフを解いた姿で、黒い上着を脇に抱えて、彼は部屋に入って来た。

 やって来て、絨毯の上とはいえ、床にじかに座っているネーリの頭を優しく撫でた。

「トロイから聞いた。スペイン駐屯地での事件をお前に聞かせてしまったと。かなり不安げな表情をしていたから心配だと気にしてた」

 撫でられて、ネーリは首を振って笑った。

 それは、楽しい話ではないけど、聞きたがったのは自分だ。話したトロイのせいではない。

「聞きたがったのは僕だから。気にしないでって言っておいてね」

 天青石の瞳で数秒ネーリを見つめたあと、多分、彼と違ってそんな地べたに座る習慣などないフェルディナントが、上着を脇において床に腰を下ろして、ネーリを抱き寄せて来た。

「わかった。……おいで」

 ネーリは目を瞬かせる。フェルディナントに抱きしめられたことはもう何度もあるけど、今のはいつもと違う。

(今は、慰めるような感じだった)

 ネーリの祖父はよく、撫でたり抱きしめたりしてくれる人だった。だからそうされることの嬉しさもネーリは知ってる。でもそうされる人を失ってから随分時が経って、忘れたような、知らなかった記憶になって。


(おじいちゃん)


 王という複雑な場所に生きたあの人が、自分を慰めるように抱きしめていることがあったんだな、と今思った。

 可哀想に、と背を優しく撫でる。もう共に生きれない未来を予期して、そうしていたのだろうか?

「……なんだ?」

 ネーリはフェルディナントの肩に頬を預けた。

 笑ったのを、不思議に思ったらしい。

「……ううん。慰めたみたいに感じたから」

「みたいじゃない。慰めたんだ」

「そっか」

「嫌な話だったろうが、『矢』のことは助かった。俺たちは珍しい武器だから犯人は一人だと思い込んでたんだ。さっき話を聞いてから今まで発見した『矢』を調べさせた。警邏隊襲撃の事件現場の証拠品として残ってるものがあったから」

「うん」

「あの『矢』は残ってるものは、長いものと短いもの、二つあったが、二種類だけだった。

二種類に完全に分かれたよ。あれは殺しの道具だから、一人の人間が使ってるとは確かに限らないが……ただ、珍しいものだからあの道具を扱う人間が二人いると考えてもおかしくはない。俺たちは今まで仮面の男一人だと思ってたからな……仮面の男が二人いるなんて、考えもしなかった。大きな手掛かりになるかもしれない。感謝してる」

 ネーリはフェルディナントの背に手を回した。

「……少しはフレディたちの役に立てたのかな?」

 フェルディナントが目を瞬かせる。

 なんだか少し眠そうな感じだ。幼い感じでそんな風に言ったネーリの柔らかい髪を撫でる。

(可愛いな。眠かったのかな)

 自分の帰りを待っていたのだろうか、と都合のいいことを考えたが、まあたまには都合いい解釈だって悪くはないだろう。フェルディナントは珍しく、前向きに都合よく捉えることにする。

「あの短い方の『矢』、……フレディが狙われたんだよね?」

「ああ。……まああんまり思い出したくはないけどな」

「……怖かったよね」

「こわ……、違う! 遅れをとったからだ!」

 微睡むような空気だったのにそこだけきちんと厳しく訂正して来たフェルディナントに、ネーリは一瞬顔を上げた。

「怖がってなんかない。次にあいつに会った時は必ず捕まえてやるからな」

「からかったんじゃないよ」

「騎士が敵なんか怖がるか」

「珍しい。フレディが子供みたいにムキになってる。あのね、フレディは勇敢なひとだよ。ちゃんと分かってる」

「……別にムキになったわけじゃないが……なんだ……?」

 ネーリがフェルディナントの首筋を少し気にした。

「かなり深くまで突き刺さったって聞いたから。ヴェネトに来てからならまだそんな昔じゃない。まだ傷あるんだよね」

 心配そうな顔をしたネーリに、一瞬軍人らしい、険しい顔をしていたフェルディナントはすぐ表情を緩めてくれた。

「首筋じゃなくて、肩だ。このへん」

 シャツのボタンを一つだけ緩め、肩を見せた。

 もう完全に傷は塞がってる、と安心させる為に見せたのだが、じっと傷あとを見ていたネーリが、そっと傷痕に唇を触れさせたのだった。まるでキスするように。フェルディナントはそんなことされると思っておらず、赤面したが、ネーリは真剣な表情でそうしたようだった。心から心配してくれてるのと、無事でよかった、と伝えて来てくれてるのが分かったが、ネーリの柔らかい唇が肌に触れて、一撃で胸が締め付けられる。

 髪に触れて、そっと撫でると、ネーリが顔を上げこちらを見てきた。

 すかさず、フェルディナントは口づけた。

「……ん、」

 僅かにネーリの唇が動いて、応えてくれたように感じられて、幸せで堪らなくなる。

 ああ、こんな止まらなくなってる場合じゃないのに。

 自分で唇を奪っといてなんだが、このままキスなんかし合ってたら絶対またこいつが欲しくなってしまう、と危機感を覚え、フェルディナントは決死の覚悟で唇を放した。

 でも、完全に離れたくなくて、額を触れ合わせる。

 お互いの額は熱を帯びたように熱く感じられた。

 幸せを感じる。

 このまま口づけを繰り返して、いつかのようにネーリを押し倒して、抱き合って、一つになってしまいたい、という欲求がこみ上げる。想像すると、ダメだ。

「……すまない、これ以上触れてると本当にダメだ。ダメだとか、騎士が泣き言は言いたくないけど」

 ネーリの方を、ほんと情けないほどの気持ちで見ると、大抵こういう時、上手く行かなかった過去で、相手の女性が見せた怒りや悲しみや、男の臆病を心底嫌悪した表情――そのどれもと違う、きっと彼しか浮かべられない優しい表情で、自分を見てくれていることに気付き、大好きだと彼は思った。



(ネーリ。お前が、

 きっと誰よりも、

 永遠に大好きだ)


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