つま先の昭和基地にて

田中鈴木

第1話

 調理職人の朝は早い。

 いや言ってみたかっただけで俺は調理職人ではない。調理を担当しているので午前六時には朝食準備を始めるが、身分自体は海上自衛官だ。ここ南極昭和基地で越冬するのは五十人程度でしかないので、千人分を調理しなければならない本土の基地よりはずっと楽だ。一応定時と休日は定められているが、勤務時間はあってないようなもの。なにせ外に出たところで極夜で真っ暗だし雪と氷以外は何もない。休日だからどっかに行こうと言ったって、この辺にあるのは竜の爪先くらいだ。

 そう、竜の爪先。ここ、昭和基地の今の存在意義だ。地球外、というか太陽系外生命体である竜は、今のところ二十億年前から地球にやって来ていたことが分かっている。どこから来たのか、今もどこかにいるのかは不明。最後に地球にやって来たのは二千五百年前。いくつかの古代文明が滅び、新しい文明が生まれる契機になったとされるそれは、今も内モンゴル自治区からチベットにかけての広大な範囲にその巨体の痕跡を残している。考古学的・地学的研究から竜の飛来自体は珍しいことではないと言われているが、生きている竜は一匹も存在しない。そう思われてきた。

 ここ南極で竜が発見されたのは二十世紀のことだ。一九世紀に南極大陸が発見され、各国が南極探検隊を派遣し南極点に国旗を突き立てようと競争していた頃。上陸地点の氷河先端から持ち帰ったサンプルから、竜にしか存在しない結晶構造の珪素化合物が発見された。それ自体は珍しい話でもない。珪素で外殻を形成する竜の化石は世界中に分布しているし、過去に南極大陸に飛来した個体がいて、長い歳月をかけて氷河に削られ他の岩石と一緒に堆積したとしても何の不思議もない。いくつか論文が書かれた後は、南極の竜は大して人々の関心を集める話題でもなく忘れ去られていった。

 再び南極の竜が注目を集めたのは二十世紀も後半に入ってから。南極の平和利用と学術研究のために各国が南極に基地を持ち、日本もここに昭和基地を建設した。竜のサンプルを採集した地点になったのは、そこが上陸に最適とまではいかなくても過去の探検隊が接岸し拠点を構築できた場所だった、というのが大きい。まあ、その辺は南極探検の歴史を読んでほしい。

 さて、昭和基地の周辺を探索すること数年。一際大きな竜由来の珪素化合物が発見された。地上に出ている大きさだけで標高百メートル超。地質調査で地中に埋まっているのが香川県くらいの大きさになることが分かった。竜はたしかに巨大だが、ここまで大きな個体はそうそうない。さらに調査が進められ、それが足趾の一部であること、地表に出ているのが爪に相当する部分であること、さらには南極大陸全体を寝床にするかのようにその巨体が埋まっていることが分かった。各国との共同研究で詳細な竜の地図が作成されていくと、昭和基地は竜がちょうど爪先で蹴っ飛ばしたような位置に建設されているのが見えてきた。その巨体のほとんどが分厚い氷とその下の地層に埋もれ、爪先だけを突き出した姿を想像するとなんだか可愛らしい気もする。

 そんなこんなで南極の研究テーマの一つとして竜も追加され、継続的な観測が行われることとなった。まあ竜化石自体はそれなりにありふれた存在だし、当初はそこまで熱心な研究はされていなかった。だが、データが積み上がっていくうちに他の竜化石には無い特徴が見つかった。昭和基地の近くに突き出した爪先が、少しずつ伸びているのだ。年にほんの数ミリ。その巨大さからしたら誤差のようなものだが、竜化石は風化で削れることはあっても大きくなったりはしない。地層の動きとも矛盾するデータは研究者達を唸らせた。そうこうしているうちに、今度は竜化石の胴体に相当する部分で熱源反応を示唆するデータが集まりだした。火山活動を思わせるそれは、やはり他の地学的な所見とは矛盾していた。そのうち、研究者の一人が言った。

「この竜、生きてね?」

 と。

 いやいやまさかそんな。いやいや。いや……?最初は一笑に付していた学会も、「生きている」前提でデータ収集を進めていくにつれて自信なさげなものに変わっていき、やがて疑念は学説の一つに、そして三十年ほどの歳月をかけて確信へと変わっていった。

 歴史の彼方に消滅した存在だったはずの系外生命体が生きていた。そのニュースは世界中に衝撃を与えた。日本が予算関係でもたもたしているうちに昭和基地の周囲、というか竜の爪先の周囲には各国の研究基地が建設されていき、この辺りは一気に賑やかになった。いや賑やかにと言ったって田舎町の方がよっぽど栄えているレベルだが、南極としては、の話だ。今も真っ暗闇の猛吹雪の中を一キロほど進めば、隣の基地に辿り着く。広い南極ではマンションの隣の部屋くらいの距離感と言っていいだろう。

 俺は基地の維持要員として派遣されている自衛官なので詳しくは知らないが、竜の推定年齢は十億歳。ただしこれは地球に飛来してからの期間で、その前に何億年生きていたのかは分からない。竜化石と同様に外殻は珪素化合物でできているが、体内のボウリング調査では鉄を中心とした化合物も見つかっている。その巨体の下端は地殻を突き抜け上部マントル層に達しているとみられるが、仮にも生命体が高圧高温にどう耐えているのかは不明。体内に熱源はあるものの、その生命活動がどのように維持されているのかも不明。ただ、爪の観測から今も成長しているのは間違いないという。今が休眠しているような状態なのか、それとも数億年を生きる生命体としてはこれが普通なのかは分からないが、年間数ミリずつ大きくなっている以外は体動は無し。昭和基地は最初期から竜を観測していた拠点として、今も動かぬ竜を監視し続けている。


 七時を回ると、食堂にはぽつぽつ人が集まってくる。夏の間は精神衛生のため皆で集まって「いただきます」をするのが推奨されているが、冬は維持管理要員は二交代制で入れ替わり立ち替わり働いているし、残りは全く娯楽がなくても研究さえできれば良いという変人しかいない。朝食は七時から九時の間に各自が都合を付けて食べる、という感じだ。せいぜい五十人分の食事なので、用意さえ済んでしまえば俺の手は空く。スマホをいじりながらテレビで流れるニュースをぼんやり眺めて時間を潰す。昔は劣悪だったネット環境も、今は衛星通信が充実していてそこそこ安定して使える。テレビ番組もネット経由で日本とのタイムラグ無しに視聴できるし、基地の中にいる限りは艦艇の乗船勤務よりは充実している。

「お、今日は豚汁定食?いいねえ」

 厨房に座る俺に話し掛けてきたのは、研究員の田賀さんだ。通称「ヌシ」。この昭和基地に何十年も住んでいるという噂の、ずーっと竜の爪先を眺め続けてきた竜研究の第一人者だ。ただ、ずーっと南極にいるので学会では論文でしか名前を見ない、もし実物を見かけたら幸運が訪れるとかいう感じの扱いらしい。

「昼は鰯の竜田揚げにしようかと」

「いいねえ」

 田賀さんは何を食べても「いいねえ」と言う。正直、食事に興味がないんだろうと思っている。

「竜はどうですか」

「どうもこうもないね。何も変わらんよ。変わっちゃ困るけどさ」

 そう言って田賀さんはテレビの正面に陣取り、豚汁と梅干し、それと解凍したひじき煮物の豚汁定食を食べ始めた。

 変わっちゃ困る、か。

 実際、この巨大な竜が動いたらどうなるのか。ほんの少し爪先を伸ばしただけで、周辺に建設された各国の基地は全滅する。寝返りでも打とうものなら分厚く積もった氷の層が崩壊して一気に周辺海域に流れ込み、地球規模の気候変動は避けられない。起き上がった後の大穴にはマントルが露出しているわけだし、これだけの巨大質量が移動したら地軸がブレるとも言われている。怪獣映画どころではない、人類存亡の危機だ。昭和基地の役割にはその未曾有の大災害の兆候を観測するというのも含まれているのだが、仮に兆候を発見できたところで人類にできることなど何もない。地球上に存在する核兵器全部をぶち込んだところで、爪切り程度にしかならないだろう。

 想像もできないようなはるか昔、気が遠くなるほどの距離を旅してこのゴマつぶみたいな地球に辿り着き、今は玉乗りしたまま寝ている格好の竜のことを思う。彼にとっては、それも俺が日本から南極に来て、こうして飯を作っているくらいの出来事なんだろうか。

 椅子から立ち上がり、下膳された食器をシンクに沈めていく。そういえば俺もそろそろ爪を切らないとな。竜の爪先でそんなことを考えながら、何も変わらぬ昭和基地での一日がゆっくり始まった。

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つま先の昭和基地にて 田中鈴木 @tanaka_suzuki

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