第6話 魔獣
ぐるぐると黒いマナが渦を巻いている。
まるで地面から立ち昇る魔力のヘドロだ。
小さなつむじ風等ではない。
もはやちょっとした小型の竜巻のようにすら見える。
何度かマナの汚染された土地は見たことがあるが……。
これは桁が違う。汚染というより、もはや汚泥そのものだ。
リルは、ドン引くわたしの後ろで神妙な顔で眉間に皺を寄せている。
おそらく彼女も事態の深刻さに気付いたのだろう。
いつも緩い表情が珍しく固い。
こんな彼女の顔は久しぶりに見たかもしれない。
そんな折に、隣から猫耳少女の能天気な声が響いてきた。
「──あらら、ずいぶん成長したねぇ。この短期間で」
背後からの、パルメののんびりとした声。
その呑気な口調には、さすがのわたしも違和感を感じる。
誰が見たってわかる。
この汚染は信じられないほど禍々しい気配をかもし出している。
パルメだって感覚に優れた獣人なのだ。
このおぞましさは直感で理解しているはずなのに。
(……なんでパルメさんはこれを見て、こんなに呑気にしていられるんだ……?)
尽きない疑問を心の中で呟く。
おそらく、もうほとんど時間はない。
今すぐにでも魔獣が生まれ落ちるはずだ。
それも、野良犬や野生の熊だとか、そんな甘っちょろい物ではない。
しっかりと上質で、強力で、恐ろしい魔獣が──。
「……パ、パルメさん。とにかく今は逃げましょう……。これもう無理ですよ……!侵攻が進みすぎてて浄化どころの話じゃない……」
開いた唇が少し震える。
既にマナの流れを整えればなんとかなるフェーズはとっくに過ぎている。
傷口が小さいうちなら、周りの汚れを取り除いて自然治癒に任せることもできただろう。
だがここまでくるとそれはもはや不可能だ。
医療で例えるなら大規模な手術が必要な段階である。
ここから先は素人や一般人の出る幕ではない。
「……パルメさん──!」
返事を返さないパルメに、今度は強めに彼女の名を呼ぶ。
目の前で魔力の泥が形を持ち始める。
そしてそのままぐんぐんと大きく育っていく。
──あれは、ヤバい。
魔術師として感覚でわかる。
何かを中心に濃い魔力が形を成していっているのだ。
依代というか、コアのようなものがあるのだろうか。
それを中核に、強力な魔獣が一匹──、今まさにこの場所に生まれ出でようとしている。
まさに一刻の猶予もない。
「あれは……、もうダメです……!もうすぐ規格外な魔獣が生まれます!はやくここから離れましょう──!」
そんな慌てたわたしの言葉。
それを遮るようにして──。
パルメは、ふん、と鼻を鳴らして頷いた。
「そっかぁ。魔獣が出てくるんだ。なら仕方ないよね。──そうなるとさぁ。これはもう、戦って魔獣を倒すしかないよねぇ」
まるで、当然のことのように彼女は告げた。
……倒す?……誰が、何を?
その意外過ぎる返答を反芻して理解したとき。
わたしはぎょっとして彼女を見返した。
「し、正気ですか……!?戦う!?野良犬じゃないんですよ!?ここから離れて、早く治安局に連絡を……」
「……ふーん、なるほどなるほど」
パルメは及び腰のわたしの隣に立つ。
そして、上から覗き込むようにして、こちらを見つめた。
猫のように細まる瞳孔──。
その眼光の鋭さに、思わずぎくりと背中を丸める。
彼女は大仰に両腕を開くと、小首を傾げて言った。
「ま、ラフィが帰りたいならべつにいいよ?無理強いしても仕方ないしね。でもその代わり、報酬は無しだ。わたしの依頼はこれの対処だからね」
「ぐっ………!」
たしかにそういう内容の依頼だった。
依頼を達成できないのなら報酬を得られない。
それは仕方がない。
だが、それよりも納得がいかないのはパルメの態度だ。
明らかにおかしい。
凶悪な魔獣が目の前にあらわれようとしている。
それもそこらの雑魚ではなく怪物の類だ。
事前の対処は間に合わなかったし、当初の計画は破綻した。猛獣の檻は今まさに破られる寸前だ。
それなのに、パルメはなぜこんなに冷静なのだろうか。
(……いや、それは少し違うか……)
むしろ彼女のまとう空気は、普段より僅かに高揚しているように見えるのだ。
──そう。
まるでアレと戦いたがっているかのような、そんな不可思議な様子に見える。
いったいどういうつもりなんだ……。
わたしは上目遣いに彼女の表情を伺う。
彼女の口の端。
白い犬歯を覗かせて、微笑を浮かべている彼女の口元に気づいた。
その猫耳少女の姿から、わたしはようやく察してしまう。
(もしかして……、パルメさんは、最初からこのつもりで……?)
そう考えると納得がいく。
魔獣が生まれる寸前なことも、この魔獣が強力なことも、浄化が間に合わないことも──。
彼女は、最初から全部知っていた。
……何が目的かなんてわからない。
でも、事実だけは理解できる。
この獣人の少女は、初めからこいつと戦うつもりで、わたしたちに依頼を持ちかけてきたのだ。
「──だぁから言ったんだよ、ラフィ。コイツを信用するなってよぉ」
「うぐ……」
背後から投げかけられる、リルの呆れたような声。
普段よりずっと気怠げだ。
その言葉に反応する余裕もなく、わたしは目の前の汚染溜まりから一歩後ずさった。
「リ、リル……。今ならまだ間に合います……。ここから撤退しましょう」
背後の魔族の少女に呟く。
パルメには悪いが、もう付き合ってはいられない。
今はここから離れるべきだ。
あの脅威に二人とも叩き潰される前に。
そう、全ては命あっての物種だ。
死んでしまっては何の意味もない。
だが、リルは返事を返さない。
その代わり、そんなわたしにむかって、パルメの平坦な問いかけが投げかけられた。
「──なぁに?本当に辞めちゃうの?報酬はいらないのかな?」
「う………」
「新しい車も欲しいよねぇ。最後までちゃんとやるって言ったよね?きちんと契約もしたはずだ」
パルメの指の間で、ぴらぴらと紙の契約書が揺れる。
そういえば、請負の契約には違約金も発生する。
依頼を途中で放り出した場合、いったいいくらの額になるのだろうか……。
金額の大小に関わらず、それは間違いなくわたしたちの懐には致命的だ。
貯金もろくに無い。
そうなると、もはや怪しい金貸しから借金するしかなくなる。
それだけはダメだ。
本格的に沼へと沈んでいく選択だ。
「うぅ……」
命、金、命、金……。
ぐるぐると二つの単語が頭の中をループする。
堂々巡りで頭がショートしそうだ。
助けを求めるようにリルを見る。
すると、魔族の少女はやれやれと肩をすくめて首を振った。
「あたしの忠告無視してさぁ。パルメの誘いに乗ったのはどこの誰だっけなぁ?」
「うぐっ……」
根に持たれていたらしい。
ずっと不機嫌だったのはこのせいか。
だが、たしかに今回の件はわたしが悪い。
甘言と知りつつ受け入れたのはわたし自身なのだから。
「危険な仕事にまきこんですみません……。わたしが迂闊でした……」
「………」
少女はむすりとした顔でそっぽを向く。
彼女が怒るのも無理はない。
わたしは付き合いの長い相棒より、目の前にぶら下げられた人参に飛びついたのだ。
リルにしてみれば、どうあっても気持ちの良いものではない。
リルはしばらくこちらをじっと横目で見つめる。
そして、ぼそりと一言呟いた。
「……酒」
「……え?」
「酒だよ、酒」
「は、はぁ……」
……さけ?お酒のことか?
聞き慣れつつも意外なその単語に、思わず聞き返してしまった。
リルは、ふん、と鼻を鳴らして腕を組む。
そして数秒ののち、再び口を開いた。
「……終わったら酒奢れ。もちろんあたしの好きなだけなぁ。全部ラフィの取り分から出せよ」
つん、と明後日の方を向くリルの横顔。
わたしは、はっとして彼女の言葉に追いすがる。
「わ、わかりました!好きなだけ飲んでいいです、全部わたしが出します……!だから──」
そこまで言ったとき──。
リルが、にんまり笑顔になっていることに気がついた。
彼女は満足そうに息をつくと、大きく頷いた。
「よぉし、約束したからなぁ?ちゃんと守ってもらうぜぃ。ようやく、たらふく美味い酒が飲めるぜ」
あっさりと態度を変えるリルだった。
もしかして、最初からこれが狙いだったのか……?
彼女は大きく腕を回しながら前に出る。
目の前には強大な魔獣。
その姿を遮るように、彼女は立ちふさがる。
そして、わたしの方へと小気味よく振り返った。
「──ま、心配すんなよ、ラフィ。あたしたちならやれるさ」
ごきりと拳を鳴らす魔族の少女。
見慣れた頼もしい後ろ姿だった。
小さな背中がやけに大きく見える。
なんだか少しだけ胸がどきどきした。
「──それにさ。ラフィが目指してる物凄い魔術師ってのはさぁ。こんなハードルくらい余裕で超えてくもんなんだろ?」
「───っ」
──思わず息を呑んだ。
……そうだ。
リルの言う通りだ。
こんなところで臆していては、父の後ろ姿に追いつくことは愚か、見返してやることなんて絶対にできやしない。
「………。」
ごくりと唾を飲み込む。
そして、意識を集中し、体中のマナをかき集めていく。
頼れる相棒の後ろで、呪文詠唱のための魔力を高めていく。
出力は最大限だ。
今のわたしにできる精一杯をぶつけよう。
相手はたかが魔獣一匹。
わたしたちのコンビならどうということはない。
わたしは大魔導士モルディアスの娘。
詠唱魔術の復興を目指す者だ。
こんなところで立ち止まってなどいられない。
(覚悟を決めろ、わたし……!)
ぎゅっと拳を握り込む。
大きく息を吸い、そして吐き出した。
ビビるな。
わたしは一人じゃない。
自分には、頼れる相棒がいるのだから。
そんなわたしたちの様子を眺めていたパルメが、ふいにくすりと笑顔を見せた。
先程までと違った、裏表を感じない良い笑顔だった。
「……ま、安心しなよ。焚き付けた分、あたしもちゃんと手伝うからさ。
──さーて。来るよ、二人とも!」
目の前で地鳴りが起き、風が唸る。
周囲の建物がきしみ、がらがらと崩れ落ちていく。
そして次の瞬間──、すぐさま静寂が訪れた。
泥の塊が剥がれ落ちる。
そして、黒い渦の中から魔獣の本体が姿を現し始めた。
──マナ汚染は周囲のあらゆるものに影響する。
その事実を嫌でも思いださせられる。
わたしたちのすぐ目の前。
砕けた道路をまたぐようにして、ソイツは立っていた。
黒い泥をまとわせた、巨大なブリキ人形のような魔獣。
周囲の家をも越える金属の巨体が、圧倒的な威圧感とともにこちらを見下ろしていた。
詠唱魔術は衰退しました @kinakoanpan
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