エピローグ

 朝の光に照らされた道は閑散としています。

 薄明のもと、マダムは続きを思いかえします。この記憶は、夢に夢を見た幼子の頃のものです。

 空高い冬の午後に、彼は膝を折りました。炎の数ヶ月のあとで、そこには、あいかわらず墓場だけがありました。

 彼は両手を組み、告白しました。


「正直なところ、あなたをまるで知りません。この先も知ることはないでしょう」


 彼女は花束を抱きしめました。

 無教養なため、花の名前など知りませんでした。

 かわいらしいやら、うつくしいやら、あらゆる賛辞が頭をよぎりますが、結局は花に意味などありません。

 ただ存在するだけ。かぐわしいかおりを放つだけ。

 光をいっぱいに受け、枯れるだけ。

 両手を埋めるだけ。


「それでも?」


「ええ、それでも」


 彼女は花束を抱きしめました。

 本当に彼を抱くことなど生涯できないと知っていたので、花々の名前を知らなくてよかったのです。

 確固たるものがなければこそ、名前がつかない事象に、終わりが訪れるはずはないでしょう。

 





 ある朝のこと、花束は赤子に変わっていました。

 可愛い生き物です。小さくて無垢な、この世界において一等の好意を受けて、しかるべき生物。

 そう思えば思うほど、彼女は落とし穴にいる気分でした。

 それでも、赤子を世話しました。

 幾晩も話をしました。

 そして、ある朝、彼は現れたのです。

 彼を発見したマダムは、輝かしい空の裂け目へ歌います。


 ゆるしてたもう、ゆるしてたもう。

 すべて忘れたから。


 眠りこけた赤子は、朝日の下で黄色にくすみます。

 母親の腹のなかで息を引きとってしまったのです。

 四肢の動かし方も知らぬままに、へその緒を切られ、悲しみさえ覚えないまま、川の向こう側へ流されたのです。

 赤子は、白く縮んだ舌でしゃべりました。


「ふたりが手をとれば、ひとつの物語がうまれます」


「そうですわね」


「でも、どちらかが手を離してしまったら?」


 彼女は赤子の言葉に答えません。

 遠くなる男の背中を、なごり惜しげに見つめています。

 彼が門の最後の通過者なのです。


「わたくしたちは別れるべきですね」


「ええ」


 赤子はマダムにささやきました。


「あいしています」


 赤子は貴賎を知らず、人生も知りませんでした。

 なので、彼女が自身を頭上にかかげると、自分の体を太陽にささげて、灰へ帰すのだろうと期待しました。

 無論、彼女はそのつもりです。

 終わらせないといけません。許さなくてはいけません。

 夜明けに目がくらみ、まばゆさにぼうぜんとします。

 花束を手わたす彼の、あの言葉を思いだしたのです。






 なにかが地面にぶつかった音が聞こえました。

 驚き振りむいた彼でしたが、歩いてきた道に人かげはなく、ただプラスチックのトレイや空き缶、果物の種が転がるばかりです。

 彼は小首をかしげて、足を進めます。

 風にたなびく布切れの端を踏んで、鼻歌まじりに歩くのです。


 彼女はベランダの手すりにもたれて、その姿を見まもりました。

 その耳に、からからと軽やかな音が聞こえています。

 日がのぼり、歯車が回り、緞帳のひもが引かれる音。


「不正直者」


 彼女は頰をこすって笑いました。こっそりと彼の鼻歌に合わせて歌います。


 ゆるしてたもう。

 すべて忘れた。すべて忘れた。


 男が門に踏みいると、がらんどうの空の水色がたちまち満ちて、またも繰り返された罪深さに、深海が落ちてきます。

 緞帳のひもが巻きあげられるほどに、古びた時間がよみがえり、またも夜を迎えます。

 無音です。

 深海に閉じこめられた月が泣いています。

 彼女は手で水をかきわけ、地面から布の塊をすくい取ると、再度ドアスコープをのぞきこみました。


 

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MANGO みけろくろ @mikemikewatawata

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