「あの子は黒いチューリップから産まれたのさ」


 父親は、いつもそう話しました。

 彼の娘は花の娘。だれかが母親の棺桶に投げいれた一輪から誕生したのです。


「俺の女は賢かったよ。花から産まれたんじゃあ、俺みたいな男にちっちゃな子どもの首が締められるはずがない」


 父親は不埒な間男を想像し、うすら笑いを浮かべます。


「だから箱いり暮らしさ。ヒキガエルにさらわれないようにね」


 妻を亡くして以来、なにもかもが愉快な父親は作家仲間たちに、そんな冗談を飛ばすのです。

 青いプラスチックのごみ箱をかぶった作家たちは、わけ知り顔で同意しながら、話題の娘を無遠慮に眺めます。

 たしかに娘は、かわいい女でした。さながら、めしべとおしべの交接から産まれたようです。

 寝とられ男に黒いチューリップ。

 なんてかわいそうな娘。

 彼らはそんな陰口を叩きましたが、それを聞いた父親は、楽しくてならないのです。

 哀切、嫉妬、絶望、孤独。

 罪の液体にひたひたにされた不可解な人心こそ、物語の種子であると理解しているのです。

 ある日、父親は国を追われる身となりました。脱税と公文書改竄と恐喝が原因です。

 出立の朝、父親は娘に言いのこしました。


「正直でいたまえよ。善よりも正直さのほうが有意義だから」


「でもお父さまは、善のために正直さを犠牲にしたのでは?」


「いいや、俺はつねに正直だったよ。ただ、忘れるために、善さえも犠牲にしたがね」


 父親が舌を出し花を投げつけましたので、娘はお返しにごみ箱をかぶせ、国から永久に追放しました。

 それ以降、娘はひとりきりで暮らしました。

 万年眠気に襲われて、いつでもどこでも好きな場所で眠るので、屋敷の窓は永遠に開かず、つねに夜が沈澱する幕の奥です。

 横たわる彼女は、話しかけられても、手に触れられても、口づけをされても、けして目覚めません。

 起こす方法はただ一つ、本の表紙が肌に触れるとたちまちに目を覚まし、飢えた子どものように文字をむさぼるのです。

 作家たちは、彼女のもとを訪れ、泣きはらした目で哀願します。 苦しい過去の忘却のためです。亡霊を脱ぎすてるには、無知なだれかにすがるしかなく、その点において、彼女は完璧でした。

 素直で残酷な性質ゆえに、歴史的価値、政治的価値、学識も道徳も倫理すらも、作家の脳味噌に吐いて捨ててしまうからです。

 作家たちは頼みこみます。


「つらくてならないのです。なんどもなんども、思いだすのです。すべてが暗くかすんで見え、とこしえに雨の日を歩くかのよう」


「あら、不思議ですわね。そもそもから絶望に慣れ親しみすぎて、甘美な味さえ忘れた石頭のくせに」


「どうか御慈悲を」


 足元に体を投げだされると、彼女はにやにや笑いを浮かべて本をめくります。そして、終わりまで読んでしまうと、ぽいと暖炉に捨ててしまうのです。火のたたない薪のなかに投げられた物語は、黒ずんで、腐ってゆくだけです。

 作家は悲痛な声を出しました。


「なぜ、そのようなことを?」


「だって、うつくしくないのですもの。忘れて結構です」


「ですが」


「あのね、うつくしくなければね、ヒキガエルにさらわれてしまうのですよ。おじさま」


 ごみ箱をけって笑われた作家たちは、泣く泣く帰り、自分たちの仕事の意義について考えるしかありません。

 ですが、たしかに忘却は完了していました。

 それゆえに、彼らは忘れたという事実だけを抱え、ぼんやりと悲しみながらも、無意味な作家家業を継続します。

 忘却します。想像します。嘘をつきます。

 だれかを思いきり傷つけ、傷つけられます。

 人生を物語に書きつけ、夢を見て、忘れます。

 その繰り返しに価値ありと盲信するかぎり、娘の元へおもむくしかないのです。

 そんな非道な彼女にも、ひとりの友人がいました。

 隣家の庭師が飼う番犬で、あざだらけのボルゾイです。

 彼は毎夜、彼女のために物語を朗読する役目をもっていました。 長いこと火のつかない暖炉のそばでうつらうつらする彼女に聞かせるためです。

 いつも眠るのは、安らかに眠れない呪いのため。

 そう知る彼は、物語を音楽に変え、まやかしでも、館に季節を与えようとします。

 春が芽ぶき、夏が輝き、秋が実り、冬が染めあげるように。

 彼女の不眠症は飽き性が原因でした。この屋敷は繰り返しをスポンジのように吸収し、飽和しきってているのです。

 彼女はすっかり見飽きていました。あくびをひとつ。朗読が終わると、彼女は目をあけて彼に話しかけました。


「おもしろくって?」


「さあ。犬が理解するのは現在だけです」


「じゃあ、どうして読むの」


「音のほうが、ずっとよいかと思いまして。音は、うそをつかないでしょう」


「そんなことはないわ」


 彼女は笑い、褒美に黒い花弁を一枚もぎとって与えます。

 彼はその花弁で、顔中のあざを冷やすのです。

 彼が思うに、彼女は考えすぎなのでした。

 眠るのは、起きているときにあれこれ四方山のことを心配し苦慮するからです。それを表に出さないように配慮するからです。

 ごみ箱をけったり、作家たちを冷たくあしらうのは、ばかな父親に似て嫌だからです。

 ある日、彼女は彼の顔に筆を走らせました。

 あざを丸でなぞり、無聊をかこつだけの人生を呪って、早く終われ早く終われと丹念になぞるのです。

 くすぐったさのあまり、彼は笑いました。すると、彼女は唇をとがらせて怒ります。このような呪いを笑うものではないでしょう。

 彼は謝りました。

 仕事が終わり、彼女は退屈そうに言います。


「なすべき役割があるだけ。それってすばらしいわね」


「あなたは、そう思われるのですか」


 彼はひかえめにたずねました。


「熱にうかされて死ぬよりは、ましかしらね」


「熱にうかされて死ぬことは、すばらしくないのですか」


 彼女は考えこみました。


「わからないわ。そんなふうになったことがないから」


 静謐で貞淑な機械に似た彼女と彼の生活は、動きながら停止する時間の合間で、長く続きました。

 とある朝、彼は彼女に、庭師の葬式に物語を頼みました。

 椿の木から落ちて首の骨を折った庭師は、前の晩も犬をしこたまなぐったばかりでしたが、命とはろうそくの火が消えるのと同様、すうっと唐突に消えるものです。

 彼は庭師が死んで不安でした。

 鏡を見るたびにあざが薄れ、吹出物ができるからです。それに、なぐられる痛みを忘れるほどに、以前は遠くまで響いた野生に根ざす声が枯れ、細いピアノの音に変わってしまったのです。

 変化の原因は、彼が助けを求める必要がなくなったからでした。

 そう知る彼女は、声を失った寂しさはあれど、友人の変化をうれしく思いました。

 彼は肩を落として、思い出をとつとつと話しました。


「庭師は野蛮でしたが教養人でした。なぐられると痛かったけれどまぎれもなく親でした」


「そうですね」


「彼の眠りのために、とびきりの物語を贈りたいのです」


「用意しますわ。でも、そのかわりになにをしてくださるの?」


「あなたには、すべてささげていますからね」


 彼は恥ずかしそうに言いました。


「ですから、その逆なら大丈夫ですかね。あなたさえ、よければですが」


 彼女はしばらく悩み、うなずきました。

 そもそも、俗人から得られる礼などには期待しない彼女でした。彼の提言ならば冗談で済むだろうと甘く見たのです。

 三日後、ごみ箱をかぶったみにくい男が訪れ、廊下の途中に寝そべっていた彼女を起こしました。


「悪いのですが、もう物語は不要なんです」


 彼女が迷惑そうに手を振ると、みにくい男は笑いました。


「そんなわけはあるまい」


「だって、彼が言いましたもの」


 みにくい男は、そのみにくさゆえに人の情に聡かったので、彼女になにが起こったのかを一目で把握し、こう助言をしました。


「葬式の日、しっかり犬の鎖をつかんでおきなさいよ」


「どうして?」


「すべて奪われるくらいならまだいいんですが、そうとも限らないからです」


 彼女は唇をぽかんと開いて、無邪気に笑いました。


「わたくしの犬です。わかっていらして?」


「もちろん。とはいえ、油断なさらぬよう」


 みにくい男は、物語を自らの手で暖炉に放りこみ、頭をさげて、立ち去りました。

 暖炉に、逆立ちした男の髪のような赤色の火がつきました。

 情念が紙を燃やすのです。

 みにくい作家の書いた、万国共通の主題を担ぐ、非常にありふれた物語が、彼女に語りかけました。

 彼女は目を細め、春のかおりのする吐息を吹きかけました。

 すると、灰の渦は風の糸へと変わり、白いページ、白い表紙、そして一輪の白いチューリップへ化けました。






 あくる日の午前一時、丘の上で庭師の葬式がおこなわれました。

 町の人々は棺桶に向かって両手を組み、世間話をしています。

 生前の人柄のおかげか、嵐が来そうな強風の日で、帽子やベールが宙に舞っています。

 そのあいだも、彼女は丘のふもとに立ち、きちんと鎖を握って、喪主をつとめる彼を見まもっていました。

 ときどき丘のまわりに群生する葦が鎖を隠すので、たぐり寄せるべきか逡巡しますが、結局鎖は垂れさがり、彼の歩みにあわせて揺れるだけです。

 黒いチューリップが、棺桶へと投げいれられます。

 安らかな庭師の顔に花びらが乱雑に重なり、鼻の穴をくすぐるので、彼がくしゃみをして起きてきそうに人々には思えましたが、やはり彼は眠ったままです。

 あまりに乱暴な人が亡くなると、それはそれで、善人がいなくなるよりもむなしいものだと人々は思います。

 なにより、それを肌で感じているのは、忘れ形見である彼のはずですから、人々は彼のためにほんの少し涙を流しました。

 最後に花を手にした彼は、しらじらしい顔をしていました。

 棺桶にキスをして、チューリップを供えたその心もちを、人々は不思議に思いました。

 なぜなら、花を添えた途端、その頬に赤みがさし、目に青い光が宿り、はっとするほどに顔が輝いたのです。

 丘のふもとにいる彼女も驚いていました。

 鎖が腕を這いだしたのです。

 それは体の上を遠慮なく進み、やがて首に巻きつくと、赤子の犬歯のような牙を脈に刺します。

 みるみるうちに毒が血管をめぐって、目を白くにごらせます。


「これにて終わり」


 やさしい声が、望んでいた言葉を耳うちしました。

 一輪のチューリップを携えて、彼が丘を降りてきます。

 その花びらの色は黒だと、彼女は知っています。

 ですが、目が使えない現在、真っ白な花弁に見えており、どちらがどちらか、わからないのです。

 葬式の客は葦へと姿を変え、風に揺らいでいます。

 彼女は、足の爪先に火の鱗粉を発見しました。

 それはまたたく間に体をのぼり、臨界を超え、むしろ冷たく感じられる指先で、肌のあらゆる場所に触れるのです。

 彼が燃える体に腕をまわすと、彼女は黒焦げた枝のような指先を伸ばしてたずねました。 


「あれは月かしらね、太陽かしらね」


「仕方のない人だな」


「なぜ」


「だって、ぼくらにとってはどちらでも一緒のことです」


「なぜ?」


「空を眺めなくても、もう夜は来ないからですよ」

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