桜の下のメメント・モリ

へのぽん

これまでの桜、これからの桜

 朝、起きると、部屋の壁にはモノクロの写真が見える。そこにはキャンバスを前にした二年前のセーラー服の自分がいた。

 わたしの心は封じ込められた。

 嫌なことがあろうとも、逃げ込められると思えば安心できた。



[同窓会]


 八月が終わる頃、高校二年生の同窓会が催された。商工会議所に三十人ほどが集合した。立食会場で挨拶が行われた。

 家庭科教室で、銅の卵焼き機でだし巻きを数本作っていた。中学生のとき、母の勤めるスナックのために、朝、だし巻きを数本作っていた。二年ほど続いた。母は居抜きで小さな居酒屋を手に入れ、一国一城の主として生き生きしていた。野坂も高校から大学生の今は気持ちも安定していた。


「では乾杯!」


 野坂は穏やかにグラスを掲げた。和歌山県でも隅っこの公立高校なので、他校との競争も校内の派閥もなく、緩やかな学校生活を過ごしていた。


 この穏やかな時間が失われるのではないか。


 ふとした拍子に思うことがある。友だちの家に行ったとき、家がないということのつらさが心をざわつかせた。

 

 他の同級生と話しているとき、川瀬美奈が近づいてきたのが見えた。脚の細さがわかる麻のパンツ、シャツ、麻ジャケットの前を閉じた姿は一際輝いていた。

 穏やかさと凛々しさのあるミント系のネクタイもオシャレだ。高校のときのセーラー服姿しか覚えていないが、こうして出会うと印象も変わるとうものだ。

 隣で女子陸上部の前田が話した。


「野坂くんとこ市営住宅立ち退きやで」


「急に説明来た。じいさんばあさんには寝耳に水やん。仕事とはいえ偉そうやな」


 建築課の前田と話した。彼女も昔は市営住宅で暮らしていて、お互いに生活レベルも知っているので気兼ねなく話せる。そんな彼女が幹事をするので、同窓会に参加したこということもある。


「抜き打ちや。行政のやり口や。後は後ろで中指立てながらひたすら謝罪するねん」


「戦後から高度成長期、バブルも荒っぽい連中が集まってたところや」


「一筋縄ではいかんやろ。あ、あんたの待ち人、来たで。うまいことしいや」


「は?」


「あんたが出るか聞いてたで」


 前田はニヤニヤと離れた。

 川瀬は取り巻いていた男たちの隙を突くように輪から抜けて近づいてきた。逃げるように来たが、まだ諦めきれない数人を引き連れていた。野坂と数人で記憶にも残らない連中と、二次会へ行く話をした。


「野坂くんが行くんならわたしも行くけど」


 会場から離れて、野坂は川瀬とスマホの電話番号とアドレスを交換した。川瀬を二次会に誘ったが、彼女は飲めないからと曖昧に微笑んで断った。


「そんな出し方されたら意識するやん」


「他に教えたないもん」


「教えてたやん」


「断れんし。野坂くん来てくれたらよかったのに。冷房効きすぎん?あったかいもん飲みたい。喫茶店行かへん?」


 川瀬はグイグイと来た。名画のレプリカを掛けてある、近くのファミリーレストランへ行った。

 


 昔、僕は彼女を封じ込めた。


[高校時代・野坂]


 高校二年の頃だ。今、思えば、至福の刻は一瞬で終わった。後であれがそうだったのだと気づいても、二度と戻らない。


「川瀬さん、何で絵を描いてるん?」


「静物画とかかな。デッサンが多い。基本は必要やから。はじめての子もおるし」


「指導もしてるんや?」


「ちょっとだけね。そやから何も気にすることないから。でも聞いてええ?何でわたしがモデルなん?他にもおるやん」


「惚れてん」


「え……」


「前通るとき見ててね。この子を写真に封じ込めたいと。申し訳ないけど、描かなくていいんで制服でお願いできますか」


「夏服で?」


「気になるかな」


「別にいいけど。自然光?」


「基本は。いろいろ試してみたい。だいたい決めてある。フィルムはネオパンF。粒子が細かい。単焦点五十ミリで撮る」


 今の野坂には他の生徒も顧問も置かれた小道具も興味がない様子に思えた。


「朝の光で撮りたいなあ。あかんかな」


「わたしはええよ。体育部も演劇部も朝練してるし。何なら屋上で撮るとか」


「できれば室内がええねん。川瀬さんは室内が映えると思うから」


「日焼け止め塗らんで済む」


「そか。お礼もせないかんな」


 野坂は顎に手を添えて壁に向いて額を押し付けたまま考えた。


「お礼なんていらんし」


「今何か描いてるのある?」


「今は特に。高校野球と吹奏楽の全国大会のポスター描いてるかな。顧問に何か言われたんやない?これは来年のための絵やからええねん。わたしはいつでもできる。今は何となく特に筆も動かへんし」


 翌朝から撮影をした。

 夏の朝、まだ誰も来ていないくらいの美術教室にいると、川瀬は何だか気持ちが澄んでくる気がした。爽やかな夏の風が吹き込んでくるとき、かすかにシャッター幕が上下する機械音が響いた。こうしてモデルも悪くないなと思いはじめていた頃、何もかもが突然に終わってしまった。



[高校時代・川瀬]


 ラストショット……

 こんな悲しいなんて


 かすかに機械音が聞こえた後、


「撮れた」


 野坂が呟いた。二度と会えないような気がした。三日目の朝、撮影を始めて十分ほどの頃だ。野坂は淡々と片付けた。カメラを三脚から外して、シャッターボタンに繋がる紐状のレリーズを抜いた。


「たぶん封じ込められたと思う」


 川瀬は涙を止めようとした。


「川瀬さん、ありがとう」

「ぜんぜん」


 何でわたし泣いているん?

 もうおしまい?



[同窓会]


 ウエイトレスがホットカフェラテを持ってきた。川瀬は何の意にも介さず紅茶をかき混ぜていた。後ろで束ねた黒髪は高校の頃は風になびくと、涼やかな音が聞こえたような気がする。野坂は昔から油絵が趣味と聞いていて、住む世界が違うなという印象は今も変わらない。それはセーラー服がシャツに変化しても変わらない。


「高校の同級生やと思うてない?」


「違うの?」


「小中高とずっと同じや」


 川瀬は上目遣いで睨む仕草をした。


「絶対にそうやと思うてたわ」


 川瀬はチューリップのようにカップを包んで紅茶を口に含んだ。

 間が空いた。


「ひょっとして二次会行きたかったんやない。野坂くんが行くんなら、わたしも付き合うてたけど。どうしても話したいことあるからドキドキしててん。今も」


 オレンジの鞄から手帳とキャビネサイズの一枚のモノクロの写真を出した。


「覚えてる?」


 写真部の野坂は考えた。いろいろ思い出すことはあるが、これは覚えていない。


「文化祭のとき。わたしがイーゼルを前にして後ろから撮ってもろてん。これは顔写ってるからボツ。ほら。実際の作品はわたしの部屋にあるねんよ」


「あれは覚えてるよ。記憶に封じ込めたんや。一生消えんと思うわ。今も飾ってくれてるんや。これは渾身の作品や」


「忘れたと思うてた」


「モデルも構図も光も完ぺきや。いつも見てたんや。一瞬の世界。これは川瀬さんを僕の中に封じ込めた写真やねん」


「あ、え……うん……」


 川瀬はうつむいた。靴のつま先が互いに触れて引っ込めた。野坂と川瀬はあいまいに笑った。


「ネオパンFで三脚立てて、自然光だけで撮ろうとして我慢してもろたんや。しんどかったんやない?」


「しんどくはなかったよ。でもモデルなんて恥ずかしかったわ」


「覚えてるもんやな」


「忘れたことないし、何なら毎朝起きたら壁にかかってるの見てるし」


 野坂はカップに笑みを漏らした。


「何でわたしやったん?」


「髪がきれい。くくってあるのをほどいたらきれいに見えると思うた。いつもイーゼルの前で考えてた川瀬が天使に見えた」


「天使?聞いてて恥ずかしいこと平気で言うてくれるやん。モテるやろ?」


「他には言うたことないわ」


「わたしね、美容室でも男の人に髪触られたことなくて。野坂くんにこうされて」


 川瀬は髪を広げる真似した。


「寒気した」


「ごめん」


「怒ってないねんで。ぜんぜん。何かおかしいかもしれん。ちゃんと伝わってないかもしれん。寒気でも悪い意味やない」


「川瀬が何か考えてるとき見てると、その一瞬を封じたい思うた」


 中古のオリンパスOМというカメラを備品の三脚に立てて、レリーズを押した。窓から夏の風が入ってきて、カーテンを揺らして、彼女の髪もわずかに浮いたときをとらえた。


「お父さん、PTAの会長してたからもらってきてん。で、額装してもろて」


「額装までしたん?展示終えた後、欲しい人にはあげたのに」


「わたしはもろてないというか、欲しかったけどよう言わんかってん。欲しくて欲しくてたまらんかったけど」


「文化祭のとき、それぞれ教室借りて展示したやん。だから迷惑かけんようにすぐ撤収したからなあ。重ねて倉庫へ運んだ」


 しかし野坂は、キャビネサイズの小さい写真のことは忘れた。川瀬は束で封筒に入れてフィルムごとくれたと答えた。


「試しに撮った方やんな。僕、無言で返したん?」


「怖かったわ。本番前に何本も撮るから驚いた。でもほとんどボツやんな」


「フィルムカメラは構図とか光と影とか調べるのが大変なんよ。あれらもあげたよ」


「本人以外にも?」


「いたな。焼き増してくれとか言われたこともあるから。欲しい人いたはずやで。川瀬さん、さっきもやけど人気もんやん」


「そうでもないよ。いつも一人やん」


「一人好きなん?」


「そんなことないねんけど、いつの間にか一人でおるんよね。カメラやめたん?」


「デジカメかな。パソコンで処理できるようになったのがね。後でどうにでもなると思うと、何かドキドキが薄れてん。髪からつま先まで、自分の世界に封じ込めるみたいなのが消えた」


 野坂は少し笑うと、


「川瀬さん、何描こうとしてたの?」


 と尋ねた。


「桜やと思う、たぶん。あのときも桜のデッサンしてたんよ。でも言えんだ」


「何で?」


「桜見て嫌そうな顔したから」


「僕?」


「野坂くん、わたしの言うことまったく聞いてないわ。五日の約束してたけど、実際は三日やったし。急におしまいやったし」


「記憶ない」


「ひどっ」


 川瀬は殴るふりをした。


「ええねん。でも野坂くんがマジなん伝わってきたから話せんかったな」


 化粧家の薄い彼女は遠くを見た。ふと思い出したように、かすかなオレンジ色の革のトートバッグから写真を出した。


「キャビネやな。これは?」

「くれたやん」


 作品のモデルを終えた後、ホッとして微笑んだ顔だ。川瀬のモデルのときの顔と撮影後の緊張が解けた顔を撮っていた。


「写真見た後は話しかけられへんだ。凄い写真やったし。これでもシャイやから」


「シャイなん?モテモテやん」


「だ、か、ら。わたしも一人や。告白なんてされたことないねん。好きになった人はおったけど」


「誰?」


「内緒。みんなの輪にはおったけど。つまらん話してたな。こんな話したかった」


「小難しい話」


 野坂は笑い飛ばした。


「でもあの後のことは覚えてるねん。美術部の顧問に文句言われて」


「あの先生な。すぐ指導してくるねん。下級生もデッサン部やん言うてた。でもこっちも後の話の方がおもしろい」


「ん?」


「顧問は野坂くんの作品見て黙ってた。油絵かデザインかわからんけど、凄い自信ある人やってんよ。顧問の前で野坂さんの写真はカラヴァッジョみたいですねと言うてやったわ」


「カラ?」


「画家。テネブリズムという表現で光と影を使いこなした人。人殺して野たれ死ぬけど」


「野垂れ死ぬ……か。何か憧れるな」


「言うと思うたわ」


 川瀬は笑うと、両手で包んだカップから紅茶を飲み干した。


「で、野坂くんの作品を観て、わたしは吸い込まれた気がした。魂を奪われた」


 すでにデジタルカメラが主流のとき、モノクロフィルムに光学レンズを通して撮ろうとしていたものがここにある。


「自分は今でも背伸びしてるわ。川瀬さんの方が自然体で生きてる」

「そうかな」


 川瀬は唇を尖らせた。

 ふとそんな自分に気づいたようで、


「こうしてせっかく会えたのに、つまらないこと話してるわ。もっと野坂くんと話したいことあるはずやのに。何か久々に会うたら話したいこと忘れてしもた。ちょっと照れる」


 川瀬は苦笑いで首を傾げた。


「野坂くん、ええ写真撮れたよね。わたしハードルの写真も覚えてる。蹴られそうな瞬間」

「蹴られた」

「マジ?」

「ハードルは踵で蹴るように跳ぶらしい」


 本人が五台目くらいにトップスピードになるというから撮ったものの、体に余裕があるし、軋んでないし、もっと筋肉と精神のギリギリ狙おうよと話し、七台に増やしたところにカメラを置いて寝転んだ。


「求めるものは撮れたものの膝で顔を蹴られてひどい目に遭った」


 川瀬はコロコロと笑った。



「大学時代・川瀬」


 今、川瀬はなんばパークスという人工庭園のケーキ屋でアルバイトをしていた。客が来ないとき、ショーケースの後ろで高校生のメイに告白されたことを話した。

 しばらく二人は通路を眺めていた。


「告白されてキズつくことあるねんな」


「告ハラ?」


 川瀬が呟くように言うと、メイは愛嬌のある瞳をくりっとさせた。


「そんなのあるの?」

 

 大学に合格してはじめてのゴールデンウィーク後、何となくケーキ屋で働いてみたいという、子どもの頃にありがちな夢を叶えた。

 

「誰に告白されたんですか?」


 メイは、何とか金髪を隠すように帽子を整えながら聞いてきた。何となくわかっているように笑いをこらえていた。


「誰と言われても」

「名前も聞いてないみたいな?」

「イケメン?」


 顔の問題でもなく、一度しか会ったこともないので性格の問題でもない。



[見知らぬ告白]


 数日前、近くの定食屋の制服の大学生がショートケーキ、ガトーショコラ、モンブランを注文してくれ、箱に入れ、プレゼント用のリボンをつけて精算した。

 この店ではレジから出て、袋をフロアで手渡すことになっているのだが、相手はそれごと川瀬にプレゼントしてきた。


「は……い……?」

「僕からのプレゼントです。お付き合いしてくれませんか」

「ん?」


 思考が停止した。川瀬は自分自身、冷静なタイプだと分析していたが、そのとき目の前にいる大学生アルバイトの姿がゲシュタルト崩壊しかけているような気がした。


「てなことがあったのよ」


「そば人間?」


 メイは前髪を整え終えた。


「何?」


「だからあの蕎麦屋のアルバイトの学生やろ?紺の背に白文字のあるシャツの」


「そうそう」


「辞めるとか言わんやんな?」


「話がわかんないんだけど」


 メイは蕎麦屋のアルバイトは有名だと話してくれた。ケーキを買い、あなたにプレゼントだと渡して、お付き合いしてくださいと連絡交換しようとしてくる。


「誰にでもしてるの?」


「わたしがいないときにね。で、何か気持ち悪いからバイト辞めちゃうの」


「ストーカー?」


「どうなんやろ。わたしには何も言うてこないからわかんないけど」


 メイは近鉄沿線の八尾に住んでいて、本人曰くバカだから中高一貫のお嬢様学校に通っているのだと話していた。


「仕事中だと断ろうとしたんだけど、何か他にお客もいないから」


「いないから?」


「そこで」


 川瀬は指さした。このケーキ屋には通路に面してイートインコーナーが三テーブルある。川瀬は外で会うのは嫌なので、店内で済ませた。


「アハハハ」


 メイは爆笑した。


「川瀬さん、結構おもしろいよね」


「おもしろいかな。マジメだけど」


「天然でもないけど、普通イートインで済まそうとするかな。ナイスアイデア」


「笑いごとじゃないわよ」


 川瀬は半目で通路を見続けた。


 不愉快だ。


 大学生(名前は忘れた)は、一ヶ月ほど前に川瀬に一目惚れしたと話した。連絡先をしつこく聞かれたが、遠慮がちに断っていたものの、間もなく客が来て接客に戻るまで地獄のような気味悪さを味わった。


「いやあ、それならまた来るよ。ケーキどうしたん?」


「持って帰ったけど」


「ケーキ屋で働いててケーキなんて売るほどあるっちゅうねんっ!」


 メイは目に涙を溜めて笑った。川瀬は笑えるどころか恐怖さえ感じたと答えた。


「ごめんごめん。性格とか顔とかは置いといて行動がぶっ飛んでるからね。本人はそれがかっこいいと思ってるもん」


「どうすればいい?」


「川瀬さん、彼氏いないの?」


「へ?」


 不意に野坂の顔が浮かんだ。


「つきまとわれるのも怖いし」


「だから彼氏は?」


「いない」


「何で?」


 メイは驚いた。


「川瀬さん、いなくてもいいタイプ?」


「わかんないけど」


「わたしは、別れたのよね。朝一学校行く前に連絡してこいとかうるさくて」


「うわ……」


「わたしのことじゃなくて、川瀬さんのことよ。大学生なら彼氏探し放題なんじゃないの?」


 川瀬は彼氏を探すために大学へ通っているわけではないと答えると、メイは何のために通ってるの?と笑い返してきた。


「そもそも何で大学へ?」


「南海電車と地下鉄と阪急電車」


「わたしは近鉄で。違うわ。手段聞いてるんじゃないわよ。目的よ」


 川瀬は視線を落として、チラッと横目でメイを見た。この子は高校生なのに金髪でピアスをしていて、格好は今どきで派手だけど話してみると、川瀬よりも大人だ。


「笑わないで聞いてくれる?」


「笑わんよ」


 メイは笑いながら答えた。


「わたしね、これまで男の人とお付き合いしたことないねん」


「エッチしたことないとか?」


 川瀬は頬が熱くなるのを感じた。

 メイは慌てて冗談だと取り繕った。すぐエッチしようとする奴は屑だと自分を納得させるように頷いた。


「好きになられへんとか?」


「……」


「告白されたことは?」


「ないかな」


 メイは「たぶん川瀬さんは告白されても気付かないタイプだ」と話した。それとなく匂わされても気付かない。


「あ、好きなんかなとは思うわよ。でもわたしから好きにならんと」


「あ、そっち系ね」


 そっち系?


「そんな人おるおる。じゃ、これまでに好きになった人はおるん?」


 客が来て、会話が中断した。初老の女の人はモンブランとチョコレートケーキ、チーズケーキを二つずつ買った。

 メイがテキパキと接客している間、川瀬は彼女の働く姿を眺めるように、自分の言いたいことをまとめていた。


「同級生なんやけど、ずっと追いかけて同じ大学に行ってる。これは片思い?」


 川瀬は同級生を追いかけて同じ大学を受けたのだと話した。しかし相手はそんなことはまったく知らずにいるのではないかとも付け加えた。


「えぐっ。いつから?」


「高校二年のときに話しただけ」


「南海クオリティ?」


「阪急も乗ってるよ」


「南海は否定せんのや」


「今朝も一緒に学校行った気がする」


「気がするて」


「わたしね、マジな話、あの人に告白されてへこんでるんやわ。高校生のときの初恋が汚された気がして悲しいねん」


「ほお。もっと聞かせてや」


「わたしね、高校のときに写真のモデルしてんけどね。まだ聞いてくれる?」


「聞く聞く。それと凄い見たい。やっぱモデルなるよね。美人やもん」


「そんなんやないねん。写真部の人が文化祭に出すための作品やけど、わたしらの学校は文化部で協力しあいしてるねん」


 ポケットからスマホを出した。結局エプロンに入れてあるのだ。フォトでキャンバスに向かう少女の後ろ姿を見せた。


「おお?」


 メイは驚いた。


「これ川瀬さん?」


「うん」


「なるほどなるほど。大きさは?」


「200✕150センチくらい」


「でか。てかこのときから好きなん?」


「このときに惚れたのかも。でも三日ほどしか一緒にいて、そんときも必要最低限のことしか話してないねん」


「向こうが好きだからモデル頼んできたんやないの?」


「同窓会で話してんけど、わたしを封じ込めたいと思うたんやて」


「告白じゃね?」


 川瀬はわからないと答えた。もしわたしのことが好きかどうか聞いて、思う答えでない場合、自分は囚えられたままだ。


「予想以上に写真が芸術しててビビったけど、何となく川瀬さんの言いたいことわかる。相手がまっすぐすぎて、自分がよこしまな気になったみたいな感じやんな」


「あ、そう!撮影が朝一番の光で撮るから付き合うてん。しばらくこれが続くんやろうなと思うてたら、不意に終わってん」


「不意に?」


「わたしね、涙止まらんかってん。今でもうまいこと言われへんのけど。変かな」


「それは恋というんですわ」


「近鉄沿線では恋?」


「告白すべきやわ」



[通学]


 朝の満員電車が音を軋ませていた。いつものように会社員と高校生、専門学校生がそれぞれ時間をつぶしていた。

 野坂はまだ眠い。


「わたしとお付き合いしてほしい」


 前に立つ川瀬が野坂に呟いた。誰もが眠い中、好きでもない仕事や学校へ、重い気持ちに身を任せているときでも、川瀬は生き生きとしている。

 高校生のときと同じく、鈴の音が鳴るような髪を束ねて、背に垂らしている姿は姿勢の良さとともに育ちも想像できる。そんな彼女が睨んでいた。


「な、何て?」


 野坂は尋ねなおした。他の通勤客が息を飲むのが聞こえた。列車の揺れも轍の音も遠ざかる。川瀬の鼓動が聞こえるようだ。

 

「彼女にしてほしい」


 南海高野線の紀見峠駅付近では、列車はしばらく桜の壁とすき間の青い空で埋め尽くされた間を走る。トンネルの間に見える山あいでは孤立した山桜も美しい。桜は冬だとしても、どこか期待をまとう。やがて春が来ると、期待されたように咲く。

 列車は和歌山と大阪を隔てる難所紀見峠トンネルに入る。野坂は大阪へ向かう列車の中、出入口の扉に映る川瀬を見た。


「野坂くんともっと一緒にいたいねん」


 トンネルを抜けると、列車が揺れて川瀬がよろめいた。足を踏んだまま上目遣いで野坂の言葉を待った。


「僕も一緒にいたいけど」


 列車内の緊張が解けた気がした。川瀬は野坂の胸に額を預けた。川瀬の靴が野坂のつま先をわざと踏んだ。こうしていると野坂は心地よく川瀬と一つに感じた。


 願はくは花の下にて春死なむ

 その如月の望月のころ

 

 川瀬は消えそうな声で呟いた。


「どう?」


「西行の歌かな。綺麗な歌やと思う」


 川瀬は野坂のつま先に乗ったまま黙っていた。少し体重を加えた。野坂はうわべだけで許してくれないんだなと苦笑した。


「そんなこと聞きたないやんな。でも正直なところ、僕にはわからん。死ぬときの条件つけられるほど偉くない」


「メメント・モリ……わたしは桜が咲くところと散るところしか見えてなかった」


「僕は桜にええ思い出ないねん。オンボロの市営住宅でね。花見して騒いでたわ」


 野坂が暮らしているのは、低所得者が住む、築五十年、耐震基準も満たせない長屋式の市営住宅だ。父と母は結婚してすぐ低所得者住宅へ応募し、父は小学生五年のときに肺がんで他界した。

 残された母と野坂は今も四畳半、六畳、二畳の台所、自力で建てました風呂、くみ取り式の便所の住宅で暮らした。中学生のパソコンの授業で、はじめて航空写真で市営住宅を見たときは悲しくなった。


「僕には桜は悲しい花やねん。春になると桜の下でおった人らを思い出す。ろくでもない人しかおらんだ。僕も同類やね」


「わたしはイメージでしか見てなかったことに気づいた。そう。テレビや映画、日本は桜の美しい国なんていう陳腐なイメージでしか見てなかったから筆が止まった」


「一升瓶と茶碗叩く音が聞こえる。桜の中継なんて他人ごとのように観てた」



[市営住宅・野坂]


 桜が咲くと、市営住宅の人たちが持ち寄ったもので花見をした。どこからか酒が出てきたんだけど、たいてい一升瓶と茶わん、仕出し弁当などない。味つけがバラバラな煮しめをアテに騒いでいた。アル中、博打打ち、チンピラ崩れ、そして彼らよりもはるかに怖い奥さんがいた。


「おまえ、学校へ行っとるんか」


「毎日会うてるやん。おっちゃん市場でサイコロ振ってすごろくしてるん」


 小学生の頃は毎朝すごろくしている大人もいるんだなと思っていた。


「タカシくんはな、おっちゃんみたいになったらあかんで。お酒飲みすぎたら目が見えんようになるねん。ジュースにしとき」


 幼い野坂は皆の話を通じて酒を飲みすぎると視力が落ちると思っていたが、それも特殊な酒の話だと知った。


 春、皆で桜を見た。

 また来年のことを思いながら。


「桜を描くのやめたのは、野坂くんが怖い表情したからやねん。わたしは今でも桜を描けてないねん。高校までの坂でつま先に落ちた桜を見てから」



[未来の思い出]


 終点に着くと、野坂と川瀬は、通勤の人込みに離れ離れになりそうになりながら改札を抜けた。


「自分が描いてる桜は違う思うてん」


「僕のせいやな」


「ちょっとサボらん?」


 野坂と川瀬は学校を休んだ。わざわざなんばまで出てきたのにである。


「今でも桜嫌い?」


 川瀬と野坂は冬の訪れる前のなんばパークスの外回廊を歩きながら話した。地上九階の人工渓谷は冬は風か吹きすさんだ。


「桜は何でも隠すんや。散るからこそは儚いなんて違う。すべてはなかったことにはならん」


 野坂は淡々と話した。たぶん何度も頭の中で繰り返してきたのだろう。


「どうしようもない人らはどうしようもない人らのままやし、古い市営住宅は古いままや。だから好きになれん」


「野坂くんは桜を見るたびに、いろんなことを思い出してるんやね」


「思い出に生きてるんかな。なんばパークスに桜が植えられたらキレイやろうな」


「話逸らしたなあ」


「桜を見て川瀬さんを思い出す」


 桜の季節、故郷を離れて新しく社会へ旅立つ人もいる。大学へ行く人、受験に敗れて浪人する人、受験を諦める人、華やかな下で生きることをやめる人もいる。


「桜はキレイやとは思わんな。変かな」


「わたしも同じ。何で桜を描こうとして筆が進まないか理解できた気がする」


「どう?」


「どうかな。でも……」

 

 川瀬は野坂の袖を引いて止めた。


「こっち」


「ほんま迷路や。僕、ここどうやろ」


「野坂くんらしい。ここは街と自然の融合なんて言うてるけど、しょせんは商業施設なんよね。ここに桜なんて植えたら桜がかわいそうや。誰の思い出にもならんわ」


「もし川瀬がこの街を描くならどう?」


 野坂は肩越しに隣の川瀬を見た。もし川瀬がここを描くとしたらどうするのかなと何となしに思った。


「人を消すかな」


 川瀬は答えた。


「今なら野坂くん立たせる」

「一人?」

「うん」


 妙な間が空いた。

 野坂は言葉を詰まらせた。


「一人か……」


「そうして生きてきたんやろ?」


「僕はろくでもないところで育ってきたからな。僕らのところは祭りにも参加させてもらえんだんや。川瀬と付き合うたとしても不安なんや。川瀬さんと価値観……」


「根っこは同じ。今なら桜描けなかったのか言える気がする。今なら描ける。野坂くんがおるから。桜はせつない」


 川瀬は息を止めた。


「ずっと心の底で気づいてたから描けなかった。でもこれからは違う」


「何で?」


「わたしがおるから華やかやろ?」


「自分で言うかなあ」


 野坂は苦笑した。呆れられているのではなくて、照れ隠しのようでもあった。

 二人は地上に出て、しばらく二階と三階の間を歩き、ガラスに囲まれたエレベーターに乗ると九階の空中へと飛び出した。


「桜、これから二人で同じ桜を見て答え合わせしたい。だから改めて……」


「僕はもう一人は嫌や」


「うん」


 おわり

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