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 不審者はこちらに歩みを進めてきた。


 手には刃物が握られている。悪寒が走る。あまりの恐怖で身体が動かない。


 僕は頭をガシリと掴まれ、強引に首を傾けられ、食杉さんと唇を重ねた。


 


 僕は慌てて唇を離す。


 今、キスをした。人生初。ファーストだ。マイファーストキスを食杉さんと。しかも、口を開いた、濃厚なヤツを一発。


 頭が真っ白になりそうだが、ひとまず落ち着きを取り戻す。


「突然ごめんなさい。だけど、こうするしか無かったの。」


「い、一体どういう⋯」


 ふと辺りを見回す。


 不審者も、周りの乗客も、動きが遅くなっている。


「入学式の時に食べた『時間』を吐き出したわ。作戦会議と行きましょうか。」


「ど、どういうことですか!?」


「文字通りの意味よ。細かい説明は省くけど、私とあなたは時間に対する意識が強くなっている。言わば『ゾーンに入った』ようなものよ。」


 なんとなく意味は察した。信じられないことだが、刃物男に迫られているこの状況では、つべこべ言ってはいられない。


「とりあえず、逃げましょうよ。みんな動きが遅くなってるんだから、逃げ切れますよ。」


「それは得策とは言えないのよ。私たちは意識が高速化しているだけで、身体の動きまでは高速化していないわ。脳に比較的近い口はそこそこ速く動いているけど、それでも、今の私の言葉は遅く感じるでしょう?走って逃げても、普通の速さにしかならない。次の駅までは持ちこたえられないわ。」


「じゃあ、緊急ボタン押しましょうよ。ほら、あそこに。」


 僕は壁に取り付けられていた赤いボタンを指差す。指の動きが遅く感じられて気味が悪い。


「そんな物は誰かが押してくれるわ。重要なのは、初撃をどう躱すかよ。」


 気がつくと、不審者が既に自分の1メートル手前まで迫ってきている。ナイフは刻一刻と自分の腹に近づいている。今から回避しても手遅れな距離だ。


「ならどうしろって言うんですか!」


「任せなさい。さっき『助ける』と言ったでしょ。本当はやりたくない手段だから、今こうして作戦会議をしたのだけれど、結局他の手段は浮かばなかったから、仕方がないわ。人命には代えられないからね。」


「その『手段』って⋯?」


「今から見せるけれど、幻滅しないでよ。」


 食杉さんは身体を大きく後ろに曲げ、その反動で一気に前方向に上半身を傾けた。


 目の前が黄色く染まった。刺激的な臭いが鼻をつく。まさか。そのだ。


 ゲロである。


 ラーメンとプロテインバーだった物が刃物男の顔面に直撃し、男はバランスを崩す。持っていたナイフは回転しながら宙を舞い、僕の手の甲をほんの少し掠めた。


 時間感覚はいつの間にか元に戻っていた。男は顔面ゲロまみれで床に倒れ込んでいる。僕は急いでナイフを拾い上げた。乗客が集まってくる。刃物男の行動は、一瞬だったが、その場にいた全員が目撃していた。




 警察の事情聴取が終わった頃には、既に日が沈みつつあった。


 あの後電車は緊急停止し、駆けつけた警察官によって男は逮捕された。僕たちは電車から降りて事情聴取を受けた。いろいろなことを聞かれたが、「不審者をゲロで撃退しました」という事実を説明するのは難しかった。


 次の電車が到着し、僕と食杉さんは一緒に乗り込んだ。前の電車とは違い、ほとんど乗客はいなかった。僕たちは隣に並んで座った。


「食杉さんは、どこの駅で降りますか?」


「次の駅よ。」


「はぁ。じゃあ僕とは違いますね。」


 僕の駅は次の次の、さらにずっと後だ。少し残念な気がした。


「その傷⋯」


 食杉さんが僕の手の甲に視線を落とす。男が落としたナイフでついた傷だ。さほど大きくはないが、まだ触れると痛む。


 次の瞬間、食杉さんは僕の手を持ち上げ、口に運んだ。慌てて手を引いたが、既に傷は綺麗サッパリ消えていた。


「守ると言ったのに、こんな傷をつけてしまってごめんなさい。お詫びに傷は食べてしまったわ。」


 僕は戸惑いながら、ありがとうございます、と言い、また手の甲を見た。本当に、傷が消えている。最初から無かったかのように。


「食杉さんは、何でも食べられるんですね。」


 電車の速度が徐々に落ちる。


「食べられない物も、1つだけあるわよ。」


 電車は駅に到着した。音を立てて扉が開く。


「食べられない物って、何です?」


「人の心よ。」


 そう言い残し、食杉さんは颯爽と電車を降りていった。


 食杉さんは何を言っているのだろうか。


 僕の心は、もうあなたに食べられてしまったというのに。

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【短編】食杉さんはよく食べる 滝村礼二 @takimura02

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