第13話
■12月25日 夕方、六日町駅
ホームへ下る濡れた階段をふたりで降りていく。雪をかぶった電車が震えた機械の音を立てながら、僕達を待っている。
いままで明るかった空は暗い雲に覆われ、雪がちらついていた。ホームへ降りる。線路は雪に埋もれ、レールの向こうは腰の高さまで雪がぼったりと積っていた。吹き込む雪がホームの端から中に向かって、粉砂糖をふるったような白いグラデーションを描いている。滑らないように気を付けながら、その上を歩いていく。後ろを振り向くと、ふたりの足跡がぺたりと付いていた。
拓真はずっと話さなかった。
僕はずっと話せなかった。
電車のドア横にあるボタンを拓真が押す。温かい空気がふたりを包む。いっしょに乗り込む。今度は僕が車内のボタンを押して、ドアを閉める。コートに付いた雪を払いながら、ふたりでいつもの向かい合わせの席に座る。
外は少しずつ暗くなっていく。僕達は話すことができず、ただ、そばにいた。
ずっととまどっている。拓真に抱き付いたときの感触が僕を困らせている。拓真に女の子だったら付き合えたと言われたことに喜んでいる。それから輝帆さんの笑顔を思い出して、黒い泥のような罪悪感が僕に満ちていく。その気持ちをなんとか蓋をしようと苦労している僕に、拓真が声をかける。
「なあ、奏太。こないだ贈った冬寂ましろの新刊、どうだった?」
うつむいたままで拓真は少し困っているように手を組む。静かに指を組み合わせて、僕の言葉を待っている。
喧嘩したとき、拓真が仲直りしたいときの癖だと、僕はすぐに気付く。だから、何も知らないふりをして、僕はリュックからカバーをしたままの本を取り出した。
「うん、面白かったよ。読んでみる?」
僕から差し出された本を受け取ると、拓真が子供のように笑う。
「俺がプレゼントしたんだから、持っとけよ」
「感想聞きたいし」
「もう読み終わったのか?」
「だいたいは」
「あいかわらず読むの早いな」
拓真が大きな手で、僕の差し出した本を受け取る。パラパラとめくりながら、僕にたずねる。
「これ短編集か。どの話が良かった?」
「新幹線の中から東京にいる恋人へ告白する話かな。少しずつ距離と真相が近づいていく感じが、緊迫感あっておもしろかったよ」
「そうか。この作家ってそういう話が多いな。話としては告白するだけなのに、なんか安心できないんだよな」
「わかる。でも、なんか心がぎゅっとする」
「ああ、そうだな。それは俺もそうだ」
本に目を向けたまま、拓真が言う。
「すまん、奏太」
僕にはその言葉でじゅうぶんだった。
「ううん」
僕達にはそれだけでじゅうぶんだった。
電車が動き出す。電子の声が行き先を案内する。黄昏る雪の世界へ僕達は走り出す。陰る窓に一瞬映った僕の顔は、輝帆さんの、あのとき見た女の子の表情をしていた。
ああ、そっか。
僕は女の子になる。
こうして女の子になっていく。
名前を付けたくなかった感情に、僕は名前を付けてしまった。
僕は拓真が好きなんだ。
握り締めた手が少しずつ白く変わっていく。
電車は僕と拓真を乗せて走る。わずかなヘッドライトの灯りを手掛かりに、夕闇と降り積もる雪の狭間を駆けていく。出口が見えないトンネルへ僕を連れて行く。
■12月31日 昼、奏太の部屋
何かを踏み超えてしまった気がずっとしていた。
名前を付けたくなかった感情に、自分から名前を付けてしまった。
わからないふりをしたかったのに、もうできなくなっていた。
拓真の背中に抱き付いたときの感触が、気持ち悪いぐらいに、体に残ってる。
感触を忘れようとしているのに、忘れられないでいる。
カーテンを下ろしたままの部屋の中で、僕は膝を抱えて座り込んでいた。
膝にふにと胸が当たる。恐々とTシャツ越しに自分の胸を触る。もう手のひらで包めるぐらいの大きさになっていた。見下ろすとわかるふくらみに不思議と僕は安心する。生まれたからずっとそこにあったように感じる。
男の子が薄れていく。
そのことに僕は怯えたかった。怖くなって欲しかった。
でも、いまはそれを受け入れようとしている自分がいる。
輝帆さんが言ってたように、拓真が全部悪い。
拓真のせいなんだ。拓真があんなことを言うから。
僕が女だったらって言うから……。
いまの気持ちはきっとそうなんだ。そう思おうと僕は努力する。
今朝、母は「宅配便が来るから受け取って。奏太のだから開けていいから」と言って病院へ勤めに向かった。大みそかなのに宅配便の人に申し訳ないと思いながら、僕は荷物を受け取る。いま、その箱の中身が、字部の部屋の床に散らばっている。
ブラにショーツ、キャミソール、タータンチェックのスカート、白いウールのセーター……。
あと、それに。
女子の制服。
母が買ってた女物の服。
それはもうすぐ僕が必要になるものだった。
曖昧な関係でいたかった。
このままでいたかった。
なのに、体は変わっていく。
変わっていく。人の見る目もつながりも、拓真との関係も……。
僕はまた膝を抱える。暗い部屋にひとりで沈み込む。深いトンネルの中にいるようだった。
暗い部屋にぼんやりとした明かりが灯る。それを感じる。なんだろう。僕は顔を上げる。スマホが光ってる。手を伸ばし、床に落ちたままのスマホを拾う。
……え?
「助けて」の文字が僕の目に飛び込む。
舞子先輩からだ。画面にはメッセージといっしょに、このマンションのすぐ下が写った写真が添えられていた。
舞子先輩が僕にしか助けを求められないことが起きている。
僕はすぐに立ち上がった。
急いで壁にかけてあったコートをつかむ。歩きながら袖に手を通し、サンダルをつっかける。玄関を出ると冷たい風が僕を襲う。気にせず廊下を走り出した。エレベータのボタンを押す。なかなか来ない。僕は階段に向かって走り出した。一段降りるとすぐに気づいた。胸が痛い。揺れる胸が僕をひっぱり、痛みを伝える。母から「ブラを付けないと走るとき痛いよ」と言われたことを思い出す。それでも走る。ちぎれそうだったけれど、それでも駆け降りる。舞子先輩を助けるために。
なんとか階段を降りて1階に着いたとき、息が切れていた。なんで、こんな……。体力がないのかな……。前はそんなことなかったのに……。僕は手すりに手をかけたままあえぐ。
行かなきゃ。早く行かなきゃ。悲鳴を上げている自分の体に、僕は言うことを聞かせる。サンダルの大きい音が静かな玄関に少しずつ強く響く。雪が少し吹き込んでいるマンションの玄関の扉を開ける。外は青空が広がっていた。冬の強い日差しが僕の目を射抜く。手で覆いながら、走り出す。消雪パイプの水で溶けかかった雪が、ばちゃばちゃと跳ねる。熱い汗が風に流れて冷えていく。
除雪してうずたかく積もれた雪の壁に向こうに、舞子先輩がいるはずだった。足元が滑りながら、どうにか角を曲がる。いた。僕は声を上げる。
「せ、先輩!」
男物の背広と黒いコートを着込んだ舞子先輩が、僕の声で振り向く。小さく束ねた髪が光の中できらめいていた。
男装?
どうして?
似たような服を着ている大人の男たちも、僕へ振り向いた。向けられた顔は「なに?」という表情をしていた。
ひとりの大きな男の人が、マンションでよく見かける人と、握手をしたまま僕へびっくりした顔を向けていた。
僕は膝に手をつきながら、肩で息をする。苦しさで満たされる頭では、いま起きていることがよくわからない。
大きな男の人は、握手していた手を離すと、舞子先輩へ話しかけた。
「史音。この方は?」
「高校の後輩です、お父さん」
……お父さん?
じゃ舞子先輩が言ってた議員をしているお父さんって、この人なんだ。
「私のために駆けつけてくれたのかな。そうだったらうれしいな」
大人達は和やかに笑う。
舞子先輩のお父さんは僕へ温かそうな手を差し出す。
僕はわけがわからないまま握手する。
「お名前は?」
「君島……、君島奏太です」
「そうか、君島君。応援してもらえたらうれしいよ」
その人は笑顔で僕を見つめる。その目はずっと僕を鋭い針で探っているように感じた。
薄く微笑んだ舞子先輩が僕に近づく。はだけたコートをさっと直してくれた。
「お父さん、この子は君島先生の息子さん。僕と同じ病気なんだ」
握手していた手がぴくりと動いた。それからそっと手を離された。温かった手が冬の風に触れて冷たくなる。
舞子先輩のお父さんは、僕に変わらない笑顔を向けたまま、やさしく言った。
「これからも史音をよろしくお願いします」
それから、もう興味がなくなったように大人達と去っていった。
一人の男の子とすれ違う。何も言わず、僕達を見ることもなく、大人達と歩き去る。舞子先輩がその背中に文句を言う。
「もう愛想がないな、我が弟は」
その中で一人だけ、僕と舞子先輩のそばに近づいてくる人がいた。舞子先輩を車で迎えに来ていた人だった。舞子先輩がつまらそうに言う。
「長谷川さんもあっち行きなよ」
「史音様、お父様を困らせてはいけません」
「わかっているよ。でも、ああでもしないと、お父さんは私に振り向いてくれないから」
「それは私も存じてますが、今日は年末のたいせつなあいさつ回りですから」
「うん、まあ……。わかった」
少し拗ねたようにしている舞子先輩と、立っているだけの僕に一礼すると、長谷川さんは小走りで男たちを追いかけていった。
舞子先輩がつま先で雪を蹴る。固まっていた雪が白く散らばる。砕けたそれを見つめたまま、僕へぽつりと言う。
「怒られちゃったね」
「舞子先輩……。何があったんです?」
「あいさつ周りに付き合わされているんだ。ほら、地元の地盤を継がないと、とか、そんな感じで。こんな恰好をさせられてね。有権者の皆様は、理解がある人ばかりじゃないから」
舞子先輩の微笑みがはがれていく。他人に作っていた笑顔が消えていく。
僕にはそれがわかっていた。僕もそうしていたから。
なんて話したらいいのか言葉を探していたら、舞子先輩が僕へ振り向いた。
「なんで走ってきたの?」
「なんで、って……。僕に助けを求めるなんて、何かあったかもって……」
「心配してくれたんだ」
「当たり前です。だって先輩は僕と同じ病気なんですし……」
ぷふと舞子先輩が笑う。それから僕の前に立つ。とてもうれしそうにしていた。まるで花が咲いたような笑顔で僕を見つめた。
「ありがと、白馬のお姫様。助かったよ」
春の日差しのような居心地のよい温かさが、僕の中でじわりと湧き上がっていく。
舞子先輩の手が僕に伸びる。抱き締められると思った。その手が僕のコートの襟をつかむ。ばっとコートを広げられた。着ていたTシャツが胸のあたりまで舞子先輩の目に映る。
「で、なんでノーブラなの?」
僕は後ずさりながら胸を抱え込むようにしてコートを閉じようとする。でも、舞子先輩が手がそれを許さない。じりじりとした攻防を続けたあと、舞子先輩がため息をつく。
「まだ抵抗してんだ」
「ダメです。ダメなんです」
「もう。だいたい女の子の体になってるのに」
「それは……、そうですけど……」
「違和感ある感じ?」
「はい……。なんか似合わなくて……。僕は男、ですから……」
舞子先輩が僕のコートから手を放す。
「ここから奏太君の家は近いんでしょ?」
「はい、すぐそこですけど……」
「なら、奏太君の家へ行こう。服を見てあげる」
「ダメですよ。お母さんもいないのに、女の子を家に上げちゃ……」
「ええ? ダメかな?」
小首をかしげて、僕をのぞき込む。ものすごくかわいい仕草で、心をくすぐるような表情をして僕へたずねる。
うーん。ええと、その……。
僕は負けた。
仕方がない。緊急避難とか、寒いから、とか、なんかそういう理由で……。そう思うことにする。
「少し、だけなら……」
舞子先輩が「あはは。ありがとうね、奏太君」とうれしそうに笑う。それから「同じって、いいな」って、自分へつぶやくように言っていた。
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