第9話


■12月19日 昼近く、君島家のリビング


 日曜日のリビングはいつもと変わらなかった。半分開いているカーテンから見える空は、ずっと灰色のままだったし、リビングのチェストは物憂げなぬいぐるみたちが僕を見守っている。その中に父と母と幼い僕を映した写真があった。三人とも、もこもことしたスキーウェアを着て、うれしそうに笑っている。


 いつも変わらないことに、僕は安心する。穏やかにいられる。流れる空気に僕はゆっくりと漂う。そうして過ごすのが大好きだった。


 でも、今日は違っていた。母が家にいる。休日診療や急患のせいで、日曜日でも母はあまり家にいない。だから、普段はキリっとしているのに、ぼさぼさとだらけている母を見るのは、僕には不思議なことで、それはそれで特別に幸せなことだった。


 遅めの朝ご飯の支度をしようと台所へ向かう。昨日の夕飯の残りと、余ってる納豆は……。ああ、そうだ。拓真のお母さんからもらった漬物を刻んで混ぜてしまおう。お母さん好きだし。それから……。献立を考えていた僕へ、コタツに入ったままの母が声をかける。


 「奏太」

 「なに?」

 「そろそろブラを買わないとね」

 「え?」

 「ブラ。おっぱい出てるし」

 「まだ早いよ」

 「走ると痛くない?」

 「だから……。まだいらないって」

 「自分で買う?」

 「それは……。ちょっと敷居が高いかな……」

 「お母さんはFカップあるから、奏太もおっぱい大きくなるよ。お母さんに感謝しなさない」

 「そんなこと急に言われても困るよ」


 困るけど、母が何か話したそうにしているのは僕にはわかった。ずっとそうだったから。最初にくだらない話をして、そのまま話を続けてもいいか、いつも相手に気遣う。

 僕はいっしょのコタツに入ると、上に置いといた籐のかごから、みかんをひとつ手に取る。


 「お母さんは、僕が女の子になることをどう思ってるの?」


 みかんを両手で握ったまま、僕は母にたずねる。母はそれがなんでもないことのように言う。


 「息子が娘になっても、私の子供であることは変わらないよ」

 「それはそうだけど……」

 「気にしてるの?」

 「うん、まあ……」

 「お母さんはね、たくさんの患者さんを見てきたよ。だから、どうにもならないのはわかってる。人は死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる。もうこれは仕方がないことなんだ」

 「でも、お母さんはそれでいいの?」

 「いい。奏太が幸せになってくれたら、それでいい」


 母はみかんに手を伸ばす。ひとつ取ると、細い指先で丁寧に皮をむいていく。房についた白い筋を細かく取る。そうしながら悩みに答えを出そうとしているように見えた。僕はそれを見守る。しばらくしてから母が口を開いた。


 「奏太は男として生きたい?」

 「うん、まあ……」

 「拓真君のことがあるから?」


 僕は目をそらす。いつまでも食べないみかんが、僕の手の中で温まる。

 しれっと母が言う。


 「拓真君とくっつけばいいのに」


 僕はあわてる。


 「何言ってるの! それはダメだよ」

 「どうして?」

 「輝帆さんがいるし、僕は体は女になっても、結局は中身が男なんだし……」

 「周りのことはひとまず置いときなさい。奏太自身はどう思っているの?」


 どうって……。

 母は黙ってしまった僕を諭すように言う。


 「拓真君は受け入れてくれると思う。変わらないよ、きっと」


 母がむいたみかんを僕へほいと差し出す。僕が開けた口の中へ放り込む。もぐもぐとする僕を見ながら、母は幸せそうに笑った。


 「さてと。なんか作ってあげる。最近は奏太にご飯作ってもらってばかりいたし」

 「いいよ。お母さんだって夜勤明けで疲れているでしょ?」


 僕はコタツから出て、台所へ向かう。一歩踏み出すと「奏太」と母に呼び止められた。振り向いて母にたずねる。


 「なに、お母さん?」


 母は僕の姿をじっと見つめていた。


 「後姿がもう……女の子だね」


 少し寂しそうに母は言う。その言葉をごまかすように、母が「よいしょ」と言いながらコタツから抜け出す。背伸びしながら立ち上がると、黒縁メガネを指で直しながら、どこか楽しそうに母は言う。


 「おふくろの味というのを教えておかないとね。奏太が嫁入りしたら困るから」


 それは楽しそうなふりをしているように見えた。


 お母さんだって、自分に言い聞かせている。大丈夫、変わらない、そう言い聞かせている。

 僕も母と同じことをする。わかってるのにわからないふりをする。そうしないと、母も僕もつらくなるから。


 「うん、お母さん。教えて」


 僕がうれしそうにそう言うと、母は微笑んだ。春の日向のような暖かい表情をしてる。でも、黒縁メガネの奥では、雪が降っている。それが僕が知っている、いつもの母の顔だった。

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