第8話
■12月16日 昼、六日町の高校、1年A組の教室
診察の後、遅刻して学校に着くと、みんなが心配そうにしていた。倒れてまだそんなに日が経っていないから仕方がない。でも「平気?」、「大丈夫?」の声に、僕は圧し潰されていく。
拓真が座ってる席の横を通る。拓真だけがなんでもないように「よっ」と声をかけてくれた。それが少しうれしい。僕は「うん」と変わらない返事をする。
昼休みの時間。いくつもの声が響く教室で、拓真を呼ぶ声がした。スキー部の人に呼ばれたようだった。教室から拓真が出ていく。後ろめたい気持ちはあったけれど、拓真に心配をかけたくなかったから、僕はその間に舞子先輩へメッセージを送る。
昨日はすみませんでした。
――石打拓真とお泊りデートでもしたのかな?
違います。
――ふたりして眠そうだったし。
どこから見てるんですか。
――3年生の間でもよく噂になってるんだ。石打拓真にいつも君島奏太がそばにいる。天野沢輝帆の恋路やいかにって。
昨日は拓真の家に泊まりましたけど、それは昔からそうです。幼稚園からの友達なんです。
――なら、つらくないか?
指が止まる。
それは……そうだけど……。
僕は逃げるように、アルミサッシで区切られた空を見上げる。灰色の雲が不安げにうごめいている。晴れない空に向かって、僕はつぶやく。
「つらいけど……。どうしようもないよね……」
スマホに眼を戻す。笹団子が「どうしたの?」と心配そうに首をかしげているスタンプが、舞子先輩から送られていた。
舞子先輩もやさしい人なんだろう。
心配してくれている。
自分の心配もしないといけないはずなのに。
僕はふうと息を吐くと、スマホに向き合った。
相談したいんです。
――そうだと思った。
体が変わり始めているんです。
――石打拓真には話してるのかい?
まだ話せないです。
――どうして?
どうして、って……。
言ってしまえば変わってしまう。
僕は男だから拓真のそばにいられるんだ。
女になったら、拓真のそばにいられなくなってしまう。
スマホをぎゅっと握り締める。あふれる何かを抑え込む。
スマホが震えた。
そっと手を開いて、表示されたメッセージを見てみる。
――土曜日ヒマ? 私とデートしない?
■12月18日 昼、六日町のイオン店内
舞子先輩に言われたデートの場所は、学校から近い六日町のイオンだった。まだ時間がある。コートに積もった雪を払うと、僕は店の中をぶらつくことにした。ここは普通のスーパーと同じように、肉や魚、野菜が置かれているスペースがある。でも、端のほうに行くと洋服店やケーキ屋さんとかもある。二階にある子供向けのゲームセンターには、母にねだってよく来ていた。田舎ではよくあるものらしい。よくある売り物、よくある白い壁、よくある店内放送。そしてよくある集う人々。でも、僕はここしか知らないから、そんなものだろうと思っていた。
ぶらぶらとしていたら、女性向けの洋服店に飾られた温かそうなスカートが目に映った。やさしい笑顔が似合うお姉さんが着ていそうなスカートだった。いまの僕にはそれに手を触れることができない。僕はまだ男だから……。
「着たい?」
ひっ。
あわてて声がしたほうに振り向くと、舞子先輩がすぐそばにいた。
「驚かさないでください。そんなんじゃないですから……」
僕の肩をぽんぽんと叩くと、何でもないようにそのスカートを手に取り、腰のところに当てて見せた。
「どう、似合う?」
「似合います、けど……」
「昔はぜんぜんでさ。もう、自分で笑うぐらい似合わなかった。この病気って、ゆっくり変化していくんだ。マンガみたいに朝突然、美少女になるってことはなくてさ」
「それは母から教わりましたけど……」
「まあ、ある意味、残酷なんだけどね」
スカートを売り場に戻しながら、どうしてか舞子先輩は少し寂しそうに笑う。
「着たくなる日が来ると思うんだ。そんときは言ってよ。助けるからさ」
「……なんで、ですか?」
「なんでって……。一目惚れってやつ」
「え?」
「嘘。冗談。だって、いじりたくなるよ。奏太君はかわいいから」
「ちが……」
「奏太君はね、まだ、つぼみなんだ。いつか女の子として花開く。そのときになっても困らないように助けてあげたい。私と同じ目に合って欲しくない。そんなとこ」
舞子先輩はどんなことにあっていたのだろう……。
それが悲しくてつらかったことは、母や先生達が話していたことからわかっている。
「聞かしてください、舞子先輩。何でも聞きますから」
僕の言葉を聞くと、舞子先輩はぱああとわかりやすく明るくなる。僕の右手をつかんで、僕を引っ張る。
「いいね。いろいろ話したいんだ。同病相憐れむってやつをしようよ」
字が違う……と思ったけれど、舞子先輩がうれしそうにしていたから、僕は何も言わないことにした。
イオンの端にあるケンタまで手を引かれる。僕達はそこで温かいコーヒーを買い、少し空いている奥の席に座って、静かに話し始めた。
体の変化。先に胸が出てしまい、それで周囲に気付かれる。肌も髪もしなやかになり、柔らかい雰囲気になっていく。体力がかなり衰える。
心の変化。変わる体のほうに心が引き寄せられる。でも自我は変わらない。急に男の人が好きになったりとかはないらしい。
周囲との変化。病気のことを言うのは、理解ある人にだけ伝える。そのことを強く言われた。
そうなんだ……。経験者だから話せる話ばかりだと思った。僕はいろいろ質問をして、理解しようとがんばった。それがやがて自分にも降りかかることなのだから。
少し話し疲れて、ふたりでコーヒーを一口飲んでいたときだった。僕は気にしていたことを聞いてみることにした。
「先生が舞子先輩は強いと言ってました」
「そうなの? 私、強いのかな」
舞子先輩が笑っている。僕はその姿を見て、そのままではいられなくなる。
「僕はそうじゃないと思います。強くならないといけなかった。舞子先輩はひとりでがんばるしかなかったと思うんです」
「え、なにそれ。奏太君はいい奴だな。そう思ってくれるなんて。照れるな」
ごまかそうとしていた。でも、僕は聞かないといけないと思った。
「何が……あったんですか?」
舞子先輩は腕組みをしながら考え出す。考えながら、ぽつりぽつりと言葉を探すように話し始めた。
「うーん。なんだろ。いじめだと、いじめているほうが思わない、いじめかな……。結局、私は何をしてもダメだった。こうしていられるのは、私がみんなから離れたから」
「どういうことです?」
「自分がとまどう以上に、周りがとまどうんだ。父はずっと男として私を見ている。男の友達はずっと興味本位で聞いてくる。女の体は具合いいのか、とか。触ってみたのか、とか。女の人は最初は興味を持つけれど、その輪の中には決して入れてはくれない。だから、みんなと距離を置くしかなかった。やがて奏太君もそうなってしまうよ」
「それは……そうかもしれないですけど……」
「もう、つらいんだろ? 言ってごらんよ」
聞くつもりが、聞かれることになる。
温かいコーヒーカップを両手で包む。冷たくなった指先が少しだけ暖まる。
「拓真との関係に悩んでます」
「たとえば?」
「いっしょに遊んだりすることができなくなると思います。それが少し寂しい……」
「少しどころじゃないんだろ?」
「……はい」
「でも、体が変わってしまう。関係はどうしても変わってしまうよ」
母と真逆のことを舞子先輩は言った。僕はもっと暖まりたくてコーヒーカップをぎゅっとつかむけれど、それは少しずつ冷たくなっていく。ゆっくりそこから手を離すと、僕は震えた声を出していた。
「僕はどうしたらいいんですか?」
舞子先輩は自分のコーヒーを見つめたまま言う。
「どうにもならないよ」
「そんなこと、言わないでください」
「どうにもならないから、私はあきらめたんだ。でも、奏太君にはあきらめて欲しくない、って私は思ってる」
舞子先輩が、僕に笑いかける。それは凍えた花のように見えた。何もない荒地でひっそりと、うなだれて咲いている一輪の花のように思えた。
そんなことない、って言いたかった。
でも、できなかった。
自分ですら、こんなにも不安なのだから……。
舞子先輩の表情がふいに変わる。僕の後ろのほうを見つめる。
「うん? 誰だろ?」
後ろを振り向くと、誰かが僕らに手を振っている。拓真だ。輝帆さんもいる。僕達の席に近づいて来る。どうしよう。まだ言いたくないのに。舞子先輩に無言で助けを求めたら、静かにコーヒーをすすっていた。もう。助けるって言ってたのに。困っていたら、目の前に拓真がいた。
「よっ」
「え、あ。拓真、どうしたの?」
「クリスマスプレゼントを探しに来てた」
後ろにいた輝帆さんがむくれている。本当にデートだったのだろう。
舞子先輩が席を立った。輝帆さんを見ながら微笑むと、少し安心したように言った。
「邪魔者はここで消えるよ」
僕は「え?」という自分でも間抜けだと思う声をあげた。舞子先輩は「またね」と笑顔を残して去っていった。
隣にどかりと座った拓真に、肘で小突かれる。
「奏太もやるじゃんか。あれって3年の舞子先輩だろ? スキー部でも人気あるぞ」
「そういうのじゃないって」
輝帆さんが濡れたコートを丁寧に畳み、僕の前に座った。肩まで伸びる明るい色の髪がふわりと揺れる。それから不思議そうに言い出した。
「うん。あの人、そういう話がなくてさ。だって元は男だし」
それを聞いた拓真が「え、マジか」と大げさに驚く。この反応が普通なのだろう。でも、小さなトゲを刺されたようだった。舞子先輩の話してくれたことが、いまになって少しわかってしまう。そして、僕の将来も。
僕は話題を変えたくなって、輝帆さんにたずねた。
「舞子先輩のこと、なんで知っているの?」
「中学のときは、もうちょっと男の子ぽくて。すごいからかわれたんだよね。私、そういうの我慢できなくて。みんなからかばってあげたんだよ」
「そうなんだ……」
「奏太はなんで知ってるの?」
「えと、病院で会って……」
しまった。それ以上言ったら僕の女性化のことが……。
言い淀んでいたら、拓真が綺麗なブックカバーをかけた本を僕へ差し出した。
「ほら、クリスマスプレゼント。冬寂ましろの新刊、読みたいって言ってただろ?」
「あ、ありがとう……」
渡された本を受け取る。輝帆さんが拓真を見ながらむくれだした。
「え、ひどい。私のほうが先にプレゼント欲しかったのに」
「どうせゲレンデには来るだろ?」
「うん、まあ……」
「サンタの恰好してゲレンデを滑るバイトをしているから。そのときにこっそり渡す。そっちのほうが楽しそうだろ?」
「なら、許す」
輝帆さんが甘いものをたくさん頬張ったように笑う。
拓真に向けて、甘く溶けたように微笑む。
親友の彼女。
恋人の顔。
女の子の表情。
女の子ってなんだろう……。
女の子って……。
僕は悩み出す。
男、なのに……。
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