第7話
■12月16日 朝、拓真の部屋
鈴の音がした。目を開けると、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
猫が僕の目の前にいた。ふさふさとした白い毛を揺らして、すんすんと匂いを嗅がれている。
「おはよ、フェリシア」
朝の挨拶をしてあげると、猫は僕の顔をざりざりとした小さな舌で舐め出す。
「痛い、痛いって」
僕はお返しに猫の背中をかしかしとかいてあげた。猫はうにゃんと言うと、僕の腕に寄りかかるようにしてひっくり返り、お腹を上に向けた。
拓真の寝ぼけた声がベッドのほうから聞こえた。
「痛いのか?」
僕はあわてて拓真に言う。
「あ、違う。フェリシアが僕の顔を舐めたから」
「ああ。夜中にトイレ行ったときにドアを締め忘れたからか」
ゴロゴロ言う猫を僕は布団に引っ張りこんで抱き締める。
温かい。猫はされるがままになっている。
気持ちいい。こうして居られられたら。ここにずっと居られたら。
想像の幸せ色に僕は包まれる。
トタトタと階段を上がる足音がした。扉を開く音といっしょに拓真のお兄さんの声が聞こえた。
「おまえら、遅刻するぞ」
急に目が覚める。え、今何時? 枕元にある時計を見る。あ、ヤバい。僕は布団を跳ね退け、不思議そうな顔をしている猫を横にそっと退けて、まだベッドの中にいる拓真の体を揺する。
「まずいよ、拓真。早く支度しないと遅刻しちゃう」
「なら、遅刻しようぜ」
拓真が僕の腕をつかむ。ベッドの中に引きずり込もうとする。こ、こら。手を離せない。力が強い。困っていたら、拓真のお兄さんが、拳で拓真のおでこをコツンとする。
「痛っ! 何すんだよ、兄さん」
「奏太君を困らせるな。朝ごはんすぐ食べれるようにしてるから、早く食え」
僕をつかんでいた拓真の腕が離れていく。その残念そうにしている様子に、拓真のお兄さんは苦笑いを浮かべる。それから僕のほうに振り向く。
「奏太君。君のお母さんが迎えに来てる」
「え?」
「玄関のほうにいる。着替えなくていいから、そのまま来てくれって言われている」
「はい、いま行きます……」
スマホをちらりと見ると母からのメッセージがたくさん来ていた。母に助けて欲しいというメッセージを投げたまま、つい寝てしまった。あわててリュックにスマホと着ていた学生服を押し込み、それからフェリシアの頭を「また来るからね」と撫でてあげた。
起き上がった拓真がお腹をポリポリかきながら「ついてくよ」と言う。僕達はひんやりとした青いカーペット敷きの廊下を通り、住居と宿を分けているこげ茶色の扉を開ける。温かい空気があふれる。小さな絵や藤の籠とかがかけられた廊下をさらに進むと、立てかけられたスキー板がいくつも置かれている大きな玄関に出た。母の車がその玄関の向こうに見える。その車のそばで母は、拓真のお母さんと何か話してるようだった。
「靴、こっちに持ってきたから」
拓真のお兄さんが、僕の履いていたくるぶし丈のスノーブーツを持ってきてくれた。受け取って履いてるときに、拓真のお母さんといっしょに母が僕のそばにやってきた。
「奏太、大丈夫なの?」
「ごめん。メッセージ送ったあと、そのまま拓真に寝かしつけられた」
「心配したよ……って言いたいけれど、そんなに心配していなかった。拓真君がいてくれると思ってたから」
「まあ、そうだったけど……」
母が後ろにいた拓真に頭を下げる。
「ありがとうね、拓真君」
拓真があわてだす。
「やめてください、先生。ただ風呂に入れて泊めただけですから」
母が僕へ視線を移す。いまの拓真の言葉で察したようだった。
「奏太。外来が始まる前に、病院で診察したいんだけど、いい?」
僕は黙ってうなずく。それを見ると母が「ありがとうございました」と言って、石打家のみんなに頭を下げる。僕も母と同じように深々と頭を下げる。拓真のお兄さんは「今度はいっしょに遊ぼう」と言ってくれた。拓真のお母さんなんか「いつでも頼っていいからね」と言いながら、いつのまにか手にしていた自家製の漬物を僕に渡してくれた。
拓真だけは違った。すがるように母へたずねた。
「奏太は……、奏太は大丈夫なんですか?」
母は拓真を安心させるように笑顔で言う。
「大丈夫だよ。死ぬことはないから」
「でも、俺みたく痛みが残るとか、そんなことがあれば……」
「そのときは拓真君、奏太を頼むよ」
「はい……」
拓真が僕を見る。とても心配そうな顔をしている。僕はそんな拓真に嘘をつく。
「ごめん。なんでもないから」
拓真は僕を見ずに「わかった」の一言だけ声を上げた。
雪が混じる冷たい風が、何も言えない僕と見つめている拓真の間を通り過ぎる。
「奏太。そろそろ行こう」
母が僕を促す。僕と母は再び頭を下げると玄関を出て、雪をかぶらないうちに急いで車へ乗り込む。
車のドアを閉めると、母が僕にたずねた。
「体のことは拓真君へ話したの?」
「ううん、まだ。いっしょにお風呂は入ったけど、拓真は何も言わなかったし。でも……」
「でも?」
「脱衣所で、お客さんに女の人が入っていると言われた」
「そう……。もう、ちゃんと話したほうがいいかもしれないね」
ワイパーのキュッキュッという音が、静かになった車内に響く。
車が動き出す。雪を踏みしめたタイヤがガリガリという固い音を立てる。
道路は混雑していた。朝一番のロープウェイやリフトに乗ろうと、スキー板を担いだ人たちが雪に覆われた道を歩いている。県外のナンバーを持つ車たちが先へ行こうとひしめいている。
母はそれとは逆の方向に向かい、緩やかな坂を下りながら上越線のガード下をくぐっていく。
越後湯沢の街のほうへ向かう道に出たとき、母が口を開いた。
「奏太は体が女に変わったら、拓真君との関係が変わると思っている?」
流れ過ぎる雪の街を見ながら、僕は静かに言う。
「拓真には、輝帆さんという恋人がいるんだよ。僕が女になったら、ふたりにとって迷惑になるから」
「お母さんはね、奏太と拓真君はお互いの傷を塞ぎ合っているように見えてる。ふたりともまだ若いのに、いろいろありすぎたんだ。だから、こうして寄り添うのは悪いことじゃない」
「でも……」
「それで壊れる絆だとは、お母さんは思ってはいないよ」
車がチカチカという音を鳴らして左へ曲がっていく。シャッターがまだ締められたままの色褪せた商店街を過ぎていく。軒先に積った重い雪が、みんなを圧し潰そうとしているように僕は感じた。
■12月16日 朝、湯沢の総合病院、診察室
診察室の扉が開くと、看護師さんが待ち構えていた。運び込まれたときにお世話になった看護師さんだった。あいかわらずピンクのゆーたんを下げたボールペンを胸に差している。
「奏太君、中に入って」
病院の診察室には、白衣を着た母が座っていた。机にあるモニターに映された文字と数字をじっと見ている。僕に気づくと、指先を僕に伸ばす。
「少し触れるよ」
「うん」
母が僕の上着をめくる。あらわになった胸に指先が触れる。ひどく冷たい。
「確かにな……。ギリギリAカップぐらいはあるかな」
「うん……」
「痛みはあるか? 胸のところに違和感とか、そういうのは?」
「少しある。こりこりするところが胸の中にあって、じんわり痛い」
微笑んでいた看護師さんが、真面目な表情に変わる。母が僕の服を戻しながら言う。
「痛いのは気にしなくていい。程度の差はあるが、女性なら胸が出る思春期にみんな経験していることだから」
「そうなんだ……」
「下のほうはどう? 何か変わっていることはある?」
「え? いや……。変わらないけど……」
「靴を脱いで、そこに寝てくれる?」
「うん……」
言われた通りに診察室の固いベッドに寝そべると、看護師さんが毛布をかけてくれた。
母がぱちんとゴムの手袋をつける。
「睾丸に触る。大きさが見たい」
「え?」
「お母さんが嫌なら、男の先生に……」
「そ、それも嫌だよ」
「恥ずかしがることはない。奏太が病院へ運ばれたときに一回見てる」
「お母さんはいつもそうだよね。医者だからって、やっていいことと悪いことがあるんだよ」
看護師さんがぷふと笑う。たぶんこの看護師さんとは、母の被害者同盟を結成できるはずだ。
「すぐ終わるから。ズボンを下ろしなさい」
看護師さんが僕を見ないように、後ろを向いてくれる。
これ、覚悟しないとダメな奴?
ええ……。
僕はあきらめて、毛布の中でそっとズボンを脱ぐ。
母は容赦なかった。すぐに手を毛布の中に入れる。
ひっ。
握られた感触は一瞬だった。母はすぐに机の上に置かれた、いろいろな大きさのボールが連なったものに触る。
「縮んでいる。だいぶ退行してるな……」
涙目になった僕は、下ろしたズボンを毛布の中で素早く履く。
看護師さんが「もう大丈夫ですよ」と毛布を取ってくれる。僕は体を起こして、診察台のベットに腰掛ける。
母はモニターを見つめたまま、僕へ事実だけを宣告する。
「女性化が早く進んでいる。他の症例よりだいぶ早い。血液検査次第だけど、3割ほどはもう女性だろう」
「……どういうこと?」
「この進行具合だと、女性の体になるのは、3ヶ月後ぐらいだと思う」
3か月。
なら、2月にはもう……。
僕は静かに灰色の床を見つめる。
拓真になんて言えばいいんだろう……。
母が医師の声から母親の声に変えて、僕に伝える。
「奏太。年が開けたらもう隠せなくなる。周りに知らせることも考えたほうがいい」
「でも……」
「言えないのなら、お母さんからみんなへ伝えようか?」
僕は首を横に振る。
拓真には自分で伝えたい。
そうしないといけないと思った。
「僕が言う。拓真にもちゃんと話す」
「わかった」
母は温かい母親の顔を戻っていた。黒縁メガネを直し、僕をやさしく見つめる。
「奏太、無理はしないでね。お母さんは奏太の味方だよ。それを忘れないでね」
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