第6話
■12月15日 夜、拓真の家、露天風呂
拓真の家は、宿の建物がくっついていて、その奥のほうに小さな露天風呂があった。建物の壁と植え込みで囲われた、4人も入ればいっぱいなぐらい小さな露天風呂だった。源泉から引いたお湯をかけ流しているから、お風呂の近くに来ると、いつも水が流れる音がしていた。
脱衣所の曇りガラスが入った引き戸を開ける。少し湿った匂いがしていた。宿泊しているお客さんは入っていないようだった。拓真は着替えをかごに入れると、黒いTシャツの首元に親指をかけ、一気に脱ぐ。腰に巻かれたものものしい白いコルセットが、僕の目を奪う。
「悪い。コルセット外すの手伝ってくれないか?」
背中を向けながら、拓真がそういう。コルセットは3本の幅が広い帯がマジックテープになっていて、それで締められるようになっている。そのひとつに手をかける。あれ、なかなかはがれない。力をこめると、ベリベリという音を立てて、コルセットが緩みだす。もうひとつ、もうひとつと外すと、コルセットが外れた。背中ら残された痛々しい手術の跡が現れた。まっすぐな切り傷、金具で背中を固定した丸い跡。その傷にそっと指先で触れると、僕は胸が締め付けられる。
「拓真、もう痛くない?」
「痛くないと言ったら嘘になるが、まあ温泉に浸かって温めればだいぶ楽になる」
「なら早く入りなよ。寒いでしょ?」
「ああ。おまえもすぐ来いよ」
露店風呂に続くアルミの扉をガラガラと拓真が引く。タオルを手にしてぼんやりとした灯りに照らされた湯船へ向かっていった。
僕は拓真から聞かされていた。痛みが出たのは中学1年生で強化選手に選ばれたときだった。周りの期待を受け、痛いのを拓真はずっと我慢していた。中学2年生の春、足にしびれが出て歩けなくなったとき、たまたま近くに母がいて、すぐに拓真を病院へ連れて行った。手術しないと一生歩けないところまで悪化していた。なぜ我慢していたのか問いただす母に、拓真は「俺はがんばらないといけなかったんです」と、押し殺した声で告げていた。
僕にはわかってた。離れて暮らす父親の代わりに何でもできるお兄さん、毎日宿と生活を行き来して生活を支えているお母さん。拓真が自分の居場所を見つけるには、がんばるしかなかった。
だから僕は見守っていた。あの図書館の片隅が、拓真の居場所だとわかっていた。僕はそこで静かに寄り添っていた。せっかく出来た拓真の居場所を奪わないように。
そして、そこが僕の居場所にもなった。拓真の居場所にすぐそばが僕の居場所だった。
僕は着ているYシャツに手をかける。ぎゅっと握る。
大丈夫だよ、きっと……。きっと大丈夫。でも……。
ボタンを外していく。白い肌が少しずつあらわになる。脱衣所の曇った鏡へ、不安に染まった自分を映す。
ほら、何も変わっていない。これからも変わらない。何度もそう自分に言い聞かせる。
申し訳ない程度に下をタオルで隠して冷たい扉を手で引く。外に出る。ふわりと白い息が暗い夜空へ上がっていく。ちらちらと降る雪と湯気が混ざり合うのが見えた。暖かい色のぼんやりとした灯りが岩で囲われた湯船を照らしている。
僕は、そばにある手桶で湯船から湯をすくうと手早く体にかける。「寒い寒い」と呪文を唱えるように言いながら、湯船にすぐ入る。拓真のそばで肩まで湯に浸かる。
はああ……。
溶ける……。
縁にあるちょうどいい岩に頭をのっけて、空を見上げる。黒い空から、白い雪がひらひらと生まれてくるように見えた。
隣で頭にタオルを乗っけた拓真が、僕にたずねる。
「奏太、本当に体は平気なのか?」
「うん。お母さんは、この病気で死ぬようなことはないって言ってた」
それ以上は言わなかった。これ以上は拓真を心配させたくなかった。
拓真が伸びをすると、僕と同じようにして、岩を枕に空を見上げた。
「俺にできることはあるか?」
「いままで通りでいいよ」
「それでいいのか」
「うん」
拓真が体を起こす。僕へうれしそうに笑いかける。
「よかった。それなら楽しいことをたくさんしなくちゃな」
拓真……。
ダメだよ、そんな顔しちゃ。
そんなうれしそうな顔を僕にしちゃ……。
僕は拓真の体にすがりつきそうになる衝動を必死に抑える。
ごまかすようにため息をついて、怒ったふりをする。
「輝帆さんともちゃんと付き合うんだよ?」
「そうだな」
「クリスマスはちゃんとデートしなくちゃ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんだよ」
「バイト入れちまったしな……」
「まあ……。稼ぎ時だものね。お客さん、たくさん来るし」
「そうなんだよな。自分がロマンチックになる前に、客をロマンチックにさせないとな……」
ほっとくと、このまま輝帆さんには何もしなさそうだった。
僕は自分の気持ちには蓋をして、親友としての言葉を拓真に投げた。
「大切にしてあげなよ。輝帆さん、拓真のことが好きなんだから」
「なんで、俺なんか好きになったんだろうな」
「拓真はやさしいから」
「そうか?」
「そうだよ」
僕はゆらめく仄暗い水面を見つめる。控えめな灯りが、僕の心のように揺れている。
ああ……。
女になんかなりたくないな……。
女になったら、こんなふうに拓真のそばにいられなくなる。
男だから、こうしていれられる。
なんでだろう。
なんで、こうなったんだろう……。
気持ちがあふれそうになる。でも、また泣いたら拓真を心配させてしまう。僕は手ですくったお湯を顔にざぶざぶとかけると、お風呂からあがった。
「少しのぼせたかも。先に上がるね」
「平気か?」
「うん、少しだけだから」
「なら、いいが……」
「拓真」
僕は後ろを向いたまま、拓真を見ずにたずねた。
「もしも僕の体が化け物になっても、拓真はそばにいてくれるの?」
「何言ってんだ。友達だろ。当たり前だ」
「そっか」
「上がったら、そのまま二階に行っとけ。布団はいつものところにあるから」
「うん、わかった」
脱衣所の扉を開ける。ほてった体に湯気が立ち上る。
変なふうに思って欲しくない。でも、少しは変なふうに思って欲しい。
お風呂から上がったのに、僕の心は、まだ水面のように揺れている。
タオルで体を拭いているときだった。脱衣所の引き戸を開けて親子連れが入って来た。男の子のほうはまだ3歳ぐらいかな。ちっちゃい、かわいい。その子は僕を見ると指差してこう言った。
「なんで女の人が入ってるの?」
……え?
振り向く。曇りが取れた鏡に、少し膨らんでいる胸が映っていた。
……どうして?
お父さんは指を唇に当て「しっ」とだけ言った。
間違えられている。
僕は女の人だと思われている。
あわててカゴから服を取り、急いで着る。
体が変わってきている。もう少し先だと思ってたのに。
どうしよ……。どうしたらいいんだろう……。
僕は二階に駆け上がり、拓真の部屋に入ると、母へメッセージを送る。
返事がない。
返事が来ない。
崩れるように座り込む。
スマホを握り締めたまま、僕は震えだす。
涙が瞳からにじむ。あふれた滴が頬を伝わる。
助けて。お願い。
僕は……、僕はどうしたらいいの。どうしたら……。
「どうした?」
聞こえた声に振り向くと、濡れた髪をタオルで拭きながら、拓真が僕を見ていた。
「なんでも、ない……」
「泣いてるのか?」
「ちが……」
拓真が僕の前にひざまずいた。
手にしたタオルで、僕の頬を拭う。
「なら、笑っとけ」
涙の理由を聞かずに、拓真は僕を安心させようと笑顔を向ける。
ずっと変わらない笑顔。あの日も、今も、それは変わらない。初めてのスキーで転んでしまった日も、父が亡くなってすぐの日も。ずっと拓真は僕にやさしさをくれている。
僕は、拓真と僕は……、なのに、もう……。
心が揺れる。大きく揺れる。
我慢してたのに、我慢できなくなってる。
僕は震えだす。意識とは裏腹に口が開いてしまう。
「拓真、僕は……」
拓真が慰めるように僕の頭をそっと撫でた。
「痛いところはないのか?」
大きな手が僕を安心させる。そのやさしさにまた涙があふれてしまう。
拓真、ごめん。ごめん……。
言っちゃだめだ。この関係を続けたいなら。
僕は拓真が持ってたタオルをひったくると、ごしごしと顔が消えそうなぐらいに拭いた。
「ごめん、拓真。いろいろ思い出したり、病気のこととか、なんか……。ごめん。いま、気持ちがぐちゃぐちゃでさ」
「そういうときもあるさ。もう寝ちまおう。寝るのがいちばんだ」
「うん……」
拓真が隣の部屋から布団を持ってきてくれた。敷くの手伝う。布団に潜り込む。ひんやりとした感触が少しずつ暖かく変わっていく。
「電気消すぞ」
「うん」
暗闇に包まれる。外にある街灯からの明かりが、カーテンの隙間からわずかに差し込む。
僕は目をつぶる。
泣くなんて、どうかしている。どうにもならないと絶望する。心のいちばん暗い底で冷たい雪が吹き始めている。
「俺は待つよ」
ふいに拓真の声が聞こえた。
「俺が選手を止めて図書室でふてくされていたとき、奏太は向かいの席で俺が話すまで待ってくれていた。あれはうれしかったな。他の奴はかわいそうとか気遣ってばかりいたから、そうしてくれたことがうれしかった」
寝返りをして、布がこすれる音が聞こえた。
「だからさ、俺も待つよ」
話せないでいる。
でも、話すべきなのだろう。
僕の心はまた水面のように揺れ始めた。
掛け布団を少しだけめくり、僕は手を伸ばす。ベッドで寝ている拓真に向けて、届いてほしいと思いながら、ゆっくりと暗闇の中へ手を伸ばす。
「拓真はやさしいよ」
僕の声に拓真が笑う。
「輝帆からは、そんなふうに言われたことがないな」
そうだよ。それはきっと僕だけが知っている。そう思っていたい僕がいる。
でも……。
それはいけないことなんだ。
だって……。
誰も幸せにはならないから。
揺れている心にわからないふりをして、僕はそっと伸ばしていた手を下ろす。
「ごめん、拓真」
「謝ることなんかひとつもないさ」
「うん……」
「寝とけ。明日はまた学校だ」
「うん……」
もう何も聞こえない。暗闇に静けさだけが残される。それはまるで長く続くトンネルの中に、ひとりで迷い込んでいるようだった。
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