第5話

■12月15日 夕方、六日町駅


 雪が作る柔和な光の中のなか、通学路を黙ったまま歩く。歩道の両脇には高い雪の壁が迫り立ち、ときおり吹く風が僕達を白くさせる。息も、視界も、そして心の中まで白くなっていく。


 消雪パイプのひとつが壊れて噴水のように水を吹き上げているのを見ながら、大きな道路を渡る。

 家々の軒先でつららが幾重にもきらめく。

 玄関の前でしている雪かきのざっざっという音だけが響いている。


 歩道脇の雪の壁を過ぎると、六日町駅の入口が見えてきた。タイル張りの建物が雪に霞んでいる。ふたりで階段下のひさしがあるところへ避難する。体にまとわりついている雪のかけらをぱたぱたとはたいていると、拓真はいつもと同じように寒がっていた。


 「ひぃ、さむさむ。凍えちまう」

 「スキー選手だったくせに」

 「仕方ないだろ。寒いもんは寒いんだよ」

 「電車出るの、まだ先だよ。どうする?」

 「なら、図書館寄るか。少し暖まろう」

 「拓真」

 「どうした?」

 「いいの?」

 「おまえは気にしすぎだ」


 拓真の大きな手が、僕のリュックについた雪をはたく。


 駅の階段を上がり、人気のない改札口を横に見ながら、駅の反対側に出る。階段を下りていくと、雪かきがされたロータリーの先に、銀色のバスが止まっているのが見えた。歩道を丸ごと覆うひさしが付いた商店街が続いている。それは雪の中まで続き、奥のほうは白くて見えない。


 駅を出てすぐのところに、地元のスーパーと併設された真新しい市民図書館がある。自動扉の前で靴の雪をはたき、中へ入る。いつもと変わらない木の匂いが僕を包む。ずっと奥まで真新しい本棚といろいろな本が続いている。意外と人が多い。六日町駅の周りには学校が多いから、塾がない学生はここで勉強している。自習用の机がいくつかあるけれど、そこはいつも満席だ。


 壁沿いに歩き、郷土資料のコーナーに行く。そのそばにあるふたり用のやさしそうな机をそっと触れる。中学生時代、拓真が怪我で選手を辞めたときだった。ここで拓真はひとり本を読んでいた。誰にも近づけさせない雰囲気を漂わせながら、むすっとした表情をしていた。


 僕はそんな拓真の向かいに座り、本を開いていた。拓真が何かを話したくなったとき、いつでも拓真の話し相手になれるように、いつもそうしていた。雨の日も、晴の日も。そうして半年ぐらいした吹雪の日だった。「奏太、なんかおもしろいのない?」と拓真に聞かれた。僕は読みかけの本を閉じて「これ、いいよ」と手渡した。拓真を安心させたくて、笑顔を向けながら本を渡した。拓真はその何でもないやりとりをしたあと、目に涙を滲ましていた。別れ際に「ありがとうな」と照れくさそうに言われたのを、いまでも覚えてる。


 僕は落ち込んでいる拓真を慰めもしなかったし、話しかけようともしなかった。ただそばにいた。そうされたことが拓真にはうれしかったようだった。それからずっと僕は拓真のそばにいる。誰よりも近くに。恋人よりも近くに。


 ふいに考えてはいけない思いが湧き上がる。


 女になれたら、もっと近くにいることができるかもしれない。でも輝帆さんは?

 女になったら、こんな近くにいることはできなくなる。そのとき拓真はどう思うの?


 僕は思い出がある机から、そっと手を離す。


 拓真が本を手にして近づいてきた。僕を見ると不思議そうな顔をした。


 「あれ、まだ本を選んでないのか?」

 「うん……。なんか読みたいの無くて」

 「いつもならすぐ手にしてるのに。まだ具合が悪いか?」

 「大丈夫だよ」

 「大丈夫は信じられない」


 拓真が僕を見つめ、真剣な表情を向ける。


 「そう、おまえが言ってたんだぞ」

 「うん……」

 「俺は心配しているんだ」

 「わかってるけど……」

 「やさしくしたいんだ。おまえのように」


 見つめるまなざしが僕を揺さぶる。どきどきしている。

 僕は気持ち悪い。こんな僕は……。

 どうにもならないくせに期待している。拓真が僕を選んでくれることを望んでいる。


 スマホがポケットの中で震える。取り出すと母からメッセージが来ていた。のぞき込む拓真に僕は言う。


 「お母さん、今日は遅くなるって」

 「なら、うち来るか?」

 「え、いいよ。拓真の家、いまシーズン最中で忙しいでしょ?」

 「気にするな。うちの温泉、体にもいいんだぞ」

 「それは知ってるけど……」

 「母さんも兄さんも喜ぶ。来いよ。いっしょに飯を食おう」

 「うん、まあ……」


 僕はそのまま流されるように電車に乗った。いつもより少し揺れる電車が、僕の心も揺らしている。



■12月15日 夕方過ぎ、拓真の家


 拓真の家は、ゲレンデに近いところで旅館をやっている。旅館といっても、木造作りの古風な造りでもなく、何百人も泊まれるようなところではなかった。普通の民家に増築を重ねて、表側だけ山小屋風にした、そんな小さな宿だった。

 宿の裏側に回って雪の壁が囲む、小さな玄関の扉を開ける。石油ストーブの匂いが混じる温かい空気といっしょに、いつも元気いっぱいな拓真のお母さんが出迎えてくれた。


 「おかえり。あれ、奏太君も!」

 「こんばんわ、おばさん」

 「もう寒かったでしょ。ほら、あがって。今日は奏太君が好きな豚汁あるよ」

 「はい……」

 「もう、はにかんで。かわいいね。うちにお嫁さんに来て欲しいぐらい」

 「いや、拓真には……」

 「遠慮しなくていいの。ふたりいっしょに嫁いできてもいいんだから」


 そう言われて困っている僕を見ながら、拓真は笑っていた。


 「あとでお風呂入りなよ。今日はお客さん二組だけだから」


 拓真がたずねる。


 「兄さんは?」

 「厨房。夕飯の支度してる」

 「なら、玄関の雪掻き、やっとくよ」

 「まーた、この子は。腰の負担がかかるでしょ? 君島先生に叱られるよ」

 「でもさ」

 「いいって。あとでご飯、部屋へ持ってくから。なんかゲームするんでしょ?」

 「うん、まあ……。わかった」


 拓真のあきらめたような顔が、勝手口の橙色の灯りに照らされる。役に立とうとしている。それができなくなった拓真がいる。みんなに期待されていたのに、スキーの選手を辞めるしかなかったときから、ずっと拓真はあきらめている。だから、僕はいつもこう言ってた。


 「行こうよ。拓真」


 今度は僕が、拓真の背中の雪をはたいてあげる。拓真は「そうだな」と少し笑ったようにつぶやくと、暖かい部屋へと歩き出した。



■12月15日 夕方過ぎ、拓真の部屋


 二階に続くカーペット敷きの階段を上がる。突き当りを左に曲がり、拓真の部屋の扉を開ける。部屋を見て何度も思うことだけれど、言ってみれば、そこはスキーバカの部屋だった。くすんだ色の砂壁に、いくつかのスキーの板とストックが無造作に立てかけられている。ビンディングやよくわからない金具が床の端のほうに転がっている。どう使うのかわからない筋トレグッズも混ざっている。そのなかには黒い医療用のコルセットもあった。

 ベッドの脇にある本棚には、スキーに関する本が多い。いまは少し埃をかぶっている。選手をあきらめたまま止まっている。でも、その中に自分が薦めた本がある。冬寂ましろのとか、あと……。


 少しずつ、拓真の部屋に僕がいる。

 少しずつ、拓真の中に僕がいる。


 それを僕は感じている。


 拓真は机の横に置いた古いテレビをつけると、そばにあったゲームパッドを僕に投げて寄こした。


 「まずは対戦だ」

 「勉強は?」

 「これはおまえの健康診断だ」

 「なんだよ、それ」

 「動態反射とか、指の運動とか……。まあ、そんなとこだ」


 僕は苦笑いしながらベッドの端に腰掛ける。ゲームパッドをカチャカチャしながら感触を確かめた。


 「いいよ、やろう」


 ゲーム機はずっとつけっぱなしにしてる。スタートボタンを押すと、すぐにテレビからレディファイトの声が響いた。ボタンをカチャカチャさせながら、接近してチェーンダクネスを決める。必殺技が発動。すぐに拓真をK.O.させた。


 「拓真。腕落ちたんじゃないの?」

 「病人相手だから手加減してんだよ」


 僕はゲームのキャラクタに「バカね」と言わせる。拓真がムキになって空中カオスフレアを撃ってくる。楽しい。こうしている間はみんな忘れられる。僕は、拓真が動かしているキャラクタだけを見ていればいい。


 12戦目にようやく拓真が勝った。「よっしゃー!」と叫んだとき、扉がノックされた。すぐにお盆を手にした拓真のお母さんが入ってくる。


 「こら。お客さんが泊まってるんだから、大声は出さない」

 「ごめん」

 「ご飯になさい。おにぎりにしてきたから」


 お盆の上には、湯気が立っているおにぎりと、豚汁の温かな椀があった。卵焼きまである。僕はベッドから立ち上がると、拓真の代わりにお盆を受け取った。


 「ありがとうございます。いただきます」

 「ねえ、奏太君」

 「はい」

 「おばちゃん、ずっと感謝してる。ありがとうね」

 「いえ……」

 「これからも、拓真のこと、お願いね」


 これからは……。

 これから僕はどうなるのだろう。


 僕は「はい」と短く返事をして、笑うふりしかできなかった。



■12月15日 夜、拓真の部屋


 おにぎりの具は南蛮味噌だったし、豚汁には少しだけ酒粕が入っていた。みんな僕が好きなものだった。温まる。それは寒い日のご馳走だった。


 僕は、おにぎりをふたつ食べるとベッドに腰掛けながら、拓真の変わらない部屋を眺めていた。


 ここには僕がいる。僕がいてもいいと言われてる。

 落ち着く。ここにずっといたいと思ってしまう。


 ざわつく。心がとても、どうしようもなく。

 そんなこと、もうできなくなるのに。


 うつむいていたら「奏太は本当に好きだな」と拓真に言われた。僕はわざとわからないふりをした。


 「何が?」

 「その豚汁。このあたりだと鮭を使うのが普通なんだろ?」

 「まあ、そうみたいだね」

 「奏太が来てから、母さんがそれを作るようになったんだよな」

 「ああ、これはうちのお母さんのレシピだよ。長野のほうだったかも」

 「そうなのか?」

 「ほら、小学生の頃、拓真のとこに預けられたときにだよ。おばさんに教えてたみたい。僕が好きだったから」

 「そうか……。いまじゃ、うちの定番料理だ」

 「あのときは、お母さんも忙しくて、お父さんが亡くなって……」


 そこで言葉が途切れた。昨日のことを思い出してしまった。

 お父さんのようにならないでと懇願する母のこと、もうすぐ体が変わってしまう自分のこと、それに……。


 何をしゃべればいいのかわからなくなった。

 何かをしゃべったら拓真が心配してしまう。


 そのまま黙ってしまった僕に、拓真は何も聞かなかった。ただ、僕に微笑んで静かに言った。


 「風呂、行くか」

 「うん……」


 無意識に胸に手を当てていた。まだ大丈夫。そう思い込む。マンガみたいに急に身体が変わることはないと母は言っていた。それに、こうしていっしょにお風呂へ入るのは最後かもしれない。


 「行こう、拓真」


 僕は拓真を見ずにそう言うと、心が揺らがないうちに立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る