第4話

■12月15日 朝、六日町の高校、1年A組の教室


 次の日の朝、母に越後湯沢の駅まで車で送ってもらい、僕はできるだけいつものように振舞って六日町の高校へ行った。教室の中に入ると、同じクラスの人達からやたら心配された。本当のことは言えなかったから、貧血だったと嘘をついた。大ごとにしたくはなかったのだけど、保健室へ連れていく係が決められた。みんなやさしい。拓真もそのひとりだった。


 「体、平気なのか?」

 「うん、大丈夫だよ」

 「なら、すぐ返事寄こせ。心配したぞ」


 拓真へ本当のことを話したい。女になると言いたい。言ってどんな顔をするのか見てみたい。

 ふいに湧き上がった衝動を、僕ははぐらかした。


 「心配し過ぎ。ほらほら、勉強しないと」


 僕は拓真を見ずに自分の席の椅子を引く。拓真が何か言いかけたとき、予鈴が鳴った。しぶしぶ自分の席へ引き下がる拓真と入れ替わるように、担任の岩原先生が教室へやってきた。僕を見つけると、いつも厳しそうにしている顔が少し緩んだ。


 「お、君島。学校来れたか。話があるからちょっと来なさい。ほかは自習な。数Ⅰの34ページ付近の問題をやっといてくれ」


 みんながざわざわとするなかで、先生が手招きする。僕は引いた椅子を元に戻す。不快な音が教室に響く。拓真は、教室から出ていく僕をずっと見つめていた。


 先生の後ろについて、遠くの声がたくさん聞こえる廊下を歩いていく。生徒に厳しくてみんなから避けられてる先生だったけれど、後ろから見たら少し白髪が目立っていた。歩きながらちらりと僕のほうへ振り向く。寒さで冷えきったようなひどい顔をしていた。


 「悪いな、君島」

 「いえ……」

 「昨日、お母さんから電話をもらってな。おまえの病状は説明を受けている」

 「そう、ですか……」

 「すぐには体は変わらないとは聞いているが……。あ、いや。廊下で話すことではないな」


 それから岩原先生は黙って歩き続けた。職員室のすぐ隣にある生徒指導室の前で僕達は止まる。岩原先生が扉を横に引くと、いつもは保健室でしか見ない白衣姿の浅萩先生がソファーに座っていた。僕を見るなり、人懐っこいおばちゃんそのままでたずねてきた。


 「君島君! 体はもう大丈夫なの? 心配したんだからね、もう」

 「すみません、ご迷惑をおかけしました」

 「迷惑だなんて、そんなことないんだよ。君島君はすぐ気にするんだから。ほら、そっち座って」

 「はい……」

 「今日はね、岩原先生といっしょに君島君の体調とこれからを話したくてね。いろいろ聞かせてもらえたらうれしいの」


 岩原先生が浅萩先生の隣に座る。ふたりが僕をじっと見つめる。その視線は大きな石のそばにいるような息苦しさがあった。母はきっと僕が何も言えなくなることを見通していた。持たされた手紙を先生たちへ渡す。


 「これを母から預かりました」


 その中には診断書と学校に配慮して欲しいことを母が書いていた。封を空けて取り出した便箋を、浅萩先生は顔を近づけて読み出す。文字を目で追う。しばらくして、その手紙を隣の岩原先生に渡すと、僕へやさしく声をかけた。


 「つらい、だろうね」


 その言葉には、痛がる人を慰めるような、慈しみが込められていた。


 「君島君、いいこと? トイレは職員室近くにある多目的トイレを使いなさいね。あと着替えのときは保健室を使っていいから。これは君島君を守るためでもあるんだからね」

 「はい……」


 浅萩先生はやさしい。

 でも……。

 僕には男でも女でもなくなったと告げられているように聞こえた。

 視界がゆっくりと下がっていく。何かから離れていく。先生からも、みんなからも。

 僕を凝視したままでいた岩原先生が、やっと口を開いた。


 「ほかの先生たちには、体が女に変わることを話しておいてもいいか?」

 「はい……大丈夫です」

 「生徒にはまだ話さないほうがいいだろうな」


 浅萩先生が気の毒そうに言う。


 「ええ、そうしてください。こういうことは、少しずつ時間をかけたほうがよいでしょうから」

 「3年生達のようにせんとな。反発されると面倒だ」


 3年生……。花が開いたように笑うあの人の笑顔が浮かぶ。


 「……それは舞子先輩のことですか? 本人から同じ病気だって聞いてます」


 腕組みをすると、岩原先生が吐き出すように言う。


 「保健室でばったり会うだろうな。舞子はもう体は女なのに、着替えはそっちのほうでやってる。泊りがけの行事は全部欠席してる」

 「そうなんですか?」

 「まだ、男子も女子もわだかまりがあってな。この学校には中学から舞子を知ってる生徒も多い。それでもあいつは、それでいい、それで生きていくと言っていた。強い奴だよ」


 違う。それは違う。

 母から教えてもらった舞子先輩の姿とまるで違う。

 強くなんかない。きっと強くなるしかなかったと僕は思った。


 浅萩先生が「まあまあ」と僕達の会話に割って入る。


 「人それぞれだから。君島君、保健室にはいつでも来ていいからね。保健室は避難所。そう思ってね」


 先生たちはやさしい。

 でも……。

 わかってはもらえない。


 なぜ、僕が保健室へ逃げないといけないの?

 なぜ、舞子先輩が強くならないといけないの?

 なぜ……。

 僕は、手を握り締める。白くなっていく拳を見ながら、僕は「はい……」と短く返事をする。


 岩原先生は腕組みを解き、銀色の腕時計をちらりと見た。


 「そろそろ二限目だな。君島、無理して授業へ出なくてもいいぞ。おまえの成績なら、一コマぐらいすっ飛ばしても問題ないだろうからな」


 それが面白いことのように僕へ笑いかける。


 やさしい先生達だ。

 でも、どうして僕は……こんなにもいらだっているんだろう。

 心の中が泡立つ。泥のように粘り気がある黒い物へと変わっていく。

 僕はそれを隠した。自分自身にわからないふりをする。だから、こんな言葉が出せた。


 「授業は受けていきます。みんなに心配かけたくないので」

 「そうか。君島もえらいな」


 僕は立ち上がって「失礼します」と言って軽く頭を下げる。それから生徒指導室を後にする。何かを蹴りたくなる衝動を抑えながら、僕は教室に戻る。

 教室の扉を開けると、まだ自習中だった。息をひそめて静かに席へ戻る僕を、みんながちらっと見ていく。話したそうにしている。僕はそれを振り切って自分の席に座る。すぐに教科書を開く。問題文を読む。何度も。何度も……。

 頭に入らなかった。簡単な問題なのに。

 ああ、そっか。

 僕は動揺しているんだ。


 「無理すんな!」


 突然、拓真の大声が教室に響く。クラスにいた全員が何事かと思い、拓真へ振り向いた。ざわざわとするクラスに、くすくすと笑う声が混じる。


 そうだね、拓真。

 僕は無理をしていたのかもしれない。


 大きな背中を丸めてノートに文字を綴る拓真へ、僕は「ありがとう」と聞こえないようにつぶやいた。



■12月15日 夕方、六日町の高校、1年A組の教室


 休み時間中に何か聞かれるかと思ったけれど、拓真がああ言ったせいか、とくに話しかけられることもなく、放課後を迎えられた。帰り支度を始めていると、舞子先輩からのメッセージがスマホの上で光っていた。


 ――保健室寄ってきなよ。浅萩先生から聞いたよ。


 どう返事すればいいのか、わからなかった。何を話せばいいのかも。指を画面の上に置いたままでいたら、次のメッセージが来た。


 ――ストーブ暖かいよ。お菓子もあるよ。


 ほのぼのとした絵柄の笹団子がお茶をとぽとぽ入れているスタンプが続く。

 まるでおばあちゃんが孫を誘っているようだった。僕のことを心配してくれているのだろう。

 浅萩先生にまた会うのはなんか嫌だったけれど、舞子先輩の誘いには断る気が起きなかった。

 返事をしようとしたら、片方の肩にリュックを背負った拓真が僕のそばにやってきた。どこかイライラとしていた。


 「いっしょに帰るぞ」

 「あれ? 拓真、部活は?」

 「今日は奏太優先だ」

 「え? いいけど……。いや、よくないよ。輝帆さんも連れてきなよ」

 「あいつは生徒会だ。バレー部の遠征の手続きとかいろいろあるらしい」

 「そっか……。でも大丈夫だよ。ひとりで帰れる。輝帆さん待ってなよ」


 拓真の大きな手が伸びる。僕の頭に触れようとしたけれど、ふいに止まる。それから思い直したように僕の肩をぽんぽんと叩いた。


 「心配しているんだ。送らせろ」

 「でも……」

 「今日ぐらいは甘えとけ。輝帆には俺から言っとくから」


 拓真が僕を安心させるように、子供の頃と変わらないやさしい笑顔を見せる。


 「……わかった」


 結局、僕は拓真といっしょに帰ることにした。舞子先輩に断りのメッセージを送ると「ええーっ!」というメッセージと笹団子が泣いているスタンプが返ってきた。


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