第3話
■12月14日 昼過ぎ、湯沢の総合病院、階下の駐車場
白い息を暗いビルの下に吐きながら、車の扉を開ける。あふれた温かい空気がふわっと僕を包んだ。母が先に暖房をかけておいてくれたようだった。
「早く入りなさい」
先に乗り込んだ母がシートベルト越しにそう言う。僕は「うん……」と言いながら、大きな車に乗る。少し冷たい助手席に座り、シートベルトをするために体をひねる。母がハンドルを両手で抱え込み、うつむいているのが見えた。
落ち込んでいる。
その姿を僕は良く見ていた。診ていた患者さんが亡くなったときも、拓真へ将来を告げたときも、父が亡くなったときも。
僕は声をかけず、ただ前を見ていた。
ビルの陰。柔和な光が差す病院の出口。その先には雪の間を車がのろのろと動いている。
車は静かに震えていた。
しばらくして母が僕につぶやいた。
「奏太、ごめんね。ちゃんとした体に産んでやれなくて」
僕は、母を安心させたかった。
「ううん。しょうがないよ」
しょうがない。なにもかもが。
僕はそう自分に思い込ませる。
母が顔を上げた。ずれた黒縁メガネを直すと、きっぱりと言う。
「よし、なんか食べよう。お腹が空くと悲しくなる。あったかいものがいいな」
サイドブレーキを下ろすと、母は車をゆっくり動かした。病院の建物を出て、大きな道路に出る。車は左折し、消雪パイプからじわじわ水が出ている濡れた道を進む。雪は少し小振りになっていた。ワイパーの先に、灰色の雲に覆われた山が、下の裾野のところだけ見せていた。
商店街の外れにある交差点で信号待ちをしていたとき、母が口を開いた。
「奏太、朝ご飯を食べなかったでしょ?」
「うん、ちょっとまだ……」
「うどんすきならどう? あれなら食べられそう?」
「あのお店?」
「そう。お父さんといっしょによく行ってたとこ」
「この時間だと、お客さんがいっぱいで入れないかも」
「どうかな。行ってみないと、わからないから」
信号が緑に変わる。ハンドルを回し、母が道をそれる。日本酒工場の煙突が吐いている白い煙を遠くに見ながら、上越線のガード下をくぐる。温泉街に入ると、すぐ右側はかつて布場スキー場と言われていたところだった。そこは横に長い山のすそ野に沿って、温泉街の道路の縁まで続く大きなゲレンデで、小説『雪国』の主人公達がスキーをしたところと言われている。
幼い頃、僕と拓真もここでよく遊んでいた。ふたりして小さな子供用のスキー板を履いて、何度も滑った。拓真がゲレンデで転んだときは、僕は「早く立って」と手を差し出した。半泣きになった拓真が「わかった」といってその手を握ってくれた。そんなふたりが、窓の向こうに見えたような気がした。
スキー板をかついだ色とりどりの人たちが、僕達のそばを通り過ぎる。チェーンが付いたタイヤが奏でるキュラキュラという音が、近づいては遠ざかる。雪に埋もれているおもちゃの家のような土産物屋を見ながら、母は僕に静かな声でたずねた。
「お父さんのこと、覚えてる?」
「え、うん……。ここで拓真といっしょにソリに乗せて遊んでもらった」
「ああ、最後の冬のことかな」
「うん」
「お父さんはね。湯沢がとても好きだった。奏太のことも。だから私はここにいる」
父は癌だった。眠れないほどの痛み、疲れが見える母へ自分の看護をさせていることに耐えかねて、父は自殺した。ひっそりと森の中で首を吊っているところが、雪が解けたあとに見つかった。
僕と母には、死が身近にあった。ずっと我慢して耐えていた。小屋の中で冬を耐え忍ぶ人のように、僕と母はそうして生きていた。
ふいに父のことを話し始めた母の気持ちは、僕にはわかっていた。父はやさしい人だったし、僕もよく父に似ていると母は言っていた。だから、こう言うしかなかった。
「お母さん、僕はお父さんとは違うよ。ちゃんと生きてくから」
母がゆっくりと車を止めた。ウィンカーのカチカチという音が、静かな車の中に響く。
「奏太。お願いだから、そうして。奏太までいなくなってしまったら、私がこの世界にいる意味が消えてしまう」
「うん……」
父を亡くしたとき、マンションの窓辺に座り、遠くを見つめてばかりいた母がいた。その様子を見てた僕は、母だけが自分たちがいる世界から切り捨てられたように感じた。あの日の手が届かない寂しさが、母を失うのじゃないのかという恐怖が、僕の中で噴き出す。
「大丈夫だよ、お母さん。体がちょっと変わるぐらいだけだし」
「奏太。あのね。舞子さんは3回自死を試している」
「え?」
母が左手で驚く僕の頭をやさしく抱き寄せる。
「体が変わるということはね、私達の想像を絶しているんだ。情けないけど、医師としての手当ては限界がある。舞子さんのことで痛感させられた。でも、私は医師である前に奏太の母親だ。頼れるものは何でも頼って、奏太を助けたい」
「うん……」
「奏太が拓真君を助けたように、舞子さんが奏太を助けてくれる」
「どうして?」
「舞子さんはいま生きている。生き延びた人なんだ。きっと性転換症の生き方を奏太に教えてくれると思う。だからね。私は何かあれば舞子さんを頼るよ」
「わかったけど……」
お父さんにもそういう人が必要だったのだろうか。生き方を教えてくれるという人……。それはきっと僕達じゃなかった。それが少し悔しい。
母が何かを吹っ切るように、僕の頭をくしゃくしゃとさせた。
「大丈夫。きっとお父さんが助けてくれるから」
それから母は車を動かした。僕に温かいものを食べさせるために。僕を死なせないために。
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