第2話


■12月14日 夜中、湯沢の総合病院


 寝苦しいベッドの中で寝返りをしながら、母に言われたことを何度も思い返す。


 後天性性転換症。体が女の子になる病気。


 原因が不明で、ごくまれに発症するということ。

 最初に激しい痛みが来て、それから半年以内に女性の体が変わるということ。

 体の治療は痛み止めぐらいしかなく、変化を止められないということ。

 死ぬような病気ではないこと。


 そして、母は言っていた。


 「患者さんの自殺率が高い。体が変わっていくことに、心が追いついていかないんだ」


 男とか女とか真剣に考えたことはなかった。自分の体に、あるものはあるんだし、それがどうにかなってしまうなんて、考えたこともなかった。


 そういう人たちがいるのは知ってる。生きていくことがたいへんなのも知っている。学校でも授業で勉強させられた。


 でも……。

 わからないよ……。


 体に残る痛み。これから訪れる変化。そして将来のこと。

 頭を抱えて体を丸める。ふいに拓真の大きな手の感触がちらついた。


 僕が女になってしまったら、拓真との関係が変わってしまう。

 それに恋人の輝帆さんに、めっちゃ怒られる気がする。いまですらうっすら嫉妬されてるのに……。


 それでも、あの大きな手は、僕にとっては安心そのものだった。

 そっと自分であの手を真似てみた。やっぱり違う。自分の小さな手では、ちっとも似ていなかった。



■12月14日 朝、湯沢の総合病院


 うとうとしていたらしい。朝食を配膳する音で目が覚めた。パタパタと足音が近づいてくる。カーテンの仕切りを開けて入ってきたのは、昨日と同じ看護師さんだった。


 「おはよ。痛いところある?」

 「いえ、いまは……」

 「いちばん痛いときが10なら、いまはどれぐらい?」

 「2か3ぐらいです」

 「よかった。薬効いたね。食欲はある?」

 「あまり……」

 「ここに置いとくから、食べれたら食べてね。お膳はそのままでいいから」

 「あの……母は……、君島先生は……」


 さっとカーテンを閉め、看護師さんが外の世界から僕を隔離する。


 「君はかわいいね」


 え?

 看護師さんはくすくすと笑ってる。どうしてそんなことを言われたのかわからなくて、僕は看護師さんの顔をじっと見てしまう。


 「ほら、礼儀正しくて、真面目な感じ。そんなとこ、君島先生にそっくりだね」

 「僕には。わからなくて……」

 「うん。やさしいけれど、わからないふりをして、その奥には絶対に触れさせないとことか」


 看護師さんは僕を見つめる。僕が抱えているものを探るように見つめる。


 そんなの、僕にはわからない。わからないままでいたい。そうしていないと、つらくて寂しくてたまらない……。


 黙ったままでいたら、看護師さんは僕に母のことを教えてくれた。


 「君島先生、ガード固くてさ。息子さんがいることなんて知らなかったよ。きっと誰も知らないよ」

 「そう……ですか」

 「だから、なんか安心したんだ。だって君島先生も人間だとわかったし。みんなスーパーマンか何かだと思ってたから。こんな田舎の病院じゃもったいないぐらい」


 母が越後湯沢にいるのは父のせいだった。そして僕のせいでもあった。それが人に言えないことぐらい、僕にはわかっていた。

 くすりと笑うと看護師さんは、点滴のバッグに触れた。


 「もう輸液終わったね。あとで点滴の針を外しに来るから」

 「はい……」

 「そのあと着替えてね。服はそこの棚に入ってる。それでさ、ベッドの都合があって悪いんだけど、君島先生が来るまで、病棟の休憩室かどこかで待つ感じになるけど、いい?」

 「大丈夫です……」

 「良かった。じゃ、あとでね」


 看護師さんは、さっとカーテンを開けて出ていった。それから僕は何もできなくなった。


 かわいいだなんて……。

 僕は男なのに。


 そのことに僕はずっととまどっていた。



■12月14日 昼過ぎ、湯沢の総合病院、病棟の休憩室


 病棟の休憩室で、窓辺の椅子に座り、雪が降るのを眺めていた。ときおり風が吹くと、雪はそれにつられて動きを変える。渦巻いたり、ふわりと浮いたり。それでも雪は地面に降り落ちる。汚いもの、奇麗なもの、すべてを白く覆い隠す。


 僕は何度目かのため息をつく。


 看護師さんに言われた言葉が刺さる。わからないふりを続けていたい。お願いだから、僕の心の深くに触らないで欲しい。そうしないと、僕が好きだったものがみんな壊れてしまう。拓真のことも……。


 女になったらどうなるんだろう……。どこまで隠せるのだろう……。

 着替えた学生服の詰襟がきつく感じる。指先でそっとフックを外した。そのとたん息が楽になる。


 「これからどうしたらいいんだろ、僕……」


 つい漏れた言葉は、休憩室の暖かい空気の中に、掻き混ざりながら消えていった。


 「どうするって何を?」


 びっくりして、その声に振り向く。僕と同じ高校の制服を来た女子が僕を見つめていた。モデルさん? そんなふうに思ったぐらい綺麗な人だった。少し跳ねた明るい色の髪をかき上げながら、その人は僕に微笑む。


 「私は舞子史音。君は?」

 「えと……その……」


 教えていいのだろうか。病気のことを聞かれるかもしれない。

 言い訳を必死に考えている間に、その人は勝手に何かを思ったようだった。小さな手提げバッグからスマホを取り出すと、僕の前に差し出した。


 「連絡先交換しよ? 後でゆっくり話そうよ」

 「その……」

 「変なことには使わないけど」

 「そうじゃなくて……」

 「ああ、そうか。理由ね。それは私は君といっしょだからさ」

 「いっしょ?」

 「もう。察しが悪いな。ここじゃ話しづらいのわかるだろ?」


 え、じゃあ……。

 僕はあわてた。どう見ても女の子がそこにいた。


 「本当……なんですか?」

 「昨日学校で大騒ぎになってたよ。実はね、私のときもそうだった。だから、もしかしたらって。それに、私も君島先生に診てもらっているんだ。どう、安心した?」


 わからない。けど……。

 そうしたほうがいいのだろうと思った。

 僕は自分のスマホを舞子先輩に見せた。


 「君島奏太、です……」

 「1年?」

 「はい……」

 「私は3年。先輩だね。もしかして石打拓真とかそのあたりといっしょにいる?」


 拓真は悲劇の選手として有名だったから、知ってる人も多い。僕もそうだろうと思った。


 「はい、親友で……」

 「そっか。石打は輝帆とまだ付き合ってるんでしょ? 輝帆はよく怒ってる?」

 「はい……」

 「やっぱり。輝帆は変わらないな」


 ……困る。そんなの困る。

 輝帆さんの友達だったなんて。


 「お願いです。輝帆さんや拓真には、僕の病気のことは……」

 「言わないよ。絶対に。だって、君の目」


 舞子先輩の手がゆっくりと伸びる。少し冷たい指先が僕の頬に触れた。


 「今にも雪が降りそう。泣きそうなのに、ずっとがまんしてるみたい」


 僕を見つめている舞子先輩を、僕は見つめる。

 僕は外の世界を感じられなくなる。

 何もない白い雪原に僕達しかいないように思う。


 初めてだった。

 わからないふりができなかったのは。

 どうして……。


 「奏太?」


 母の声が止まっていた世界を動かす。白いダウンジャケットを手にしたまま、母は少し遠いところから、僕と舞子先輩を見ていた。


 「お母さん。ごめん。同じ学校の人だったから、ちょっと話してた」


 舞子先輩は母に何も言わせないように「すみませんでした。話し込んじゃって。じゃ、あとでね、奏太君」と一気に言うと、母に頭を下げ、足早に去って行った。

 その後ろ姿を見送ると、母は僕のそばまでやってくる。


 「奏太、聞いた?」

 「うん、まあ……」

 「舞子さん、中学のときに発症してね。たいへんだったよ。体もだけど、周りでもいろいろあって。ずっと議員さんをやってる古い家だったし」

 「たいへん……なんだ」

 「性別が変わることを受け入れるには、時間がかかる。周囲も、自分自身も。それは想像よりもつらいことが多い」

 「そうなんだ……」

 「たいへんだよ。奏太もこれからたいへんになる」


 母がうつむく。手にしたダウンジャケットを強く握り締めている。

 僕は母を安心させたくて「大丈夫だよ」とやさしく声をかけた。

 握り締めていた手を離すと、母は凍えた声で言う。


 「奏太はお父さんみたくならないでね」


 僕はその言葉で、母が言うたいへんの意味を知った。

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