花は雪解け、散りゆくことなく ―女へ変わる僕の体と、変わらない君への想い―
冬寂ましろ
12月
第1話
薄氷色をした寂しい光に、最終電車の中は照らされていた。僕はひとりで向かい合わせの席に座り、いっしょに帰ろうと言ってくれた親友を待っていた。手にしていた本をそっと閉じる。開いても目が滑るだけで、読むことができない本を、僕はあきらめて座席の上に放り出した。待ち遠しいという言葉の意味を考えることに飽きた僕は、暗い窓の向こうへ目を向ける。夜の底から降りしきる冷たい雪が、すべてのものをやさしく隠し、穏やかな白へと染め上げようとしていた。
もうすぐ電車は動き出す。僕達が暮らす街に向かって走り出す。その街は「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という文で、誰もが知っていた。越後湯沢。雪が降り積もる街。僕、君島奏太は、この越後湯沢で高校生をやっている。親友の拓真といっしょに、ここで育った。拓真が中学のとき、モーグルの強化選手に抜擢され喜んだのもいっしょだったし、腰を患った拓真が選手を諦めて泣いたときもいっしょだった。だから、こうして拓真がやってくるのを待っている。
仕方なくまた本へ手を伸ばしたときだった。閉められていた電車のドアが開く音がした。僕は座席から腰を浮かして、ドアのほうを見つめる。やっと来た。大きくてがっしりとしていて、それでいて子供っぽく笑う、そんな拓真が、僕を見つけると申し訳なさそうな表情をする。
「奏太、すまん。遅くなった」
ざらついていた気持ちが春の雪のように溶けていく。腰をそのまま降ろすと、雪国仕様の座席のヒーターが熱く感じる。
拓真は、黒いダッフルコートから雪のかけらを払うと、僕の向かいの席にどっかりと座った。その顔は選手の頃に戻っていた。
「拓真は、ずっと部活だったの?」
「ああ。いまのスキー部は教え甲斐がある。何人かは芽が出そうだ。いくつかトレーニングのアイデアを思いついたから、明日試してみる」
「楽しそうだね」
「まあな。怪我をしていてもコーチぐらいはできる」
こぼれる笑みに僕はほっとする。選手にはなれないと告げられ、ひとりで静かに泣いていた拓真の姿が、僕の中から薄れていく。
拓真が僕の横に置いていた本に気づく。その本を手にすると、ぱらぱらとめくって途中から読み始める。
「わりと面白いな」
「冬寂ましろのだよ。ちょっと描写がくどいかも。今度出る新刊のほうが評判良いみたい」
「奏太から借りた奴は面白かったぞ」
「名探偵悪役令嬢?」
「それ。後半の雪原の上で無念を叫ぶ探偵のシーンはぐっと来た」
「あのシーンはいいよね。あのあと悪役令嬢のメイドが幼い犯人にキレてお茶をぶっかけたところも好きかな」
「わかる。なんか輝帆ぽいんだよな、あのメイド」
「そうかも」
笑う僕達の間に、ふと違和感を感じた。
「拓真、輝帆さんはどうしたの?」
「あ。忘れてた」
「ひど。輝帆さんに怒られるのは僕なんだからね」
「すまんな。でもな」
拓真が子供っぽく笑う。
「俺は奏太とこうして話してるほうが楽しいんだ」
ずっと変わらず、その笑顔を僕に向けている。
初めてあった日も。
絶望から這い出た日も。
そして今も。
拓真に気付かれないように、僕は自分の手を握り締める。
僕は、この想いに名前を付けたくなかった。
付けてしまえば、この穏やかで暖かい、春の陽射しのような関係が崩れてしまうから。
だから、僕は怒ったふりをして、自分の気持ちを拓真から隠す。
「そんなこと、輝帆さんに言わないほうがいいよ。拓真の彼女なんだから」
「ああ、わかってるさ」
発車のベルが鳴り響く。電車が動き出す。僕達を乗せて、雪の中を走り出す。
トンネルを抜けると、そこは……。
そこには何があるのだろう。
■12月13日 朝、六日町高校の教室、1年A組の教室
その日は少し電車が遅れて、僕はあわてていた。服に積もった雪を払うのも忘れて、教室の扉を開ける。アルミの格子が続く窓の向こうには、明るい朝を打ち消す仄暗い雪空が見えていた。同じ空気が教室にも流れていた。みんなあまり喋らず、リュックから教科書を取り出したり、机に突っ伏して布団の中の続きをしている。
僕は自分の席へ向かいながら、つい拓真がいないか、教室の中を探してしまった。今朝は家の雪掻きで遅れるって知ってるのに。
拓真のことで頭がいっぱいになってる。彼女ができてから? ううん、その前から僕は……。
どうにもならないのに。そんなことばかり考える僕はどうかしてる。
ため息をひとつついてから、背負ってたリュックを机に下ろした。
あれ?
痛い。
お腹の下のほうが鈍くずきずきと痛む。
こんな痛みは初めてだった。
なんだろう……。
不思議に思ってたら、痛みが激しくなってきた。
あまりの痛さで目が回る。内臓がぎゅっと縮み、胃の中の物を戻しそうになる。
痛くて、立っていられなくなる。僕はそのまま床に倒れてしまった。
教室が騒ぎ出している。でも、僕にはどうしようもできない。冷たい床の上でお腹を押さえて、うずくまるしかなかった。
教室の扉を開ける音といっしょに、岩原先生の低い声が遠くから聞こえてきた。
「どうした、席に着け……、って、君島、大丈夫か?」
僕は返事ができない。がんばって声を出そうとしても、うめき声しか出せない。岩原先生が「待ってろ、いま救急車呼ぶから……」と焦った声をあげている。
このままだと、みんなの迷惑になる。僕は這って教室の外へ出ようとする。でも、体を少し動かすだけで痛みが体中に駆け巡った。たまらず悲鳴を上げる。声が止まらない。我慢しようとすると、痛みがそれを邪魔する。
……このまま死ぬのかな。
そんな思いが痛みに混ざる。
そのとき、誰かの手を感じた。
大きな手が僕の頭をやさしく撫でる。
「大丈夫だ」
拓真だ。拓真の声が聞こえた。
その落ち着いた声を聞いて、痛みが少し和らいだ。
片手をなんとか伸ばし、その手に触れる。少しごつごつとしていて、大きな手。すごく温かい……。温かいな……。
拓真……。ごめん、本当にごめん……。
それから僕は気を失った。
■12月13日 夜、病院
暗い意識の底で、消毒液の匂いを感じていた。意識が少しずつ外へ向かう。ゆっくり目を開ける。白い天井が見えた。痛みはまだくすぶっているけれど、倒れたときほどではなかった。
右手をベッドの布団からだそうとしてみる。ちくっとした痛みがした。腕から透明なチューブが伸びていた。それはベッドの手すりにからみ、天井から下げられた点滴の袋につながっている。
ああ、そっか……。
倒れたときの痛みと、頭に触れた大きな手を思い出す。
拓真に早く連絡をしないと……。
少し体を動かす。お腹のほうに力を入れたら、あの痛みがぶり返した。思わず「ぎゃっ」と短い悲鳴をあげる。
誰かが近づいてくる足音がした。仕切りの白いカーテンを開けて入ってきたのは、マスクをした看護師さんだった。ピンクのゆーたんがぶらさがっているボールペンを、胸のポケットに差している。僕が起きようとしているのを見ると、やさしい声をかけてくれた。
「まだ痛いよね。しばらくは絶対安静だそうだから、そのまま寝ていてね」
「はい……」
「名前と年齢は言えるかな?」
「君島奏太、16歳です」
看護師さんがマスクの奥でどこかほっとしたように見えた。
「いま、先生呼んでくるから、待っててね。病気については先生が教えてくれるから聞いてみて」
看護師さんが離れていく。足音が遠ざかると、心電図が鳴らす定期的な電子音だけが耳に届く。
大きな病院のようだった。六日町の市民病院かもしれない。湯沢町のほうかも。だとしたら……。
「奏太」
「お母さん……」
やっぱりそうだった。僕の母は医師だった。手術用の緑色の服をまとったままの母は、黒縁のメガネの奥から、見慣れた母のではなく、医師が見せる冷徹な目で僕を見ていた。
「命に別状はない。ただ、しばらく痛みは残ると思う。それは薬で散らせるから安心していい」
「うん……」
「今晩はこのまま病院へ泊っていきなさい。お母さんは、まだ手術が残ってるから。明日の朝、お母さんといっしょに家へ帰ろう」
母の声が沈んでいる。そのことに僕は不安を覚える。
「僕、なんの病気なの?」
母は感情を押し殺した声で僕に告げた。
「後天性性転換症」
「え?」
「これから半年で陰茎が無くなり、女性器ができる。乳房も育つ。声も高くなる。ただ、できあがった骨格までは変わらないし、卵巣は成熟しないから生理はない。妊娠もできない」
僕はわけがわからず、母に問い返した。
「どういうこと?」
母は表情を変えずに僕へ伝える。
「おまえは女になるんだよ」
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