書くことのできない日

紫鳥コウ

書くことのできない日

 ぼくはある雪の降る日に白い息を吐きながら、弓木の見舞いをしにKにあるC病院へ行った。そのためには、陽の当たらないせいですべりやすくなった道を、K駅から十分ほど歩かなければならなかった。Kは相不変あいかわらず、おっとりとした山とひっそりとした水田にはさまれた(もちろんそれらは雪化粧ゆきげしょうまとっていた)、しとやかな女性のような町だった。

 人のつどうところなどひとつもなく、にぎやかと言えないこともないのは、C病院くらいだった。使い古した帽子ハットや、よれよれのジャンパーの肩にかかった雪を、乱雑にはたき落とした。

 町外れにあるこの病院の玄関から見るKは、なんとも言えないくらいに美しくさびれていた。のみならず、するどく斜めに走りだした雪に、またたにかき消えてしまいそうな心細さがあった。…………


 もう弓木とぼくは意志の疎通そつうができなくなっていた。どんな言葉も彼には聞こえないみたいだった。いや、聞こえてはいるのだろうが、返答をすることにがたい憂鬱を感じているらしかった。

 家族とも口をかないのだと、C病院で働いている、高校のときの同級生であり秀才の名をほしいままにしていた青木は言った。

「あれから、半年は経ったのだけれどねえ……」

「ときどき、働いていたころのことを思い出すんだとさ。ぞっとするよ」

「ぞっとする?」

「うん、なんだかいろいろと想像しちゃって……」

 ぼくが弓木の声を聞いたのは、彼が投身自殺を決めたときが最後だった。電話越しに彼の話を聞きながら、彼の弟にメールを打ったのを覚えている。弓木は死ぬことはなかったが、こうして自分の手ばかり見つめている彼を見ていると、ぼくたちは別の解を探すべきだったのではないかと、ぼんやりと思わざるをえなかった。…………


 K駅の中で三十分過ごした後、O線に乗り最寄もより駅で降りた。電車に揺られながら読んだ本は、ぼくには退屈だった。人気のない寂しい道を、山の方へと歩いて行くうちに、雪はだんだんと積もっていった。

 しばらく歩くと、半壊はんかいしたまま放置された家があった。ここはむかし、黒犬がロープに繋がれていて、子供たちに向かって吠え立てていたばずだった。が、いまはもう、雨風をしのぐのさえ考え物になっていた。…………


 家へ帰るなり部屋へ引っ込むと、一眠りをしに毛布にくるまった。大雪は突風にもてあそばれて、窓はガタガタ言わされていた。下からは、誰の声も聞こえてこなかった。祖父母の命日は、どちらも年末だった。飼い犬が死んだのも、それくらいの時期だった。彼女は十九歳まで生きた。人間の歳で換算すると、祖父母より長生きしたことになる。

 父母は仕事に出ているし、弟は上京してから一度も帰ってこなくなった。来年の春からは、都内の葬儀会社で働くことになっているらしかった。もう弟の顔は思いだせなくなっていた。弟は祖父にそっくりだった。が、祖父の遺影を見ても弟の顔は浮かばなかった。

 のみならず、ぼくは、筆子のことを想わずにはいられなかった。が、筆子の横顔は、地上から見上げる月の反対側のように、想像さえできなくなっていた。ぼくたちはもう、別れるに足りる理由をいくつも持っていた。が、いまのわずかな繋がりをつ覚悟はできずにいた。

 しろえ――漢字は決まっていないけれど、ぼくたちの子供の名前の響きは、こういうのがいいなどと言ったのを覚えている。…………


 次に起きたのは夕方だった。雪は止んだようだった。障子しょうじを開けると、畑の向こうの竹藪の上に夕陽が浮かんでいた。竹のそよぎは、粉雪を花粉のようにいていた。山肌は雪の上に燃えるような輝きを見せていた。鳥が一羽飛んでいた。そのあとを追うもう一羽があった。静寂は淡々たんたんとこの景色に根を張っていた。こごえるような冷たさが、よりいっそう切実に感じられた。それは、ぼくの感傷サンチマンタリスムうずかさずにはいなかった。

 部屋の電気を消して、もう一度窓辺まどべに立った。そのとき本棚の上に置いていた本が落ちて、ぼくの足下で羽を広げたらしかった。太陽に挑んで惨敗ざんぱいした、ろうの翼でばたいたイカロスが、ぼくの脳裏によぎった。それでも、この作者のない風景画を見ているしかなかった。自分に迫ってきている死の影が、どこかに宿っているこのを。…………


 ぼくはこれから、長いものを一篇作らなければならない。そのあと、もう一篇短くないものを仕上げなければならない。その中に、この日にあったことのようなものを書いてしまうことを、恐れている。

 読まれるものを書くというのは、日常から隔絶かくぜつしたものをとらえ続けるということなのであろうか。そしてその巧拙こうせつが、文学的な才能の有無を左右するのだろうか。それならば、遺憾いかんでないこともないのであるが。…………



 〈了〉

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