【秋】いとくさきいぬ

〈テーマ:香に迷う〉


 足のにおいとか、頭皮のにおいとか、赤ちゃんのうんちのにおいとか、同類に由来するくさいものほどリピートして嗅ぎたくなるのは人間の罪深きさがだと、嗅山かぎやまかおるは主語をデカくして考える。

 嗅山は二十八歳の女、包み隠さず性癖を暴露すると「においフェチ」の女だ。

 小さい頃から、くさいものほど嗅ぎたくなるたちで、某アニメの係長をしている父親の靴下を嗅いでみたいと思ったことは数知れず。残念なことに嗅山家は代々体臭の薄い家系で、「パパの足がくさいの」とか「お兄ちゃんが汗くさい」などと嫌悪感を滲ませて申告する中学の同級生の前で、真実の検証に立候補しようとする腕を鎮まれ鎮まれと何遍押さえたことか。しかしながら自らの嗜好がいわゆる「変態」の分類に片足どころか両足突っ込んでいることを幾度と目にした親の渋面から重々理解していた嗅山は、際限なく昂る己の興味関心を折伏し、それら魅力的な身内を持つ友人から縁を切られることなく学生時代を終えた。三年時の体育祭の後に数名分の着用後のクラスTシャツがごっちゃになるイベントにおいて、ついうっかり持ち主を嗅ぎ当ててしまったせいで取り違えの当事者たちから二メートルほど心理的距離を置かれてしまった気がしなくもないが、まあ概ね平和に義務教育期間を終えた。

 進学し花の女子校生活を過ごす中で、嗅山は卒業後も、命ある限り自らのヘキを隠して常人の皮を被り、社会生活を営んでいかねばならぬことに絶望していた。制汗剤のにおいと混じった女子おなごたちの香を鼻腔を経由して脳内のデータライブラリに大切に大切に収蔵しながら、一歩道を踏み外せば社会的信用を失い塀の中に放り込まれるであろう自らの身を案じていた。嗚呼、神よ。どうして私に道徳という枷をつけたもう。世間の目という檻に閉じ込めたもう。この身を捧げたいと思えるほどにおいを愛しておきながら、嗅山は社会的に身を滅ぼす最後の一線を踏み越えることができなかった――そんな葛藤を抱えながら、嗅山は無臭の父と柔軟剤の香りのする母の勧めもあり、かつて彼らが通い出会いの場ともなった大学に入学した。高校受験の時と同様、試験期間は鼻風邪をひいていたが難なく合格した。鼻さえ詰まっていれば至って平和な人生なのである。

 しかし、大学二年のとき、相変わらずこそこそと脳内ライブラリを充実させていた嗅山に転機が訪れた。

 日々進歩し続ける仮想現実技術――宇宙のように拡がっていく仮初の現実に、立体的な「におい」を付与するテクノロジーが、ついに、ついに、生み出されたのである。

 それに伴い、バーチャル・リアリティに更なるリアリティを加算すべく、仮想現実に合わせたにおいをコーディネートする専門家が誕生する。

 そう、スメルコーディネーターである。

 字面からして、あまりいいにおいはしなさそうだし、実際しない。どちらかといえばニッチなにおいを再現することに特化したスメルコーディネーターは、香水や柔軟剤などいいにおいを調合するパフューマーや調香師からは一緒にしないでほしいと毛嫌いされ、仮想現実にコアなにおいを求めるのは己のヘキに忠実な好事家くらいなので、半分地下に埋もれた、まさしくアングラな職業として知る人にだけ知られていた。スメルコーディネーター自身も、多くは広く認知されている調香師の看板を掲げて活動している。

 しかしながら、嗅山が大学を卒業しとある企業の研究開発部門で働き始める頃には、更に更にリアリティを追求したバーチャル・リアリティの需要が高まり、日陰者のスメルコーディネーターの地位も多少は向上した。

 そのきっかけとなったのが、嗅山が師と仰ぐ人物が開発に携わった『あの日の道頓堀』である。

 もはや芸術作品とまで謳われるそれは、関西の国教のような球団が数十年ぶり二度目のアレをした時の道頓堀の熱気を再現したバーチャル・リアリティで、アレに湧く人々の熱気に炙られた多種多様の混沌としたにおい、ついでに決して綺麗とは言えない川に飛び込んだ人の水飛沫まで体験できる。

 高く評価されているのはその狂気的なまでの再現性だが、それともう一つ、舞台となった川がもう存在していないということも、(主に関西の)人々が『あの日の道頓堀』に熱狂する理由だろう。

 道頓堀は、今も存在している。だが「道頓堀プール化」を夢見た新しい市長が浄化計画を推し進めた結果、あの日の、汚くくさい川はこの世から消えてしまった。現在、道頓堀では夏の夜になるとホタルが見られる。そのくらい綺麗で、底が見えるほど清浄な川に生まれ変わってしまったのだ。あの球団はあれ以来まだアレできていないが、アレしたとて歓喜のあまり道頓堀に飛び込む者はもういまい。あの飛び込みは生命の躍動、たとえ川を流れる汚水に身を蝕まれたとしても愛する球団のアレを喜び祝したいという決意と覚悟の飛び込みなのだ。

 さて、『あの日の道頓堀』は万博で一番人気の展示となり、国内外から高い評価を得て、万博が幕を閉じた後も跡地に建てられたバーチャル・リアリティ専用のアミューズメント施設の目玉となった。今でも外国人観光客及び関西在住もしくは関西出身のヘビーユーザーの支持を受けて、数あるバーチャル・リアリティ・プログラムの中で不動の一位をキープし続けている。

 そして、『あの日の道頓堀』を体験したことで、民衆はあることに気がついた、というより再認識した。

 それは、「においは強く記憶に結びついている」ということだ。

 貸し出されたゴーグルを着用してあの日の道頓堀に紛れ込んだ嗅山も同じく、虎の球団のアレを祝う仮想の狂宴でしきりに何かを拝みながら滂沱の涙を流す前歯が一本欠けた老人(同球団のキャップをかぶっている)を前に、身をもってその真実を思い知った。

 そして、前にもましてスメルコーディネーターに憧れるようになったのだ。


 ――ここまでが嗅山薫が社会人三年目の節目に会社を辞め、『あの日の道頓堀』の作者に弟子入りを志願するも実家の両親がGのマークの球団のファンであったためにすげなく断られ塩まで撒かれ、宗教問題の根深さを憂いながら独学と情熱でフリーランスのスメルコーディネーターとして何とか生計を立てられるようになるまでのざっくりとした経緯だ。今年の確定申告もちゃんとやった。そこまで儲かってはいないので、税務署から還付金をもらった。やったね。


 そうして、金木犀が香る季節。嗅山が運動会で緊張に身体を強張らせながら処刑の時を待つように徒競走の順番待ちをしている時のにおいを再現しようと近所の小学校に忍び込み、通報とまではいかずとも保護者に不審な目で見られて早めに退散せざるを得なくなったり、陽キャの彼氏に誘われキャンプに来たはいいものの居場所がなく洗い物ばかりしている女がトイレの帰りに秋の空を見上げる時の心境を再現しようとキャンプ場に張り込み、当該のシチュエーションに置かれた女を見つけては手伝いを申し出て怪訝な顔でやんわりと断られるなどしていた頃。

 犬飼いぬかい戌子いぬこという女が、都内にある嗅山の自宅兼研究ラボを訪れた。

「亡くなった犬のにおいを、再現してほしいんです」

 メールにも記載されていた依頼内容を、戌子は再度嗅山に伝えた。

「先日、八人の兄の協力もあって、実家で飼っていた犬――モロゾフのバーチャル・リアリティ・データが完成したんです。実際にスペースを借りて、仮想空間にモロゾフを放してみたんですけど、やはりあの強烈なにおいが足りなくて。いくつか、専門の方の事務所を回ったんですけど……どこもいいにおいばかりで」

 八人の兄。愛犬モロゾフ。そのバーチャル・リアリティ・データ。突っ込みたいところはいくつかあったが、嗅山は頷き、棚からいくつか瓶を取り出した。

 テーブルの上に並べた瓶の中身は嗅山が過去に作成したにおいで、それぞれ『トイレシーツにしたオシッコの上で寝る仔犬』『車での移動中に真顔で放屁する犬』『さっき食糞したばかりの愛犬に舐められる何も知らない父』とスメルコーディネーター・嗅山薫の実力を存分に示す力作揃いだった。大抵の客はタイトルだけで恐れ慄いてそそくさと逃げ帰る。

 しかし、犬飼戌子という犬を飼うために生まれてきたような女は、三種のにおいを嗅覚細胞を総動員して深く味わい、その上で決然と首を横に振った。「モロゾフは、こんなものではありません」

 ――こいつ、やりおる。思わぬ実力者の出現に、嗅山は口の端に密かに笑みを上らせた。

 戌子は自分のスマートフォンの画面を見せた。そこには、薄汚れた茶色い毛並みの、日本犬であることは確かだが柴犬よりかは大柄で秋田犬ほどむくれてはおらず、かといって四国犬や紀州犬ほどスマートでもない老いた雑種犬の写真が表示されていた。

「モロゾフは十五年生きましたが、洗われるのが大の苦手で、お風呂場で、シャンプーを使って洗えたことは片手で数えられるほどしかありませんでした。外飼いだったし、雨に濡れるのは好きだったから、私たち家族はそれでいいかなと。ですが、当然くさかったです。こんなにおいでは済みません。だって、長い間熟成された、十五年ものの獣のにおいなんですから。それはもう、くさすぎてクセになるくらいの。他のコーディネーターさんはいい香りばかり出してきましたが、草花でもない生き物からいい香りがするはずがないんです。そう感じるのは、人間が手を加えて、そう感じ取れるよう偽装しているだけなんです」

 戌子の主張に、嗅山は深く、赤べこのように何度も頷いた。戌子の言う通り、生きて生命活動を続けている限り、肉は悪臭を放つものなのだ。

 嗅山は太く笑み、戌子に手を差し伸べた。戌子はその手を取った。二人は固い握手を交わした。

 そうして、嗅山と戌子の、犬飼家の今は亡き愛犬・モロゾフのにおいを――臭跡を辿る旅が始まった。


 まず最初に、嗅山はモロゾフの生活環境をリサーチするために犬飼家を訪れた。犬飼家は主要駅から一駅、駅から徒歩十分と大変好立地の、庭の広い、少し古いが立派な一軒家だった。

 既に話は通してあり、戌子の両親は快く嗅山を出迎えた。軽く自己紹介をして、嗅山は持参した手土産を二人に手渡した。

 ――完成された実家のにおいであるはずなのに、どこかピースが欠けているように感じるのはどうしてだろう。玄関に漂う郷愁を誘う香りを堪能しながら、嗅山は思った。

「せっかく来てくださったのに、ドタバタしててごめんなさいねぇ。引っ越しの準備中で」

 空きスペースの多い室内をちらりと振り返り、戌子の母は申し訳なさそうに言った。

「実はこの家、二週間後に取り壊されるんです。再開発の一環で、大きなマンションを建てるみたいで……父と母も、今は仁一じんいち兄さんの家族と一緒に住んでるんです」

 嗅山の隣で、戌子は寂しそうに視線を下げた。

 だからか。嗅山は納得する。家具が運び出され、住んでいた者がいなくなり、家のにおいを構成していた要素が欠けた。嗅山を包んでいるのは、家に染みついたにおい。いわば生活の残り香だ。

「私たちがずっと住んでいた家が、そのうち全然知らない家族が住むピカピカのマンションになって、だからってここで過ごした思い出や、私の帰る場所がなくなってしまうわけではないですけど、でも、人間の記憶力って、頼りないじゃないですか。大切なことでも、何かの拍子に忘れちゃうってことありますし」

「そうそう、今朝何を食べたかもパッと思い出せないしねぇ」嗅山に来客用のスリッパを勧めながら、戌子の母。「ああ、今朝は昨日の残りのバケツプリンだったわ」

 ……紙袋の中身を知る嗅山は、平然を装ってスリッパに新品のストッキングの足を差し入れた。まさか朝からプリンとは恐れ入る。昨日と言うからにはおそらく昨晩も口にしているはずだ。

 モロゾフ、モロゾフ。流石に彼らの愛犬と同じ名の菓子店のものは買わなかったが、嗅山は土産を探しにデパ地下を彷徨う間、心中で呪文のようにかの犬の名を唱えていた。モロゾフが悪い。

「人間の記憶力は信用ならないけど、今の時代はバーチャル・リアリティだってあるんだから、いっそ文明の力に頼り切ってしまうのも手だと思ってね」柔和な表情を浮かべた戌子の父が、スリッパを履いた客人を先立って案内する。

「実は、次男の義二よしつぐが、3Dモデラーをやっているんですよ。『あのどん』を制作した会社で」

 ――あのどん!? 嗅山は我を忘れて食いつきそうになったが、開ききった瞳孔を戌子父に向けるだけに踏みとどまった。ちなみに『あのどん』とは、『あの日の道頓堀』の略称である。

「義二お兄ちゃんが頑張ったおかげで、モロゾフの3Dモデルは爆速で完成したんです。再現度もすごく高くて。でも、事務所でお話しした通り、あのにおいがどうしても足りなくて……3Dモロゾフは完璧なんですけど……」

 机代わりの段ボールの上に、戌子は犬飼家のアルバムを広げた。写真に切り取られた思い出のあちこちに、日本犬という概念そのもののような野生味溢れる犬――モロゾフがいた。

「父と母、両方と血が繋がっているのは私だけで、兄たちはみんな二人の連れ子なんです。幸いにもみんな仲が良くて、小さい頃はよく遊んでくれました」

 嗅山は動揺を表に出さないように努めながら、戌子が指し示す家族写真を見た。お宮参りの時のものだろうか、生後間もない戌子を囲むようにして、本当に八人いた。戌子の兄たちが。

「一番年の近い兄二人は三つ上なんですけど、中学に入ってからは部活で忙しくなって、私と遊んでくれなくなりました。私自身、友達が多い方ではなくて、学校から帰ってきたらずっと一人でジグソーパズルとかで遊んでて……そんな私を見かねた両親が、親戚の家からもらってきてくれたのがモロゾフなんです」

 色褪せた写真の中には、『しんせんたまご』と印刷された段ボールと、その横でふわふわむちむちの茶色い仔犬を抱いて満面の笑みを見せるおかっぱ頭の少女。生後三ヶ月のモロゾフと、十歳の戌子。後ろのテーブルには半分ほど中身の入った、ガラスの容器が置いてある。

「この後、ちょっと目を離した隙に私が食べてたモロゾフのプリンを食べちゃって。仔犬のくせにすごい勢いで、大事に取ってた残りの分、全部もってかれました。ガラスの瓶に口突っ込んで、ベロベロベロベロ、本当にすごい勢いで。父が呆然としている私を笑いながら、じゃあ名前は『プリン』にしようか、って。でも男の子だし、どう見ても『プリン』って顔じゃないから、『モロゾフ』になりました。プリン食べたから『プリン』って名付けるのも、安直じゃないですか。一番目に生まれたから一郎って名付けるみたいで」

 だからって『モロゾフ』も大分安直ですけどね。嗅山に肩をぶつけて、戌子は笑う。

 アルバムのページをめくるごとに、少女と仔犬は成長していく。制服を着替えるたびに戌子はすらりと大人び、モロゾフはその倍の速度で逞しく、しっかりと薄汚れ、長年愛されたぬいぐるみのような色合いになっていく。

「散歩の時、モロゾフは必ず私の前を歩くんです。他の家族が連れて行く時はちゃんと隣を歩くくせに。振り返りもしないで。お風呂が嫌いなくさい犬のくせに、すごく偉そうなんですよ。お腹も見せてくれないし、お座りはするけど、お手は雑だし……」

 思い出を語る戌子の横顔は、幸せそうだった。

 嗅山はモロゾフの生活環境について、戌子にいくつか質問した。できることならモロゾフが実際に使用していた品を嗅ぎたかったが、彼が使っていた毛布は、一度は保存を試みたものの虫がわいたため捨ててしまったという。犬小屋も、いつまでも空の棲家を残しておくのが忍びなく、半年ほど前に処分したそうだ。

 戌子に連れられ、モロゾフがいたという軒先に足を運んだが、抜け殻になりつつある犬飼家と同様、そこにはかつて何かが暮らしていた気配が残るのみだった。墓標のように打ち込まれた杭が、そこを起点に活動していた犬の存在をにおわせている。

 くさい犬が暮らした場所の風通しは良い。戌子の言う『モロゾフのにおい』は、換気の悪い場所でこもったにおいではないだろう。

 それに、庭先にはこの季節特有の、いい香りが漂っていた。

「ああ、お隣さんが育ててるみたいで。風に乗ってふんわり香って、いいにおいですよね。金木犀ですかね」

 嗅山は風上に鼻先を向け、いまいち釈然としない面持ちで頷いた。

 戌子の案内でモロゾフの散歩コースを一周してから、嗅山は早速試作品の制作に取り掛かるべく戌子と別れた。


「一瞬モロゾフっぽい犬がダッシュで目の前を横切るんですけど……それ以上は追えないです」

 嗅山の事務所を訪れ、早速においを嗅いだ戌子は、嗅山が予想した通りの答えを返した。

 犬飼家本来のにおいに、庭に漂う草木の香り、それから十五年洗われていないナチュラルな獣のにおい。八割は再現できた自信があるが、まだまだ完璧とは言い難い。

 何度も試作品のにおいを嗅ぎ、眼裏に浮かぶモロゾフの残像を追いかけようとする戌子を前に、嗅山は思案する。

 においを再現し、それと紐付けられた記憶を鮮やかに蘇らせることがスメルコーディネーターである嗅山の仕事だ。

 だが、だからといって忠実ににおいを再現すればいいのかと問われれば、そうでもない。複雑なにおいが渾然一体となった、いわば「概念」が求められる時もある。

 リアルモロゾフか、モロゾフの概念か……嗅山はにおいをテイスティングし続ける戌子の表情から残りのピースを読み取ろうとする。

 ぱちり、と目を開けた戌子と視線がぶつかった。

「あ、あの、三番目の兄の家に、モロゾフの甥にあたる犬がいて……もしかしたら手がかりになるかと思ったんですけど、どうですか?」

 一も二もなく、嗅山は賛成した。


 上から三番目の兄・礼三れいぞうの住むマンションに馳せ参じた嗅山と戌子を出迎えたのは、『ゴンチャロフ』という名前の雑種犬だった。

 モロゾフの甥にあたるゴンチャロフには、チワワの血が混じっていた。

 どうしてチワワを……

 ちょっと顔の大きなゴンチャロフの毛足は、分厚いダブルコートのモロゾフとは違って短く、スムースコートと呼ばれるものに近い。嗅山は戌子の兄の礼三の了承を得てゴンチャロフのにおいを嗅がせてもらったが、全くくさくなかった。

「室内で飼っているので、月に一回は必ずお風呂に入れています」

 嗅山と戌子は顔を見合わせ、二人して首を振った。礼三は少し悲しそうな目をした。何かを察したゴンチャロフが、チャカチャカと爪を鳴らして家の奥へと去っていく。

 何かをくわえて戻ってきたゴンチャロフは、礼三の足元に自分のリードを落とした。散歩に行くぞ、ということらしかった。嗅山と戌子は何の成果も得られぬまま帰路につく前に、彼らの散歩にお供することにした。

 利口な犬だ。マンションの廊下でも吠えず、大人しく飼い主の腕の中に収まっているゴンチャロフを見て、嗅山は感心する。

 だが、オートロックの自動扉が開いた瞬間、ゴンチャロフは豹変した。ここはばんえい競馬場だろうか。小型犬とはとても思えない、今にも首輪とリードを引きちぎりそうなとんでもない馬力で飼い主の礼三を引っ張っていく。

 戌子の兄の後ろ姿とゴンチャロフの尻を眺めながら、嗅山と戌子は夕暮れの道を歩いた。昼頃まで降っていた雨のせいで、空気は少し湿っている。

「私、散歩の時はモロゾフのお尻ばっか見てました。モロゾフの呼吸に合わせて、お尻の穴が膨らんだり、しぼんだりするんです」

 思い出し笑いを口に含みながら、戌子は話した。

「……そう。今日みたいな、秋の、雨上がりの夕方。雨を浴びて湿ったモロゾフのにおいを感じながら散歩してる時に、ふと顔を上げたら、夕陽がとても綺麗で……気がつくと、前を歩いていたモロゾフも立ち止まってて、リード越しに、はへはへはひはひ、モロゾフの荒い息が伝わってきて……綺麗な夕陽と、モロゾフの荒い息がミスマッチすぎて、私、思わず声を出して笑っちゃいました」

 ――モロゾフ。愛犬の名を呟いた戌子の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 嗅山は無言で、戌子にハンカチを差し出した。戌子ははにかみ、受け取ったハンカチを頬に当てた。「いいにおい……」

「これ、金木犀ですか?」

「いえ、銀木犀です」嗅山はそっけなく答えた。

「犬飼さんのお隣さんのお庭にあったのは銀木犀でした。金木犀はモロゾフさんの散歩コースで何軒か育てられているお家を見かけましたが、銀木犀はお隣さんだけです。原種であるこちらの方が、香りは控えめなんです」

「そうなんですね! 私、ずっと隣に住んでたのに全然知らなかった……」戌子は素直に感心した。

「お隣さんのお庭って、敷地の奥にあるから道路の方からだと見えないですよね。お隣さんは一足先に引っ越しちゃってますし、庭木も一緒に持ってっちゃったみたいですけど。どうしてわかったんですか?」

「………………」嗅山は黙秘した。

「さては嗅山さん、悪いことしましたね〜?」

 戌子は嗅山の顔を覗き込む。彼女には何もかも筒抜けのようだ。

「嗅山さんって、言葉は少ないけど、全部顔に出ますよね。嗅山さんが何考えてるかわかりますよ、私」

 決まりの悪い嗅山は目を背けた。ちょうどそこにあった電柱の根本には、前を歩くゴンチャロフの主張が引っかけられていた。彼のにおいは、他の犬にどのような情報を伝えているのだろう。

 前方を行くゴンチャロフは前足はそのままに両の後ろ足で地を蹴り、華麗なロンダートを披露しながら別の電柱に放尿していた。雄犬の誇りなのか、高みを目指すことに余念がない。

「おしっこのにおいを再現して犬とコミュニケーション取れないかな〜、とか考えてます?」

 脳内で議題に上がりかけたことをピタリと言い当てられて、嗅山はギュッと唇を閉じた。

 嗅山の顔を見て、戌子はくすりと笑った。スキップでもしそうな軽やかな足取りで、嗅山を置き去りにして三番目の兄とゴンチャロフを追いかける。

「嗅山さん!」振り返って呼びかけた戌子の頬の産毛が、西陽に金色に光っていた。

「雨上がりの犬って、どうしてあんなにくさいんでしょうね!」

「生乾きと同じ原理だと思います」

 ほのかに漂う雨の残り香と犬の小便のにおいのフレームに収まったその光景に、ある種の芸術と運命を見出しながら、嗅山は答えた。

 ――その瞬間、図らずしも、嗅山はモロゾフのにおいを蘇らせるための最後のピースを手にした。


 ゲームセンターやカラオケボックスと同じように、今やレンタル・バーチャル・リアリティ・スペースは主要駅の近くを検索すると必ず一軒はヒットした。

 犬飼家から電車で一駅、休日で賑わうレンタル・バーチャル・リアリティ・スペースの大部屋で、犬飼一家に見守られながら、嗅山は機器の調整を終え、最後の仕上げに『モロゾフ 〜いとくさきいぬ〜』と戌子によって命名されたにおいのカートリッジをセットした。

 本番を前に深呼吸を一つ、嗅山が振り返ると、そこには戌子と、彼女の両親。そして、長男の仁一、次男の義二、三男の礼三――以下、智四さとし忠五ちゅうご信六のぶろく孝七こうしち悌八ていはち、計八人の兄という錚々たる顔ぶれが真剣な面持ちで並んでいた。嗅山は兄たちについてはこれ以上深く考えないようにした。

 『あのどん』の制作会社に勤める神モデラーの義二が制作した3Dモロゾフのデータは、既にインストールされている。犬飼一家に続き、嗅山もレンタルのバーチャル・リアリティ・ゴーグルを装着した。

 ゴーグルの内側に、見覚えのある景色が広がる。一昨日、取り壊し工事が始まり、もうこの世には存在していない犬飼家の庭だった。犬飼家の十一人と嗅山は、全員揃って雨の後の涼やかな風の吹き抜ける、どこか郷愁を誘う秋の庭に突っ立っていた。

 ふと、嗅山の鋭い嗅覚に、先ぶれのように強烈なにおいが触れた。

 その足元を、茶色い影が走り抜ける。

「モロゾフ!!」

 戌子が声を上げた。「くさい!!」

 本物と見まごう再現度の3Dモロゾフは唯一下に見ている小娘の周りを嬉しそうにぐるぐると周回し、それから兄や両親の間を時折ひっくり返って腹を見せつつ忙しそうに飛び回った。

「うわほんとだくっさ!!」

「これはくさい」

「本当、モロゾフのにおいね……くさいわ……」

「雨に濡れたモロゾフが家に乱入してきた時と同じにおいだ」

「まじでくせぇ!」

 くさいくさいと悪態しかついていないのに、犬飼一家はみんな、笑っていた。

 戌子と目が合う。彼女はまるで十歳の少女のように破顔した。

 ――鍵は「雨」です。完成した『モロゾフ 〜いとくさきいぬ〜』を嗅いだ戌子に再現の秘訣を問われ、嗅山はそう答えた。

 外飼いのモロゾフは雨が好きだった。そして、日本古来の犬種の特徴を満遍なく受け継いだ彼は、他の日本犬と同じく、ダブルコートと呼ばれる二層構造の密な被毛を持つ。戌子の話によると、換毛期には毎日ブラッシングしても間に合わないくらいの、時にはサッカーボール並みの大きさの球体が作れるくらいの抜け毛が収穫できたという。

 それほどの毛量があれば、雨に濡れれば当然蒸れる。自然乾燥では間に合わず、生乾きと同じ原理で、多湿かつ温かい密な被毛の内側で常在菌は栄華を極め、獣本来のにおいと相まって相当素敵なにおいを放っただろう。嗅山はあの手この手でモロゾフの毛皮と同じ環境を作り上げ、菌たちが醸成するにおいを自らの嗅覚を使って徹底的に分析し、生乾きのモロゾフの香りを再現することに成功した。

 それに加え、ゲオスミン――土の香りを少々。モロゾフとの思い出を語る戌子は、雨の日や雨上がりの出来事については特に鮮明に記憶していた。雨のにおいは戌子や、彼女の家族の嗅覚受容体や記憶と結びつきやすいのかもしれない。

「モロゾフ!」

 戌子に呼ばれて、モロゾフが「わん」とも「おふ」ともつかない片手間な返事をする。モロゾフの鳴き声は、彼を撮影した動画に残されていた音声を元に合成したのだという。だが、戌子に言わせれば、その声は彼女の記憶にあるものとは少し違うそうだ。

 ――人は、声から忘れていく。嗅山は、戌子の寂しげな表情を思い出す。

 戌子が愛したモロゾフはもういない。家族で暮らした家もなくなる。自分にまつわるものを失いながら、堆積する時間の中に過去を埋めながら、それでも彼女は逞しく、新しい思い出を築きながら生きていく。

 前へ前へと追い立てられる彼女が、ふと後ろを振り返る時。彼女と過去とを繋ぐ最後のよすがが、においだ。においは、五感の中で一番最後まで記憶に残るという。声や姿を忘れてしまったとしても、においさえ再現することができれば、堆積した時間の中から思い出を掘り起こすことができるかもしれない。

「モロゾフ、ほら、あっち!」

 戌子が嗅山を指差す。薄汚い雑種犬は子分の意を汲んだのか、のたのたと嗅山の足元へ歩いてくる。

 ――それにしても、なんてくさい。自分が作成したにおいの出来栄えに、嗅山は笑みを禁じ得ない。

 犬飼家の愛犬の3Dモデルに手を伸ばそうとして、複数の視線を感じた嗅山は顔を上げた。

 戌子と、それぞれ片方の親兄弟としか血の繋がりのない彼女の家族が、まるで同じ柔軟剤で洗ったかのような、同じ雰囲気の笑顔で嗅山と3Dモロゾフを見守っていた。

「モロゾフさんは、愛されているにおいがしますね」

 装着したことすら忘れていたゴーグルからは、はへはへはひはひ……と忙しない息遣いが聞こえてくる。

 嗅山は彼のにおいを締めるべく、目を閉じた。


 いとくさき、いとしきいぬ。

 ラブリー・スメリー・ドッグ。モロゾフ。

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むつむ高校文芸部誌 仲原鬱間 @everyday_genki

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