【夏】海鮮丼が美味かったから
〈テーマ:地獄に見つめられている〉
「予約もしてないのにあんな豪華な晩飯出してくれるなんて、いい宿だったな」
夜通し降り続いた雨を吸った砂が、ぎゅ、ぎゅ、と窮屈そうに軋む。
「日頃の行いがいいのかもね」
「あの海鮮丼、まじで美味かった。初めて食べるやつ入ってた気がするけど、何の魚だったんだろう。マグロでもなくてサーモンでもなくて、とにかく黄身醤油とめちゃ合ってた。お前も食べればよかったのに」
「生ものは、どうしても」
「最期の飯が大根て。いいのかよそれで」
昔遊んだコインゲームを思い出しながら、引き波のタイミングを見計らって、色が濃くなったところに立つ。台の上から押し出して落としてくれるわけでもなく、ざぁん、と打ち寄せた灰色の波は、無情にも履き古したスニーカーを飲み込んだ。「冷たっ」
足踏みをする。浸水した靴は重く、体温で僅かにぬるんだ海水が底なしの沼のように感じられた。海水に混じって侵入したごく小さな木の破片が、思い留まらせようとするように、ちくりと足の裏を刺す。
「――いいよ。何を食べても、一緒だよ」
恐ろしく整った顔が、こちらを向く。酷く色の薄い瞳は、映したものを透明な檻に入れて閉じ込めてしまうような、質の悪い魔力を持っていた。
「君こそ、いいの? 僕についてきて」
「いいよ。どうせ暇だし。何もないし」
――お前しかおらんし。最期に嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、寸前のところで飲み込んだ。
別れ際に恨み言を口にするのは、ちょっと小物くさい。せめて、お互いにいい気持ちで道を違えたかった。
「僕たち、また会えるかな」
「次は、幸せだといいな」
はぐらかして、俺は細い手首を掴んだ。顔も見ずに、海水浴をするには冷たすぎる波を掻き分けていく。
「浪の下にも都の候ぞ……」
陸へ押し戻そうとするように吹きつける風の音に混じって、歌うような声が聞こえた。
海の下の都は、一体どのくらいの深さにあるのだろう。
中学生の頃に見学に行った鍾乳洞より、もっと深い場所にあるのだろうか。
――ならば、そこはきっと、地獄と変わらない。
ふと思い至った瞬間、急に水深が深くなって、水底から足が離れた。
あ、と声を上げた口の中に流れ込んだ海水が喉も鼻腔も侵して、
俺たちは暗い海に飲み込まれた。
――生きとるぞ! 酒焼けした男の叫びが、水の入った耳の中にぼんやりとこだました。
薄らと目を開けると、ひりつく目の縁を眩い日光が刺す。思わず手で顔を覆おうとしたが、全身に何かが纏わりついているせいで、腕は身体から離れなかった。
生臭い磯の香りが充満する世界は、ゆらゆらと揺れていた。どうやら俺は、船の上にいるらしかった。
「俺は……」
もしかして、助かったのか。
かろうじて動く指に、何か細い紐のようなものが絡まっていた。手繰り寄せると、それが格子状に編まれていることがわかる。網だろうか。
鮮明さを取り戻しつつある視界に、日に焼けた男たちの黒い影が入り込む。まるで穴を覗くように、人影は円陣を組んで俺を覗き込んでいた。
「こいつで間違いないか」
「ああ、間違いない。一昨日の晩に来た二人連れの
「ほな、こいつか。もう片方は選ばれんかったようやな」
海の上での習慣なのか、漁師らしき男たちは老いたカラスみたいな濁声を張り上げ、唾を飛ばしながら物申す。水の耳栓に緩和されているとはいえ、下品でやかましい。容赦なく照りつける太陽に水揚げされた身体が熱され、あちこちべたついて、とにかく全てが不快で仕方がなかった。
「丸一日海漂ってたいうたかて、ただ運が良かっただけかもしれんやろ。選ばれてるかはわからん」
「ほな確かめてみたらええわ」
漁師の一人が手に持った棒状のものを振り上げた。
その三又に分かれた先端。とったどー、という雄叫びが記憶の中の無人島にこだました。直後。
「あ、ぐッ――!!」
俺の胸は――心臓は、
「う、あ、何で……!?」
「死ぬか? 死なんか?」
返しのついた銛先を俺の体内にぐいぐい押し込みながら、ジジイが問う。
気が狂いそうな痛みだった。肉を引き裂き、内奥まで達した金属は焼けた鉄のようになって神経を直焼きにした。抵抗を試みるも網が身体に巻き付いているせいで身動きが取れない。まさしく銛で突かれた魚のように身を捩らせ、船上で跳ねる。
痛い。やめろ。やめてくれ。喉を全開にし、誰に向けてでもなく懇願するも、痛覚が焼き切れんばかりの激痛はいつになっても終わらなかった。夥しい量の血が流れ、デッキに赤い海ができているのに、俺の意識ははっきりと保たれたまま。自分の血にまみれながら、与えられる痛みを最初から最後まで甘受し続けていた。
「おい、死なんぞこいつ」
「いうてる間に傷が治りはじめとるわ。こいつで間違いない。こいつが
抜いたれ。命じられた漁師は、長靴の足で俺の肩を踏みつけ固定し、乱暴に銛を引き抜いた。再び肉が引き千切られる痛みに、俺は身体を仰け反らせて叫んだ。
活きががええわ、と漁師たちは獲物が悶え苦しむ様を愉快そうに笑い、デッキに魚と一緒に俺を転がしたまま、反対の方角へ舵を切った。
小型漁船の船首に、ばさりと大漁旗が翻った。普通は鯛やら鰹やら、縁起のいい魚が意匠として用いられるイメージだが、旗には下半身が魚で上半身が人間の、空想上の生き物――人魚が描かれていた。
失血と激痛のショックで死ぬかと思われた俺は、風にはためく奇妙な絵柄を目に映しながら、まだ息をしていた。刺し貫かれたはずの心臓は、身体ごと荒波に揺られながらも、規則正しく動いていた。
二度と戻るはずのなかった陸が見えてくる頃には、不思議なことに、胸に開いた穴は塞がっていた。つい先ほど身を襲った耐え難い痛みも、昔見た鮮明な悪夢と同じ、ただの不快な記憶と成り果てていた。
徐々に接近してくる港からは、叫びのようなものが響いてきていた。接岸した漁船が動きを止めてようやく、それが歓声であることを知る。
立て、と漁師の一人に無理やり身体を引き起こされる。
港では、近隣住民が総出で祝いの飯を炊いて待ち構えていた。
俺が最後の食事として食べたのは、人魚の身が入った海鮮丼だった。
そうとは知らずに美味い美味いと人魚の肉を食べた俺は、死ぬことも老いることもない存在――
人魚に選ばれた、祝福された者として、俺はこぢんまりとした、閉鎖的な漁村に迎え入れられた。
人魚の肉を食べなかったあいつはもう隣にいなかった。俺は空いた場所を埋めるように、お世辞にも美人とは言えない、俺と同じ平凡な容姿の妻を娶った。子供には恵まれなかったが、それなりの、永遠に消化試合のような、気負いのない幸せな人生を送った。無理だと思って諦めていたが、案外、俺にもそういう生き方ができた。
小さな漁村において、
不老不死を授けるとはいえ、人魚の肉に若返りの効能はなく、元から高齢化が進んでいた漁村の
年を重ねてしまえば経験の差も詰まり、若者の記憶力を保ったままの脳とギリ十代のピチピチの肉体を持つ俺は、自然の摂理に従って老いた妻が生涯を終える頃には、漁村の覇者となっていた。
効率的な人魚漁法の考案、人魚肉の研究……無限の命があれば、時間的コストを考慮する必要はない。妻が生きていた時分には彼女に支えられながら、俺は失った熱を取り戻すように、人生の空白を埋める事業に没頭した。
――そして、俺があいつの手を引いて入水してから一世紀が経ち、今や小さな村は大変潤っていた。俺が先導し指揮を執る、人魚産業によって。
人魚の
漁村を含め、俺の傘下にある一帯の地域は表向きは素朴な港町の顔を保っていたが、一度だけ覇権を巡る大きな抗争があって、俺はその時、猟銃で頭をブチ抜かれた。
でも、
以来、俺の世界は平和だ。俺は妻と暮らした新居――今となっては古民家の居間で4Kのテレビを観ながら人魚の刺身を食っている。黄身醤油で。もちろん美味い。
そう、人魚について話そう。
研究によって幾分生態の解明は進んだが、人魚について、特にその不老不死の力についてはいまだ多くが謎に包まれている。
わかっていることは、その肉を口にし、体内に取り入れた者が、まれに適合者――
不老不死を手に入れられるのは、人魚一匹につき一人だけ。逆に言えば、人間に捕らえられた人魚は、自分の不老不死を継承してくれる者が現れるまで、生きたまま肉を削がれ、死んだ方がマシな苦痛を与えられ続ける。
あの黄身醤油をかけていただく美味しい海鮮丼になった人魚は、俺に食われるまでのおよそ三年の間、地下の冷蔵庫に吊るされていたという。可哀想なことだ。
その反面で、継承者が現れた後の変化は速い。力を受け継いだ俺が港に引き上げられ、魚市場の地下倉庫に案内された時には既に、庫内の温度が零度を下回っているのにも関わらず、人魚は頭の先から尾鰭の先まで、見るも無惨に腐り果てていた。美しかった頃の面影は、腐り落ちた肉片に刺さった宝石のカケラのような鱗に、僅かに残っているだけだった。
別に綺麗でもない人間が永遠に生きていようと、大した意味はないだろう。俺は思う。
人魚も宝石も、人間と違って美しい。揺らぐことのない、不変の美しさを持っているからこそ、永遠に存在する価値がある。諸行無常を体現するような、不完全さの象徴たる人間が不老不死を得たところで、何だというのだ。
自分とつり合わない宝物は、呪物でしかない。意識するしないにかかわらず、一生対比し続けて、別軸の価値観しか示してくれない傲慢さに消耗するだけだ。俺が食った人魚の写真を見せてもらったことがあるが、生きていた頃の彼はとても美しかった。
俺は俺なりに、まあまあ人生を頑張っている。でも、人魚とか、あいつみたいな、美しい生き物にはなれない。百年程度では、染みついた劣等意識を覆すことは不可能らしい。
充分なほど自分の人生を取り返しきった近頃の俺は、そんなことをぐるぐると考えて、昔ほどではないものの、少しだけ憂鬱だった。
「何か新しいことするかぁ……」
人魚料理用に醸造された地酒を呷る。肉体年齢は十九だが、実年齢はとっくに成人しているのでセーフだ。
――気分を紛らわせるために、俺は新たな事業に着手した。人魚の肉の代替品の開発だ。
今は秘密裏に行っているとはいえ、市場が拡大すれば法の介入もあるだろう。肉のために人魚に苦痛を与え続けるのは、きっと動物愛護法とかに引っかかる(人魚が動物と見做されるかには謎が残るが)。何より、これ以上不死の連中が増えても困る。
新規事業は順調に滑り出した。反対意見はほとんどなかった。小さな漁村に似つかわしくない贅沢な暮らしを享受している村民の多くは、生活の質さえ下がらなければそれでいいとのことだった。金になる人魚の肉は売りたいが、今はまだ秘匿されている不老不死のことが明るみに出て、村を訪れる余所者が増えるのは望まないらしい。
相変わらずいつから生きているのかわからない名物ジジババは存在しているし、表で村を仕切ってくれている村長だって、その曽祖父がはなたれ小僧だった頃からの付き合いだが、不老不死という概念がすぐ近くを歩いていようと、村民たちは誰もそうなりたいとは言い出さない。
代替品の開発には、人魚マネーで都会の大学を卒業し、村に戻ってきた若き俊英たちが率先して協力してくれた。彼らは人魚を愛していた。その生態も、美味しい肉も。
そしてついに、人魚肉の代替品――『ほぼ人魚(仮)』が生み出された。
「美味い!」
黄身醤油に浸した刺身を口にし、俺は唸った。「……でも、何かが足りん」
「培養した人魚の筋細胞ですから、成分も組成も同じはずなのですが」
「ああ、確かに味は同じや」
俺の自宅の居間に集った、研究チームのメンバーたちは黙った。全員が、何となくその理由を察していた。
鮮度とも、少し違う。生きている、瑞々しい人魚の肉にしかないもの。
俺は箸を置いて、ふと自分の手を見た。
「『不老不死』が美味いんやったら、俺も美味いんかな……」
「やめてくださいよ」
一番年長のメンバーが、真面目な顔で言った。「もし不老不死が誰かに移っちゃったら、誰がこの村の責任を取るんですか」
「そうですよ。もっと自分が矢面に立つ者だという自覚を持ってください」
「君らなぁ、」
メンバーたちは皆、赤ん坊の頃からの付き合いだった。聖職者でもないのに親に請われて、俺が名前をつけた奴もいる。
大したことはしていないのに、皆何故か、多少屈折はしているものの俺を慕ってくれていた。
俺は、そんな器の人間じゃないはずなのに。
「……残念だな」我知らず、独りごちる。
あの時、美味しい海鮮丼を一口でも食べていれば。俺の代わりにここにいたのは、あいつかもしれない。あいつにも、こうして多くの人に囲まれて暮らす可能性があったかもしれない。
あいつなら、この不老不死にも、また別の価値を付加することができただろう。
ガラス細工のように繊細な美貌と、酷く薄い色をした目を思い出す。
小さい頃から、俺のことを捕らえて離さなかった瞳。美しさという絶対的な価値観の檻に醜い俺を閉じ込め続け、裏切ることを最後まで許さなかった、二つの光。
やっと逃れられると、あの時は安心したものだ。
せめて来世は別々に生きられますように。なんて願ったりもしたが、俺は今も、こうして生きている。
「結局岩塩が一番なんや! 僕は昔からそう言うとる!」
立派に成長した村の子供たちは、人魚肉には何が一番合うのかという、何度繰り返されたかわからない議論を懲りずに繰り広げている。
「黄身醤油が正義やって、俺が何遍も言い聞かしたったこと忘れたんか。年長者の意見に従え」
「年長者て。黄身醤油なんかで食べてる古代人、もうあなたくらいですよ」
「嘘や。あっこの民宿で黄身醤油と一緒に出しとるやろ、海鮮丼」
「海鮮丼は出していますが、人魚の肉の海鮮丼はVIP向けで一般のお客さんには提供されていません。あと、九州から仕入れた甘口の醤油の方が合うとかで、黄身醤油も随分前にレギュラーから外されました」
「嘘ぉん。あれが俺のはじまりやったのに……」
残念がりつつも、どこかほっとしている自分がいた。名実共に幻の海鮮丼になってしまったのなら、それはそれでいい。海鮮丼という文字を見るたびに頭に浮かんだ「もしも」も、手放されるべき時が来たのだろう。
妻や村民たちとのたくさんの思い出が詰まった居間で、若人たちの熱い論戦はまだまだ続いている。きっと、村の未来は明るい。
目を閉じる。とても充実した、俺にしては上出来な人生だ。
仮に来世があったとしても、もう、何も望むまい。
――その時、銃声が響いた。
平屋建ての民家に雪崩れ込んできたのは、猟銃やら銛やらで各々武装した集団だった。
何の躊躇もなく村の未来を鏖殺し始めた面々に、俺は見覚えがあった。若い
数の暴力には勝てず、俺は捕まり、吊るされ、生きたまま肉を削がれた。
俺の刺身が、目の前で、とろりとした醤油に浸される。BBQセットで焼かれる。包丁で叩かれ、なめろうにされる。皆、美味そうに、俺の肉を喰っていた。
親族大集合の晩餐を他人事のように眺めていると、突然、俺の身体から腐臭が漂い始めた。
どうやら、この中の誰かが不老不死になり、永遠の命と若さを奪われた俺は死ぬようだ。
抗うことのできない終焉は、念仏を唱える暇も与えず、速やかに訪れた。視界が暗転し――その先で、俺は光を見た。
暗闇の中で、まるで泡が水面に上っていくように、無数の光が眩く輝く天へと昇っていった。
しかし、俺はその仲間には加われず、重く重く、闇の底へと沈んでいく。
死んでわかったことは、不老不死を失った者に、天国はないということ。
温かく、安らかな光の国は、決して俺を見ない。
俺は、天国に見放されているのだ。
――自分が特許を出願した網にかかってようやく、俺は自分の前世を思い出した。
よく知っている手順で見慣れた水槽に落とされて。
立ち昇る細かな気泡のカーテンの向こうに見えた、端正な顔。
酷く色の薄い目。
「また会えたね」
見覚えのある面差しをした青年が、ガラス越しに囁く。
「僕、生ものが食べられるようになったんだ。美味しかったよ、すごく。黄身醤油と、とても合ってて……」
――なぁ。もういいだろ。
今のお前は権力者の曾孫で、親の暴力に苦しんだり、貧困に喘ぐこともない。俺なんかがいなくても、生きていけるだろ。
お願いだ。頼むから、手放してくれよ。必死の懇願は、泡となって溶けていった。
人魚の肉の代替品なんて作らなければよかった。もう誰も、俺から不老不死を奪ってくれない。そもそも、あの時、海鮮丼なんて食わなきゃよかった……
「これからは、ずっと、ずーっと一緒だね……」
老いることも死ぬこともなくなったあいつは、もう離さないとでも言うように一心に、人魚となった俺を見つめる。
俺はずっと、その瞳が怖かった。
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