人生に迷いが生まれた時に。ラムレーズンといつもの毎日
安月りつ子
ラムレーズンといつもの人生
最先端の化学繊維を施したコートの中に、サウナのような、もわっとした熱気がたちこめた。
もう11月半ばなのに、半袖のブラウスを着ていても汗がにじむ。異常気象のせいで、今年は冬物のコートを購入するのも一苦労だ。
「うん、さすが百合子さん。サイズもぴったりですね」
いつも接客を担当してくれる女性が、鏡越しに百合子の姿を確認し、襟元の皺をさっと伸ばす。
膝上丈の黒いダウンコートは、歳のせいで少し骨ばんできた体にすっと馴染んで、好みのシルエットを引き出した。
ここに足を運べばいつだって、自分に馴染むアイテムが手に入る。今履いているパンツも、バッグも、その中の財布も全てこの場所で出会った。
「とてもお似合いですよ」
百合子は、半歩ほど前に出て腰を右に軽く捻った。コートの裾が軽やかに舞って、また元の位置にふわりと戻る。
確かに似合っている。
ここに映るのは、紛れもなく期待した通りの自分だ。
40代にしては、若々しく、スタイルも悪くない。だが、若作りしすぎることに溺れず、年相応の落ち着いた雰囲気を醸し出すことが出来ている。
自立した大人の女性が、鏡の中からじっと自分を見つめる。その視線の奥にあるのは空虚な瞳であった。
その時、コートの裏地が素肌に纏わりついて、肌にピリピリとした違和感を感じた。百合子は急いでコートを脱ぎ、早口で店員に伝えた。
「もう少し、気候が落ち着いてから、また来ます」
コートを受け取った店員は、少し残念そうな表情を浮かべた後、寒くなると皆さん急いでお越しになるので、早めに購入していただいた方が安心ですよ、と言いながらハンガーに直した。
外に出た百合子は大通りを歩いた。
この暑さでも、休日の京都は外国人観光客や若い男女で溢れかえっており、中々前に進めない。
20年前には並ばなくても入れたスイーツショップも、今はInstagramの影響で行列が外まで続いている。チェーンのコーヒーショップやファストフード店でさえ、ちらっと目を向けるだけで、座席を求めて人々が彷徨う様子が確認でき、暑さを凌いで、一息つける場所は見つからなかった。
これだから休日に出かけるのは嫌なんだよな、百合子は心の中で悪態をつくと、人混みを避けるため大通りから脇道に進んだ。
繁華街をはなれ、古民家やゲストハウスが並ぶ通りに入る。ここまで来ると流石に人通りが少ない。百合子は肩を小さくぐるりと回すと、小さく息を吐いた。
随分と歩いたせいで喉が乾いた。何か冷たいものを口にしたい。
どこかにカフェでもないか調べようとスマホに手をかけたとき、前方に深い緑色の日よけがかかったガラス張りの小さな店が見えた。
店の前には小さなベンチが設置されており、ちょうど陰になっている。ガラス越しに見える店内には、大きなガラスショーケースが設置されており、アイスクリームがフレーバーに応じた飾り付けを施されて並ぶ様子が伺えた。
ここで休もう、百合子はそう決めると店に入って、アイスクリームの前に立った。色とりどりのアイスクリームたちは、フルーツやお菓子でお洒落をしてじっと選ばれるのを待っている。
キラキラと輝きながら佇むアイスクリーム達の姿は、幼い頃におもちゃ売り場で見た、カラフルなアクセサリーや、ドールに似ていた。
百合子はじっくり悩むこともなく、ラムレーズンをオーダーすることに決めた。どんな店でも必ず頼むお気に入りのフレーバーである。
そのときふと、ラムレーズンの隣に視線が向かった。その、秋限定のかぼちゃやマロンの鮮やかな色味を見た途端、百合子は木々が青々と茂るこの街に、最初の秋を運んできてくれたような胸の高鳴りを感じた。
店内に急に漂った秋の気配に、先ほどの選択が揺らぐ。
若い頃の自分なら、限定のフレーバーにすぐ飛びついただろう。その浅さはさかゆえに、失敗も多々経験したけれど、そんなことはすぐに忘れるくらい、新しいものへの好奇心で満ちていた。
だが、いつの頃だっただろうか。
新しい味が特別は出会いをもたらすのは稀なことで、むしろ、出会わないことの方が多いのではないか、そして、その分自分は少し損をしているのではないか、と考えるようになった。
ラムレーズンにしておけばよかった、と考えが頭に浮かぶたびに、新しいフレーバーを選ぶ頻度はだんだん減った。
そういえば、出会って間もない頃は、今よりももっとラムレーズンが好きだった。
白くて艶やかなアイスクリームを口に入れると、甘いミルクにビターなラムが絡み合い、洋酒の香りが全身を駆け巡った。その瞬間に、大人の一歩を踏み出したような誇らしさを感じた。
シャリっとした歯触りと共に、レーズンがたっぷり吸ったラムが口内に溢れ出すと、それはまだ知らない、「いつもの」と頼むウイスキーの味や、ひと仕事終えた後のビールの味と同じくらい、最高の瞬間だ、と感じた。
それなのに百合子が今、ラムレーズンに求めているのは安定感だった。バーのウイスキーも、仕事の後の一杯も、今ではもう私の心にときめきを運んで来てはくれなくなった。
仕事も、家も、趣味も、友人やパートナーとの時間も、いつしかどれも百合子の期待を上回らなくなった。想像した以上のことが起こらない、いつもの人といつもの場所で、いつもの服を着て、いつもの味を楽しむ、いつもの人生。
子どもの頃に憧れた『いつもの』という言葉が、大人になった今、自分を縛りつける。
残りの寿命はきっとまだ半分ほどあるだろう。このまま『いつもの』を繰り返して終わっていく人生が、虚しく感じる。
でももう若くはない。この歳で大きな失敗をしたら、立ち直れる自信はない。いつもの人生を失う、リスクも負いたくはない。
百合子は、ガラスのショーケースに映る自分の姿を通してアイスクリームを、じっと見つめた。
果たしてこの世界に、私を満たしてくれるフレーバーが本当にあるの?
まだ知らない、新しい味との出会いが、私に与えてくれるものは一体なんだというの?
百合子はやっとの思いでようやく注文を終えた。
かぼちゃのアイスクリームはひとくち食べると、ほんのり甘く、素朴な味がして、幼い頃、季節の変わり目に熱を出すと、母が作ってくれたかぼちゃプリンのことを思い出した。
ふたくち食べると、公園で1番大きな木の下で父と拾った丸い形のどんぐりのことを思い出した。
みくち食べると、近頃かぼちゃの煮物がうまく作れるようになったことを思い出した。
よくち食べると、去年の秋に、来年もパートナーと紅葉を見にいく約束をしていたことを思い出した。
百合子は最後のひとくちが、舌の上でとろけて消えるまで、ひとつひとつの記憶を、ゆっくりと味わった。
かぼちゃは、ラムレーズンよりも好みのフレーバーであるとは言えなかった。
それでも、百合子は損をした、という気にはならなかった。むしろ、いつもよりも心が暖かく、やりきったような満足感を得た。
百合子はアイスクリームのスプーンを、カップの中に置く。周囲には静かな街を何人かがまばらに歩いている。どこを目指しているのだろう。それとも目指す先などないのだろか。
私は残りの人生でも、たくさんの選択を幾度となく繰り返していくのであろう。それはアイスクリームのフレーバーを選ぶくらい些細なものしれないし、時に命に関わるくらい重要なことかもしれない。
その度に新しい経験と、過去の思い出のマリアージュが、ラムのように熟成して、豊かな香りを生み出し、深く、複雑な、自分だけの人生の味を織りなしてゆくのではないだろうか。
いつしか、外は夕暮れ時に変わっていた。
昼間は夏の気候でも、日の入はきちんと秋の時刻で、本当は確実に季節が変わってきていることを実感した。
太陽が小さくなるにつれ、風が少しずつ、冷たくなる。素肌の腕がひんやりと肌寒くなり、コートが恋しくなる。
次に袖を通すのはどんなコートだろうか。
百合子の座るベンチを横目に若い男性が、入店した。ガラス越しに少しこもった声が聞こえてくる。
その声に耳をそばだてながら、注文されるフレーバーを見つめた。
「ラムレーズンと、それから、かぼちゃを、ダブルで下さい」
確かに聞こえたその声に、百合子は密かに目を見開いた。そうか、その手があったのか!
そのとき、百合子は未来に小さな活路を見出すことが出来たような気がした。
百合子は夏が秋に変わる様に、幼児が少女になる様に、時々名残惜しく残暑を照りながら、だんだん変化してゆく自分の速度を愛してみることにした。
そして、またすっかり秋が深まった時には、必ず冬を目指すことを誓った。
巡る季節のように、小さくても確実に。
辺りはすっかり暗くなって、小料理屋の行燈がぽっ光を灯した。
百合子は、カバンの中から薄いショールを取り出し、肩にかけると、アイスクリームをもうひとつオーダーした。そして、薄暗い街をステップを踏むように、軽やかに、前を向いて歩き出した。
その片手にはラムレーズンが、握られていた。
完
人生に迷いが生まれた時に。ラムレーズンといつもの毎日 安月りつ子 @azukiritsu
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