東京タワーで始まる僕の還暦
カミオ コージ
(短編No.2)東京タワーで始まる僕の還暦
1999年の冬、僕たちは別れを前にこんな約束を交わした。
「60歳の誕生日、12月19日の18時に、東京タワーの下で会おう。」
それが僕たちにとって最後の会話だった。
その頃、僕は35歳、彼女は28歳。家庭を持つ僕と、自由で情熱的なヨーコ。僕たちは一緒にいるべきではなかったし、それぞれに個人的な課題を抱えていた。我々には未来が見えないと言って別れを選んだのは、お互いのためでもあった。
「コージ、きっとそのとき、何かが変わっているわ。きっといい方向に。」
そう言って笑ったヨーコの表情が、25年経った今でも鮮明に思い出される。
10年後、偶然ヨーコのFacebookの投稿を見つけて知った。
ヨーコは僕と別れて数年後にアメリカに渡り、食品会社に勤めていた。主に日本との貿易を担当し、異国でのキャリアを築いているようだった。商品サンプルや商談の風景、アメリカの街角に立つ彼女の姿。そのどれもが、僕には彼女らしく映った。どこにいても強く、柔らかく生きる人だった。
広々としたスーパーマーケットの陳列棚、青い空の下で開かれるマーケット。どれも穏やかで、「新しい土地でも、人は何かを探し続ける」というキャプションが添えられた写真を見つけたとき、僕は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。結婚はしていない様子だった。僕は自己中心的な思い込みと思いつつもこう考えるのだ。洋子がアメリカに行ったのは僕を忘れるために行ったのではないかと。
一方、僕は勤めていた会社を辞め、会社を2つ立ち上げたが、どちらも失敗に終わった。生活に追われる中で始めた飲食業が偶然成功し、今では4店舗を構えるまでになった。子供は1人娘がいる。端から見れば至って幸せと言われる生活だ。ただし、これでいいのか、自分が何を目指してきたのか、これから何を目指すのか、よくわからないまま、僕は今を生きている。
その間も僕は年に何回かは彼女を思い出し、正確には彼女との約束を思い出し、Facebookを見て、彼女の活躍を密かに眺め続けてきた。それは僕の曲がりくねった人生の灯火でもあった。
還暦を目前に控えたある夜、ヨーコからFacebookのMessengerで突然メッセージが届いた。彼女もまた僕のFacebookを知っていたのだ。
内容は至ってシンプルで、しかも英語だった。
“Do you remember it?
You are 60. How is it?”
シンプルなその言葉が、僕の中で何かを呼び覚ました。
ヨーコも僕のFacebookを見ていて、あの約束を覚えていたのかという驚きに、しばし呆然とした。そして、指を動かした。何度も何度も書き直した。
いろいろ聞きたいこともあったが、結局のところ、シンプルな返信をした。
“Of course, I remember that. How many years has it been since we talked about it? So much time has passed, and we’ve been through a lot as well.”
彼女は何を考えて、このメッセージを送ったのだろうか。
たまたま思い出したのだろうか。それとも、僕の存在が彼女の中で何かの区切りを求める必要があったのだろうか。今頃、キーボードの前で考え込んでいるのだろうか。
彼女の心の奥には、いつも誰にも届かない場所があった。それはヨーコの持つ眩しいほどの自由と、その自由が静かに閉じられた扉のようなものだった。
ヨーコからの返信はなかった。
2024年12月19日、17時。
僕は東京タワーへ向かった。
歩くたびに冷たい冬の空気が頬に刺さる。澄んだ空に輝く東京タワーが、いつもと変わらぬ光を放っていた。その暖かい赤い光は、ただそこにあり続けるだけで、過去と現在を静かに繋いでいるようだった。
東京タワーの下ではクリスマスマーケットが開かれており、広場全体が明るい光と音楽に包まれていた。恋人たちがツリーの前で写真を撮り合い、家族連れがホットワインを片手に笑い合っている。焼きたてのシュトーレンやグリューワインの香りが漂い、人々の笑い声が響く。
そんな中で、僕は一人、約束の時間を待っていた。18時が近づくにつれ、胸の中に湧き上がるのは、懐かしさと諦めが入り混じった奇妙な感情だった。
時計が18時を指した。僕はクリスマスマーケットの喧騒の中で、彼女の姿を探し続けた。
「もしかしたら」という期待は、胸の奥で小さな波紋を起こし、すぐに静かに消えていった。
ヨーコは来ないのだと心のどこかで分かっていた。それでも、僕はこの場所に立たなくてはならなかった。
僕たちはそれぞれの人生を歩んできた。そして、その歩みの中で約束は形を変え、ただ記憶の中で生き続けてきたのだ。
それはお互いが歩んだ別々の人生の中で、決して消えることのない時間として僕たちを灯し続けていたのだ。
家に帰ると、リビングでは妻と娘夫婦が待っていた。「お父さん、ちゃんちゃんこ着て!」と娘が笑顔で赤いちゃんちゃんこを手渡す。隣では婿がカメラを構えている。テーブルの上には「還暦おめでとう」と書かれたプレート付きのケーキが置かれていた。
「ほら、帽子も忘れないでね。」妻が笑いながら赤いほっかむりを差し出す。
「こんなもの、どこで探してきたんだ。」
照れくさい気持ちを隠しながら、僕は赤いちゃんちゃんこを羽織り、ほっかむりをかぶった。
「お父さん、ロウソクに火をつけるよ!」娘が声をかけると、妻がマッチを手に取り、ケーキの6本の蝋燭に灯りをともす。
蝋燭の小さな炎が揺れた瞬間、ふと、さっき真下から見上げた東京タワーの光が頭をよぎった。
わずかな時間だったが、心がヨーコへ引き戻された。
「早く消して、お父さん!」
娘の声に現実へと引き戻される。
僕は苦笑いしながら、「ついに還暦か!」とおどけてから静かに息を吹きかけた。
その夜、部屋が静まり返り、窓の外を見ると、遠くに東京タワーの灯りが揺れていた。
それは、今日まで僕とヨーコの小さな約束が見失われぬよう静かに見守り続けた灯火だった。
Do you remember it?
というヨーコの言葉を僕は噛みしめる。
こうして、僕の人生を縛り、支え続けてきた約束から解放され、僕は還暦=人生の終焉を東京タワーの下で迎えたのだった。
終焉というのは、それは過去を抱きしめながらも、新しいものを生み出す始まりなのだ。
そう思いながら、僕は寝室に戻り、傍に眠る妻の手をそっと握った。
東京タワーで始まる僕の還暦 カミオ コージ @kozy_kam
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