哲学的な恋心
彼岸花
哲学的な恋心
「
自宅マンションのリビングにて。ソファーに座る私の隣で、彼女は淡々とした口振りで伝えてきた。
彼女……灯里は、一言で言うなら途轍もない美人だ。男の人顔負けの長身、身体付きはモデルもびっくりなスレンダーさ。肥満とか二の腕の太さとか、そういうのと無縁な見た目をしている。仕事もバリバリ出来て、出世街道真っしぐらなんだから凄いもんだ。
顔立ちもクールでカッコいい感じ。下手な男の人よりずっとイケメンだと思う。実際高校とか大学の時は、同性である女子生徒達にモテていたらしい。微笑みさえも無縁な無表情ぶりも、クール系なら魅力に早変わり。
同じ二十四歳の女だというのに、私とは大違いだ。灯里曰く「紗絵はそのもっちりしたほっぺたが魅力的だと思うわ。あと柔らかいお腹と、たぷたぷの太ももと可愛い」らしいが、これが煽りなのか褒め言葉なのかはちょっと分からない。あれ言ってた時も無表情だったし。
まぁ、そんな灯里は私と同棲していて、しかも私の恋人なんだけど。私は昔から
……それは兎も角。
「ふぅん。何時の間にその診断受けたの?」
「この前の健康診断。オプションが付けられたから、試しにやってみようかと思って……いえ、思ってはいないわね。心がないって判定されたんだし」
「別に、訂正するほどの事じゃないと思うけどなぁ」
「事でしょ。無人格症と診断されたって事は、科学的に心がないと証明されたのと同じなんだから。まぁ、私には当然その自覚がない訳だけど」
「そりゃ、自覚があるなら検査する意味ないというか、心があるから自覚する訳で」
顔を合わせる事もなく、私と灯里は淡々と会話を交わす。私は、その話の中に出てきた言葉について、思考を巡らせる。
無人格症。
確か、五十年ぐらい昔に発見された病気……というか気質だったか。名前の通り、それは人格を持たない、自意識が備わっていないというもの。なんでも、脳領域の中で意識を司る部分が殆ど活動していないらしい。私は医者じゃないから、どういうメカニズムなのかは分からないけど。
でも意識がないだけで、行動は普通の人間と変わらない。
頬を叩けば怒って殴り返してくるし、犬猫の感動ドラマを見ればわんわんと泣く。くだらない下ネタに冷めた眼差しを向ける、或いはゲラゲラと爆笑する事もある。勿論叩かれて殴り返さない人も、動物虐待を泣くどころか笑う人も、下ネタでガチめに興奮する人もいるだろう。普通の人間だってそういうもんだ。
だけど無人格症はそこに、意識が付随していない。ただの条件反射、生理的な反応というだけ。熱いものに触るとパッと手が動くような感じに、泣いたり笑ったりする。
もっと具体的に例えるなら、AIみたいなものと言えば良いか。ネットのAIに「黒くて可愛い動物の画像を見せて」と指示すれば、黒猫とかの画像を持ってくるだろう。でもAIは『黒い』も『可愛い』も『猫』も理解していない。黒猫というタイトルの画像に、可愛いというコメントがあったのを拾い集めて、統計的に『黒くて可愛い猫』を表示しただけ。回答に使われる文字も、一定パターンを出力しているだけ。
AIには自意識がない。それは絶対間違いない。でも、このぐらいの会話なら成り立つし、返答にはなんか人格がありそうな感じがする。
無人格症の人はAIよりももっと高精度に、自意識を持った人間のように振る舞う。例えば「自分は自意識があるけど無人格症ではないと証明するために検査を受けよう」と考える人の『模倣』もする。或いは「検査なんて絶対嫌だ!」と断固拒否する人も、「友達が受けるからノリで自分もやる」という無人格症の人もいる。意識ある人間が見せるあらゆる反応を、無人格症の人もするのだ。
「その診察結果が出ると、なんか良い事あんの? 会社から補助が出るとか」
「特にはないわね。向精神薬が効き難いとか、催眠療法に耐性があるとか、そういう事を事前に知れる利点はあるけど。別に病気ではないし、何かサポートが必要な訳ではないしね」
「まぁ、確かにそうだけど……でも無人格症って世間的にはマイナスばかりじゃん。今は大分マシになったけど」
無人格症という『症例』自体は、五十年前に発見されてから世間に広く知られている。
しかし世間の認識が正しいかといえば、首を傾げざるを得ない。私だって
無人格症の人に対する典型的な誤解は、冷血漢や人情味がないというもの。確かに人情味のない無人格症の人もいるが、それは人情味のない人の反応をしている無人格症の人だ。先程考えていた例でいえば、AIの返答する言葉をそれっぽいものに変えたというだけ。
性格が明るければ無人格症ではない訳ではないし、暗ければ無人格症でもない。平均すればやや感情が乏しいらしいけど、専門的な研究機関が平均値を出さなければ分からないぐらい微妙な差とも言える。
なのに無人格症というだけで、人間味がないとかの誹謗中傷を受けるのだ。間違いなく、これは生きる上での損失だろう。
そしてもう一つの不利益が、『ゾンビ』扱い。
無人格症の状態は『哲学的ゾンビ』と呼ばれるものによく似ている。哲学的ゾンビとは、哲学の世界で生み出された産物。無人格症と同じく、自意識はないが人間的な行動を取る存在として考え出された。
哲学的ゾンビは思考実験のために考えられたもので、実在すると主張された訳ではない。でも誰かがそう言ったのか、言った話に尾ヒレが付いたのか。無人格症 =ゾンビという認識が一部の人にはある。そしてゾンビなので人を襲うとか、噛まれると感染するとか……そんな主張をしているのだ。ちなみに哲学的ゾンビにもそんな性質はないので、ゾンビという単語から連想ゲームをしているだけ。
アホらしいとは私も思うけど、ゾンビ退治と称した殺人事件も起きているから笑えない。裁判員が「ゾンビは人間ではない」とか言い出して、司法が滅茶苦茶になった国もある。
三十年ぐらい前までは、本当に酷い偏見が蔓延っていたらしい。今ではかなり落ち着いたけど、未だ正しい理解が広まったとは言えない。
「別に、会社や親族にも伝えられないし、こちらから話さない限り周りには広まらないわよ」
だからこそ検査機関や国も、その情報はしっかり秘匿した上で当人に伝えてくれる。
でも、そもそも検査を受けなければ無人格症だとは判明しない。なんと言われようとも、脳波検査以外の方法で無人格症は判断出来ないのだから。個人情報の流出などの可能性も考えれば、検査を受けない事こそが最大の『秘匿』方法になる。
大きなメリットがあるなら兎も角、現状検査には些末なメリットと大きなデメリットしか感じられない。灯里は合理的な『性格』で、非合理な行動は普段絶対しないのに。
「ほんとかぁ〜? 何か他に理由があるんじゃないのー?」
「……………」
おちょくるように尋ねてみれば、灯里はそっぽを向いてしまう。
それからしばし沈黙していたが、不意にぽつりとこぼす。
「私に恋心がないと分かったら、この関係はどうなるのかなって」
その呟きは淡々とした、感情の起伏がないものだった。
――――灯里の呟きは、社会問題にもなっている事。
無人格症だと判明したカップルや夫婦が、破局してしまうというものだ。無人格症には人格がない。だから「愛してる」という言葉をどれだけ囁いても、そこには決して本心なんて含まれない。ただ「愛してる」という音を発するロボットにしか思えなくなり、恋愛感情が冷めて破局に至るのだ。大抵は、無人格症ではない相手の方から一方的に別れを告げる形で。
偏見が横行していた数十年前には結構大事件が頻発したようで、今でもまあまあ事件が起きている。
それを灯里は(自意識はないけど)意図的に、恋人である私相手にやった訳で。
「……相変わらず面倒臭いなぁ」
「う、五月蝿いわね! どうせ私は面倒臭い女よ!」
ぽつりと私が呟くと、灯里はぷりぷりという音が聞こえそうな怒り方をした。
昔から灯里は、こういう女だ。他人として接する分には、真面目で優秀でクールな大人の女なんだけど……恋人になると相手をリードするどころか、こちらの恋愛感情が本物か試そうとしてくる。
例えば普段は毎朝キッチリ同じ時間に起きるのに、遅刻寸前まで寝坊したり。或いは普段ちゃんとした身形でいるのに突然ズボラになるし。はたまた男性社員とのツーショット写真を送ってきたり。致命的な問題は起こさないけど、ちょっとイラッとする事をしてくるのだ。
なんでそんな事をするのかと前に問い質したら、不安だからと言われた。同性で、自分みたいな愛想のない奴を、本当に愛してくれるのか、心配になると。
まぁ、無人格症と結果が出た今、「パートナーとの関係性を不安がる人の行動」をしているだけで、実際には不安なんて感じていないんだけど。
不安なんて感じてないのに、不安になっている人みたいな行動をする。人によっては酷く不快に思えるのかも知れない。というか心にもない事をするというのは、多分多くの人にとって気持ちの良いものではないだろう。
だから、無人格症と分かったパートナーと別れてしまう人が多いのかも知れない。
じゃあ、私はどうかと言えば。
「……灯里。ちょっとこっち向いて」
「ん。何よ」
灯里が私の方を振り向いた。
瞬間、私は彼女の頬を両手でがっちりと掴み、引き寄せ、そして私の唇で灯里の唇を塞いでやった。
「ん、んんっ!? んんんーっ!?」
いきなりのキス。灯里はそれに驚いたかのように、手をバタバタと振り回す。ポカポカと私の頭を叩いたが、全然痛くない。
思いっきり口の中身を吸って、舌も捩じ込んで、しばらく……三十秒ぐらい? キスをぶっ続けでしてやる。灯里の拳は止まり、身体をビクビク痙攣させる。
名残惜しくも唇を離した時、灯里の顔は真っ赤で、ちょっと意識が朦朧としていた。私は、全然平気だけど。
「アンタさぁ、そのぐらいで私の愛が揺らぐと思った訳?」
「そ、そういう訳じゃ……な、ない、けど」
頭が回らないのか、言い訳しようとする灯里の口の動きは酷く鈍い。赤面した顔が戸惑いに染まるのは、酷く扇情的。というか涎で口許が汚れているのが、すっごいやらしい。
イラッとした気持ちが、ムラっとしてきた。
「正直さぁ、私、恋愛を精神的繋がりとかなんとかいうの嘘だと思うんだよね。だって相手の心なんて見えないじゃん」
「そ、それは、その、そうかも、だけど、でも……」
「優しさだとか、強さだとか。そういうのは全部行動で示すものでしょ? 私達は、結局のところ何をしたかで人を判断している。なら、心の有無が重要だと思う?」
優しい心の持ち主がいたとして。その人が身動き一つしなければ、誰にもその優しさは伝わらない。
自分の方が先に好きだったなんて気持ちに、なんの価値もない。一言好きだと伝えた事もないのに、先を越されたなんて何様のつもりだとしか思えない。
本気で恋をしていたところで、付き纏い、郵便物を漁るような奴とは恋なんて出来ない。ただただ気持ち悪いだけ。
私達は
だから、その相手の人格が『空っぽ』かどうかなんてどうでも良いではないか。
「私はね、どんな仕事も難なくこなして、新人のミスもテキパキ片付けて、それを自慢する事もなく淡々としているあなたが好きなの」
「う、うう……そ、そんな、私なんて、ただ愛嬌がないだけで……」
「あと顔が良い」
「……ん?」
「そのイケメン顔を羞恥とかでぐしゃぐしゃにしてるのとか滅茶苦茶そそる。それと自分で面倒臭い事をしたって自覚してる時の、後悔と恐怖で歪んだ顔とかすっごい私の性癖に合う」
「ちょ、何よそれ!? 行動が大事とか言いながら身体の事ばかり言ってるじゃない!」
ぷんすかと怒り出す灯里。その人格に怒りがない事は既に分かっている。
分かっているが、それでも愛おしい。
この怒った素振りをする面倒臭い女の顔を、私への恋慕でぐっしゃぐしゃにしてやりたい。
それが出来れば、私は幸せだ。
彼女も、きっと幸せな顔を浮かべてくれる。
「五月蝿いっ! さっきからそういう顔見せられてムラムラしてんの! というかそれするって事は誘ってるんだから襲ってもいいよね!?」
「性犯罪者みたいな事言うなーっ! もっとムードを、んぐぅ!?」
喧しい口をキスで塞ぐ。
灯里の今の気持ちなんて、私には分からない。例えば最初は抵抗していた癖に、今では腕を回してくる事の『意味』なんて、私の中での解釈でしかない。
だから私は彼女の『心』を都合良く解釈する。
そして自分の気持ちを伝えたいと、自分が思うがために、大好きな彼女を思う存分愛させてもらうのだ。
哲学的な恋心 彼岸花 @Star_SIX_778
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