雪なる幻
猫煮
あるいは彼女は如何にして空想をやめ雪の冷たさを肌で感じるに至ったか
足を止めて見上げれば、細かい光のかけらが僕たちの上に降り注いでいる。光のかけらと言ってしまうと神秘的に思えるが、その実は結晶が光を僅かな時間の間捉えてから野放図に吐き出しているに過ぎない。それでも見てくれだけは美しいと思うのは、僕の前世がカラスか何かだったのだろう。
「24C23M、前を見て歩け」
ほら。こうやって追い立てられるのだって、なんともカラスらしいじゃないか。ゴミ漁りをやらないだけ、多少は上等な動物に生まれ変わったと思っておこう。
「いえね、降積速度がいつもより速い気がしたもんですから」
これは嘘ではない。目に見えて分かる程度に結晶の密度は増えていたし、この仕事を無事に終えるためには必要な情報だ。ただし、その理由も知っていると言う事を明言していないだけで。それを聞くとスタンバトンを持った男は、防塵マスクごしでも顔が想像できるような嘲り声を上げる。
「ネズミは文字も読めないのか、それとも三歩も歩けば記憶が飛ぶのか。今朝の掲示モニターで上のセクターの採掘量を増やすと通達があっただろう」
三歩で忘れるのはニワトリだろうと言い返してやりたくなったけれど、スタンバトンの黒光りを見て言葉を飲み込む。代わりに目元だけでも伝わるほどに大仰な表情を作って、へつらってみせた。はあ、とも、ふう、ともつかないような曖昧な笑いに男は鼻息を短く鳴らすと、スタンバトンを軽く振って先に進むように促す。その仕草に従って、降り注ぐ結晶の下、合金製の足場を再び歩き始める。地下にも関わらず、そこかしこから伸びる柱状結晶が放つ光のおかげ、あるいはそのせいで、足元はよく見えた。そして、そのせいで、幅1メートルもない足場の下に広がる奈落も薄っすらと輪郭が見て取れる。
光のかけら、つまり削りカスが奈落の中で弱々しく輝きを失うのを目の端で眺めながら、今回の割当現場までの道を辿る。これでも中層のセクターで掘る身だ。現場に行けば道具が置いてあるというのはなんとも気楽なものである。下層にいたころは、深層へと伸びる奈落の口に怯えながら、自分の体重と同じ重さの採掘道具一式を採掘場入口で渡されて、えっちらと運んでいたのだから、職場の環境も大分改善したと言えるだろう。
僕たちのような鉱員は、元をたどれば死刑囚を強制労働させていたのが始まり、らしい。らしい、と言うのは、この穴の中でそんなことに興味を持つ人間がいないからだ。僕たちは岩を掘ることとしばらくは保証される生活のことだけを考えていればそれで済むし、後ろで今もせっついているような『羊飼い』たちも、きっと僕達には岩堀りの能力しか求めていないだろう。なので、そんな無駄なことを大真面目に話す人間はいないし、よっぱらった鉱員たちが喧嘩の売り文句に「犯罪者の血を引くクズ野郎」と唾を飛ばしては、「おまえもそうだろうが」と笑い混じりに野次を飛ばされる時に使われるような話なのであった。
だから、と言うわけでも無いのだろうけれど、羊飼いたちは僕たちの扱いが雑である。下層にいた頃に今みたいな口をきけば、嘲りの代わりに死なない程度の高圧電流が帰ってきただろう。何度かくらったことがあるけれど、あれはなかなか嫌なものだし、場合によって小便ぐらいは漏れるからなるべく遠慮したい。なので、気持ち早足になりながら壁面に空いた穴へと歩みを進めた。
そんな事があった以外は普段通りの一周期。その工程もすべて終了し、割り当てられた居住ボックスへと帰ると、先に帰っていた同居人の21703Sが出迎えてくれる。
「おう、おかえり」
長身に浅黒い肌、スレンダーだが一応は女とわかる体型の同居人は赤ら顔で機嫌が良さそうである。 21703Sは、すでに一杯やっていたらしい。「飲むか?」と言わんばかりに、ボトルを叩いてみせるが、さっさと体を拭いてしまいたいので手をひらひらと振って袖にした。生活用水から少し引き出して布を濡らす僕を見て、 21703Sが呆れた声を出す。
「お前、クリーンエリアに寄らなかったのか。結晶病になったら足が動くうちに自分で身を投げてくれよ。お前のマテリアルなんてゾッとしないんだからな」
「そりゃお互い様だよ。だいいち、今回は不可抗力だ。今回のエリアが D4番坑道だったんだから」
その言葉に、それなら仕方ないかと納得する同居人。今回は別のエリアだったけれど、 Dエリアの統括ボックスが機能不全を起こしたことが、噂程度には伝わっていたのだろう。酒盛りに戻った21703Sを背に、手早くチンキを水で溶いて布に染み込ませる。クリーンエリアで使われている薬剤よりも精製が甘いらしく、使えば肌が焼けてヒリヒリと痛むのだけれど、結晶病になるよりはマシだ。羊飼いたちが無料でくれる物の中では、比較的良心的な部類なのだから、贅沢は言うまい。手袋と服は脱いで回収カーゴへ。全裸になって体をまんべんなく拭く。汗をかいた脇に胸の下と、露出していた両手は特に念入りに。
「念入りなことで。俺なら手と顔だけにしとくがね」
すぐにやってきた痛みに顔をしかめていると、21703Sが気遣わしげに声をかけてきた。
「仕方ないでしょ。僕は心配性なの」
「いやさ、痛いのは耐えられない。クリーンエリアのだって不快なぐらいだ。できることなら、フルフェイスのマスクと手袋を使って石堀りしたいぐらいさ」
「何言ってんのさ」
普通の坑道なら、そんなことも許されるかもしれないが、僕たちにそんな事はできない。ここで掘っているマテリアルは、岩盤から切り離すときに人の肉眼で見ながら、生身で触れていないとすぐに気化して消えてしまうのだから。しかも、十秒も手に持っていれば今度は液化してしまう。そんなことは彼女も承知しているのだろう。「言ってみただけだ」と肩をすくめてコップから一口。液化したマテリアルがすぐに結晶病を発病するわけではないらしいけれど、塗りつけたまま十周期もすれば、付着した部位から徐々に萎びてマテリアルに変わっていき、最後は胸から低純度の結晶が生えて終わり。痛みはあまりないらしいけれど、うら若い乙女としてはしばらく遠慮したい死に方である。最近までこの三人部屋に居た22A18Fも除染漏れで結晶病になり、結晶が生える前に奈落へと飛び降りたのだから、過敏にもなろうというものだ。
「知ってるかい、深層の連中は死体に生えた結晶で採掘量を水増ししてるって噂。あれが本当らしいって」
「ちょっと、やめてよ。さっさと寝たいってのに変な話をさ」
「いやいや、だからこそだって。隣で掘ってた奴に聞いたんだが、投げ込まれた結晶病の死体とおなじ模様の結晶を集積カーゴでみかけたんだと」
「なにそれ、馬鹿らしい。結晶の模様なんて似たりよったりじゃない」
「それが、その死人ってのがそいつの恋人だったらしくてさ。見間違えるはずがないっていうんだよ。ロマンチックだろ?」
思わず顔を歪めて 21703Sを見る。この女は恋愛事にかけては趣味が悪いのだ。これ以上話を聞く気も起きず、酒を引っ掛ける気も失せたので、休眠チューブへと体を潜り込ませる。「なんだよ」とぼやく同居人の声を背に、チューブ内のダイヤルを回して薬剤を噴霧させる。夢も見ないように強度を最大に設定すると、薬剤は期待通りの効果を発揮して、深い眠りがすぐさま僕の意識を捉えた。
その眠りから引き上げられれば、僕はまた仕事へと向かう。相変わらず上層からの削りカスは普段より多いが、二度目ともなれば感動も少しは目減りする。それでも美しいものは美しいのだから、統括ボックスまでの道のりぐらいはのんびり歩いても許されるだろう。働くにしても、それぐらいの楽しみを見つけたところでバチは当たるまい。
そのようにして仕事のサイクルが続き、降積量にも無感動になってきた頃、休業時間が訪れた。鉱員を長く続けるには、ある程度の休みを挟んでやるのが効率が良い。休業時間に何をどうメンテナンスをするかというのは各人に任されているが、今回は21703Sと休業時間が重なったので、共に歓楽街へと出かけることにした。
歓楽街の中でも酒場横丁あたりは、酔っ払いが所構わず管を巻いているので異臭がひどい。少し好奇心を出して路地裏を覗けば、自分と飲み仲間のゲロの海で幸せそうにいびきを掻いている阿呆共が積み重なって寝ているのが見つかるはずだ。全くもって衛生的な環境ではないのだが、神とて触らなければ祟ることもない。なので、僕は21703Sと共に酒場横丁を通って目当ての甘味処へと向かうことにした。前を歩く彼女は酒場から聞こえる馬鹿騒ぎに後ろ髪を引かれているようだったが、丸坊主なのに引かれる髪もないだろうと背中をつつく。
「おい、それはやめろって。羊飼いを思い出しちまう。なんだって休みの時間でもアイツラのことを考えなきゃならんのだ」
「21703S、あんたまだ後ろからせっつかれてんだ。反応のしすぎじゃあないかしらね」
「羊飼い共が急かし過ぎなんだよ。言われなくても規定量は掘ってやるってのに」
そんな馬鹿な話をしていたからだろうか。路地裏からよろけて出てきた人物に気がつくのが遅れ、ぶつかった拍子にたたらを踏んでしまう。
「っと、失礼」
謝ってからその人を見てみると、服はボロキレ、肌も髪も整えられていない、歳すらあやふやな男が焦点の合わぬ瞳で髪の隙間から目を光らせていた。
「ああ、ああ、お嬢ちゃん。すまない。すまないね」
呂律の回らぬしゃがれ声で囁いた男は、しかし僕たちに顔を向けてはいても見てはいない。その証拠に、男はそれ以上なにか話を続けるでもなく、独り言のようにずっと呟いていた。
「見つからない、どこだ、どこに。見つからないんだ。見つからない」
「おい、やめなって。関わらないでおこうぜ」
21703Sが小声で言う。けれども、僕はなんとはなしに。本当に理由はわからないのだが、なんとなく尋ねた。
「なにか落としたので?」
すると、男。この段になって気がついたのだけれど、老人は瞳の焦点を合わせて僕の顔を見ると、やはりしゃがれた小さな声で言った。
「『憶ひぞいづれ鮮かに あはれ師走の厳冬なり。燼頭の火影ちろりと 怪の物影を床上に描きぬ。黎明のせちに遅たれつ』…… 」
「なんだって?」
21703Sと声が揃う。
「『黄泉 閻羅の王の禁領にして 首長の本名を何とか称ぶ?』、称ぶ、呼ぶ。ああ、『この房室の扉の真上なる禽を目にするさいはひを承けにしことのなかるべきは言はずもあれ、その禽の名ぞ』、名ぞ、鳥の名…… 」
聞き返した頃には老人の目は宙をさまよい、僕の顔など見てもいなかった。その瞳があまりにも昏かったので思わず後ずさる僕。すると、老人も大げさに飛び退いて喚き散らす。
「ああ、また来たのか。私を連れに。あの吹雪の向こうへ! 消えろ、すべてを拭い去って消えろ! お前が連れてきたこの雪とともに消えるが良い!」
そして、何事か喚き散らしながら路地の奥へと走り去っていく。あまりと言えばあんまりな事に呆然としていると、肩に置かれる手。振り向いてみれば、21703Sが小馬鹿にしたような顔でかぶりを横に降っていた。だから言ったのにと言葉以外の全てで伝えるようなその様子に頭の一つでも叩いてやろうかと思ったけれど、目の端に薄汚れた包を見つけて、そちらに注視する。包の布が老人の着ていた襤褸と同じ布に見えたからだ。
包へと手を伸ばす僕に、ゴキブリの腹でも見たような顔をする21703S。それでも好奇心からか、肩越しに僕の手元を覗き込んだ。
「こりゃ、本か? なんだってこんなものを持ち歩いてたんだ」
「あーっと、食後に読みたかったとか」
「いやいや、あの爺さん、食後どころか水すらまともなものを飲んでなさそうだったぜ。だいいち、あれは脳まで萎びてる面だよ」
言いながら表紙をめくってみると、印刷されたものですらない。雑多に詩やら散文やらを書き留めた、私家版の作品集のようだった。書かれている表題の傾向から察するに、冬についての作品を手当たり次第に集めたといったところだろうか。
本というものには正直興味がなかった。一つ一つがやたら高価だし、読んでみてもどうせ採掘の間に忘れてしまうからだ。しかし、それが無料で手に入るとなれば話は変わってくる。どのみち採掘以外の時間は何をするわけでもないのだ。この本をネコババしてやろうかと、あさましげな考えが脳裏に浮かぶ。
「あの人、これを取りに戻ってくるかしら」
「言ったろ、脳まで萎びた面って。ありゃ長くないだろうし、自分がどこに居るかすら解ってないんじゃないだろうかね」
脳が萎びる、つまり、結晶病の終期。僕たち鉱員が採掘をするにあたっては避けては通れない職業病だけれど、ああいうふうに喚き散らすようにはなりたくない。それぐらいなら、さっさと身を投げてしまった方がマシという意見も頷ける姿だった。
けれど、それならば。
「ならこの本をもらっても良いかしらん」
「げえ、やめときなって。縁起の悪い」
「だって無料なんだよ?」
僕たちに限らず、この手の言葉に弱い人間は多い。迷った顔の21703Sはしばらく考え込んだ挙げ句に、「好きにしな」と投げやりに言った。その言葉に気を良くして本をしまい込んだまでは良かったのだけれど、その後に入った甘味処の糖蜜パイがあまりにも美味しかったもので、本のことはすっかりと忘れてしまい、次に気がついたのは再びの休業期間が訪れての事だった。
今回は21703Sと時期が合わなかったので、何をするか、再び休眠して贅沢に時間を使おうかと考えながら自分の鞄を漁っていると、乱雑に突っ込まれた本に手が触れたのである。何をする予定があるわけでもなし、折角だから読んでみようと本を開く。中身は予想通り、冬にまつわる様々な作者の作品を書き写して作られた著作集だった。多いのは詩だったけれど、掌編や物語の一場面を抜き出したようなものもいくつか収録されている。老人があのとき呟いていた詩はポーなる作者による『大鴉』という詩らしいことも判った。
いつだったか、自分でカラスの生まれ変わりじゃないかと益体もない事を考えた覚えがあるけれど、妙な一致にクスリと来る。実のところは、あの時着ていた服が黒系統だったのが理由だったろう。それでも、この詩に出てくるような得体のしれない者に見立てられたというのは、僕をどこか小気味よい気分にさせた。
しかし、そんなことよりも僕を虜にしたのは『雪』というオブジェクトだった。雪というのは空、岩の天井ではなく、地上に広がる果てのない開放空間中のある領域での水の状態が固体様の形状をもつ相へ転移した際、結晶化した水がその領域から降下してくる現象らしい。その結晶は光り輝き、時として恐怖や孤独感を想起させるのだという。それだけならばこの場所では常に降り注いで、さして珍しいものもないのだけれど、雪の面白い所は正反対の感情を想起させる。つまり、優しさや安堵を想起させることもあるということだ。
この二面性というのは、シンプルな生活を送っていた僕にとって複雑で、奇妙なものに思えた。そして、そのために僕はこの雪なるオブジェクトの虜になったのである。
ところが、それを21703Sは面白く思わなかったらしい。僕が本を読んでいると、隣からちょっかいを掛けてくるようになったのだ。
「なあ、折角の機会なんだ。またどこぞにでも出かけようぜ」
それまでならば一も二もなく頷いたのだろうけれど、気もなく生返事を返す。
「そんなに面白いもんかねえ。俺にはさっぱりだ」
苛立たしげな21703Sの声に、本から目線を上げる。彼女は声色通りの顔で、唇を尖らせていた。もちろん21703Sを不機嫌にすることは僕の本意ではない。そこで、彼女に胸の内を語って聞かせることにした。
「別に本だからって面白いわけじゃないんだ。ただ、なんというか、この『雪』と言うのが気に入ってさ」
「雪? なんだいそりゃ」
「雪ってのはそうだな、氷の結晶が上から降ってくるんだ」
「結晶? それならいつも降ってきてるだろ。まあ光っているなとは思うが、珍しくもない」
「いや、ただの結晶じゃないんだ。儚くて、人肌に触れると融けてしまって」
「ここで降ってくる結晶もそうだろ。なあ、24C23M、最近変だぞ」
「24C、ああ、僕か。いや、そんなことじゃなくてだ。ここで降ってくる結晶と違って元は水だから、害はない。だから様々な人間が様々に思いを乗せるんだ。例えばこの詩人なんかはだね」
「24C23M!」
21703Cが大声で遮るものだから、思わず言葉を切る。改めて立ち上がった彼女の顔を見ると、泣きそうな表情である。こんな表情を見るのはいつぶりだっただろうか。確か同居人の22A、いや、22Bだったか? とにかくもう一人いた同居人が結晶病を発病したときぶりだろうか。
「どうしたってんだ。お前、自分の名前まで掘削機で削っちまったんじゃないだろうな。雪だかなんだか知らないが、名前よりも大切なものじゃないだろ」
掘削機、僕たちが決勝を掘るために使う機械。人が確かめていなければ消えて失せてしまう結晶をこの世に繋ぎ止めるために、僕たちの一部を削って入れる機械だ。一部と言っても、体を削っていれるわけではないし、そんなことをすれば一人が掘れる結晶は微々たるもので効率が悪い。代わりに削って入れるのは、僕たちの記憶だ。そんなに大量でなくて良い。それこそ、前回食事を取った正確な時刻であるとかその程度で、一抱えの結晶を掘り出すには十分。それが雪で言う空気中の塵のように核となって、結晶の形を取る。
つまり、自分の名前なんて大きなものを削り取る機会なんて早々ないのだから、21703Sの危惧は全く持って的はずれなのだ。とはいえ、そこまで思い詰めさせてしまった事には責任を感じてしまう。彼女を慰めるにはどうすれば良いだろうか。
「わかった、悪かったよ。どこかに出かけよう。そうだ、せっかくだしあだ名というやつをつけ合おうじゃないか。本によれば、仲の良い相手同士はあだ名という愛称で呼び合うらしい。そうだな、217というのがある国の発音でニーナと読めるから …… 」
「やめろ、たくさんだ!」
渾身の一手だったのだけれど、ニーナの気には召さなかったらしい。彼女はそのままへたり込んで、弱々しい声で言った。
「俺は21703Sだ、ニーナとかいう名前じゃない。頼むからいつもの通りに21703Sと呼んでくれ、24C23M、頼むよ」
そう言われても、もはや僕にとって彼女は愛しいニーナなのだ。彼女を悲しませないために、口では21703Sと呼んでも、心のなかではニーナと呼ぶことだろう。僕は彼女の横へとしゃがむと、その肩を抱き寄せた。
「わかったよ、21703S 。今日は久しぶりに酒盛りでもしようじゃないか」
無言で頷く彼女と酒盛りをし、その後激しい愛情交換をしてこの休業期間は終わった。しかし、この出来事から先、ニーナとの間にはなにか見えない壁が立ちはだかって思えるようになったのである。その壁は、彼女を「21703S」と口で呼ぶたびに厚みを増して、結晶のように成長していった。
その壁が決定的に僕たちを隔てたのは、それから十周期ほど経ってからのことである。その日、地上へと結晶を運搬する貨物カーゴの随伴員に追加募集があったのだ。あまり見慣れない型違いの防塵マスクをつけた羊飼いの男は、統括ボックスの入口に椅子を置いて、鉱員それぞれに応募の意思を尋ねていた。
「やあ、君もこんなネズミのような生活は辞めにしたいだろう? カーゴの随伴になれば、空だって見られるかもしれないよ?」
いつものお決まりの台詞である。羊飼いどもは僕たちを指示に従う猿程度にしか思っていないのだろう。男の口調こそ親しげだったが、その態度にはこちらを見下しているのがはっきりと見て取れた。いままでの僕ならばさっさと遠慮して持ち場へと行き、終業後に馬鹿にされているのも解らずにこちらを見下す羊飼いをサカナにして同僚と酒でも飲むところだ。しかし、今となってはいささか心境が異なる。男は「空が見える」と言ったのだ。
「あの」
「どうしたのかな?」
「雪は降りますか?」
尋ねた僕に男は少し驚いた様子だったが、すぐに取り繕って尋ね返す。続いて尋ねた僕の言葉に、面食らった様子で戸惑っていたが、それもすぐに取り繕うと穏やかに聞こえる声で言った。
「もちろんだとも」
それを聞いて、僕は少し迷ったけれど、応募の意思を彼の手渡した書類へと書き込み、持ち場へと向かったのだった。そうして次の周期が終わり、帰り際、僕の貨物カーゴ随伴への配置換えが通達されたのである。この知らせは僕に不安と喜びが同時に湧き上がらせたけれど、それを通達した羊飼いは無感動に要件だけを告げて去っていった。足取り軽く居住ボックスへと帰ると、先に帰っていたニーナが出迎えてくれる。
「おう、おかえり」
長身を壁に預けて座り、浅黒い肌は赤く火照って目も潤んでいる。手にはコップが握られ、隣には封が開けられたばかりの酒瓶が中身を湛えていた。機嫌の良さそうな彼女の様子に嬉しくなり、僕の吉報も告げてやろう。そう思い口を開いた。
「21703C、僕は貨物カーゴ付きになったよ」
そう言い終わるが早いか、ニーナの手からコップがこぼれ落ち、半分ほど入った酒をすべて床に飲ませた。
「なんだって、そんな。徴用か? なんてひでえ」
「違うんだ、自分で志願したんだよ」
すると、ニーナは勢いよく立ち上がって詰め寄り、僕の胸ぐらを掴む。
「お前、なんだってそんな馬鹿な真似を。追加募集が多いってのがどういう意味かわかってやったんだよな」
喜んでもらえるとは思っていなかったが、応援してもらえるとは考えていた。しかし、この反応から察するに彼女の心配性を見誤っていたらしい。
「空がね、見えるんだ」
落ち着かせようとしてゆっくり彼女に告げると、彼女は手の力を抜いて僕の服を離す。
「それに、聞いてみれば雪だって降るらしい。いや、それだけじゃない。本にあった『一面の銀世界』や『つらら』だってあるかもしれないんだ」
更に落ち着かせようと言葉を続けると、どうしたことか彼女は崩れ落ちて俯いてしまった。これはどうしたことだろうか。
「こうなるのかよ。だからやめておけって言ったんだ。あんなものを拾わなければ」
そう呟くニーナの声は震えている。しゃがみ込んで目線を合わせれば、先ほどとは異なる潤みが彼女の目には浮かんでいた。
「どうしたんだ、ニーナ。僕は喜んでいるんだよ」
言ってからしまったと思ったが、以外にもニーナは肩を震わせただけで疲れたように笑った。
「そうかい。ずっとそうだったんだな。鏡を見てみろよ。脳の萎びた顔だ。あの爺さんと同じ顔だよ」
そして幽鬼のように立ち上がると、自分の休眠チューブへと向かった。
「21703C」
そうしなければならない気がして僕は彼女を呼び止めたが、彼女は一度振り向いて言った。
「馬鹿だよ。俺と一緒に生活して、結晶を掘って、それ以外のことは掘削機で削っちまえばよかったのに。そうすりゃ、 CとSを間違えることもなかった。だが、俺はお前のニーナにはなれないんだ」
そう告げると、振り返ることなく自分のチューブへと入ってしまった。しばらく僕は動くことができなかったけれど、言われたことを思い出して鏡の前へと向かう。鏡の中には普段と変わらない僕が覗いていたが、確かにあの老人の顔をしていた。
これが21703Cとの最後のやり取りである。そして今、彼女の疲れた笑顔を思い出しながら上を見上げた。貨物カーゴはすでに地上につき、横向きのレールの上を通ってトンネルを抜けたところ。初めて見た空はねずみ色の雲が覆い、カーゴの詰め替えた先の吹きさらしの随伴カートの上には斬りつける風。空からは細かい光の欠片がちらほらと僕たちの上に降り注ぎ、その一つが僕の額に落ちる。
ああ、寒いな。ふと、そう思った。
雪なる幻 猫煮 @neko_soup1732
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます