花と、友人と、本と

@kkb_

花と、友人と、本と

 神様がいるなんて嘘だ。


 こんな言葉を放った瞬間、藤田弘之の心には深い虚無が広がった。明治時代の東京、浅草の片隅で、彼は神を否定することで自分を見つけようとしていた。彼は幼少期から宗教──と言うよりかは、神の存在──に縛られて育ったが、成熟した今ではそのすべてが空虚に感じられたのだ。


弘之は書肆しょしで日に焼けた洋本を手に取った。彼の心には病が宿っていると感じていた。絶望という名の病が。彼の人生には目的も意味も感じられず、ただ日々の重荷に耐えるだけだった。その本は、表紙の題字が溶けていた。花布はなぎれは解けていて、小口は波打つように歪んでいる。彼は手にした本の様相に共感し、自分自身の存在に疑問を抱くようになった。


 この頃は、文明開化の波が押し寄せ、街は急速に変わっていった。銀座の繁華街では、西洋の建築様式を取り入れた建物が立ち並び、ガス灯が煌々と街を照らしていた。街の光はまるで人々の夢と希望を照らし出すかのように輝いていたが、その光景の中でさえも、弘之の心には絶えず暗い闇が広がっていた。彼は世の奔流を見つめながら、まるで凍え死にそうな鹿のように唸った。


ある日の朝、弘之は浅草寺の境内を歩きながら、心の中で様々な思考を巡らせていた。お寺の鐘の音が静かに響き渡り、人々が祈りを捧げる姿が彼の目に映る。鐘の音はまるで彼の心を叩き、内なる静寂を破るかのようだった。だが、彼にとってそれらはただの儀式であり、何の意味も持たないものに過ぎなかった。彼は寺の階段に腰を下ろし、通り過ぎる人々を眺めた。彼の目には、誰もが同じように見えた。皆、同じように幸せに満ちた顔に思えた。たまらず視線を落とせば、砂を踏む深ゴム靴を見るばかりだった。


 弘之の唯一の救いは、友人である高木京介との会話だった。高木は文学の世界で名を馳せており、その洞察力と哲学的な視点は弘之にとって刺激的であった。二人はしばしば夜遅くまで語り合い、弘之は高木の話に耳を傾けながら、自分の考えを整理していった。


「京介、君は神を信じているか?」と弘之が問いかけると、高木は少し考えてから答えた。「信じるかどうかは重要ではない。ただ、我々がこの世に存在し、生きる意味を見出すことが重要だ。」


弘之と高木の会話の中で、高木はさらに続けた。「弘之、絶望は罪であると語る者がいる、その意味を考えたことはあるか?」


「罪、か...どういうことだ?」


高木はゆっくりと言葉を選びながら答えた。「絶望は、自己否定の極みだ。それは自分を完全に拒絶し、存在そのものを無意味とする。我々の存在は、どんなに小さくとも意味を持つ。それを無視し、否定することは、神様の創造物を否定することと同じだ。」


その言葉に弘之は深く感銘を受けたが、心の中の虚無は消えなかった。むしろ余計に、自分自身を否定された気持ちになった。彼は自分が何のために生きているのかを問い続け、答えを見つけることができなかった。


「やはり君は神を信じているのか。」


「この話の本質はそこではない。法律家は宗教的に、倫理的に、弁証法的に罪を与える。善や真であろうとしないことが悪であるからして、これを許すために罰を下す。故に罰を下すために罪を与える。」


「では絶望も許されるのか?苦悩の根源に、あるいはその先に絶望があり、絶望して自分自身であろうとしない者に、いったいどんな罰がある。」


「分からない。神様は罪を与えないからだ。」


「では神は何をする?」


「導く。」


高木の顔が耳まで赤くなっている。彼は酒を飲むと苦しくなる体質で、肩で息をしながら、それでもコップの酒を飲みこんだ。


「神様はただ自らの創造物を導く。弘之、君が神様を信じようと、信じまいと、それは神様の存在の是非を問わない。絶望を語る者は往々にして、自身の手によって自分に罰を科す。まるで自分という存在が罪であると錯覚しているんだ。」


高木はそこまで言うと、そのまま沈黙した。


その夜、弘之はかつて手に取った洋本を思い出し、友人の言葉に心を深く動かされたことを知った。覚えているのは日に焼けた様相のみで、どんな内容が綴られているのかも知らない。あの本がどうして自分と同じであろうか、いや、同じであるはずがない。彼は自分自身を赦し、絶望から抜け出すための道を模索し始めた。


 数日後、弘之は浅草の街を歩いていると、道端で一人の少女と出会った。彼女は笑顔で花を売っており、その無邪気な姿が弘之の心に触れた。少女の笑顔は陽気で朗らかで、弘之の心を温めた。弘之は思わず立ち止まり、花を一輪買った。少女は弘之に微笑んで言った。「お兄さん、この花を見てください。小さくても、一生懸命に咲いているんですよ。」


その言葉に、弘之は何かを感じた。自分は絶望を知っているが、果たしてこの花は、その生涯のうちに神に祈ったことがあるだろうか。弘之が知っていることは、いずれこの花がみすぼらしい姿になって、最期には枯れることだ。だが神の存在を否定している自分と、この花にいったいどれだけの違いがあるのか分からない。人も老いて朽ちる。なにもかも死に至る命であるならば、そして少女の言葉が真実であるならば、自分より目の前の小さな花の方がどれほど高尚か。


彼は花を見つめながら、心の中で何かが変わり始めたのを感じた。彼の心を踏みつけていた重石は色を失い、優しい光がたゆたうように心の中に差し込んでいった。


ある夕方、浅草の路地裏で弘之は偶然、高木と再会した。


「京介、君の言葉を考えていた。自分を信じることについて。」


「そうか。何か掴めたか?」


「まだ分からない。でも、少し前に進んだ気がする。」


「それでいいんだ。一歩ずつ進んでいけばいい。」


高木の言葉に、弘之は少しだけ心が軽くなるのを感じた。彼は自分の中の絶望と向き合いながら、生きていく意味を模索し続けることにした。


 神様がいるなんて嘘だ。そう信じていた弘之の心には、これ以上の虚無は宿らない。けれども絶望が消えたわけではない。弘之は自分の有り様を否定することを、やめた。確かにここには暗く、深い闇が留まっている。だが、これを拒絶したりはしない。これこそが自分なのだ。


おそらくはこれが始まり。彼の内を解きほぐすようにくすぐった光は、彼の生きる意味を探求する旅の始まりとなった。もしかしたら神様はいないのだろう。だが自分は確かにいる。くすんだ鏡に映る顔は紛れもなく自分自身だ。ならばそこから目を背けるのではなく、自分に微笑んで、「ありがとう」と、あるいは「今日もよくがんばった」と、わずかに語りかける方が生き易い。


「君はあの日、べらぼうに酔っていただろう。」


弘之はハットを被り、取り寄せたサングラスをかけた。日差しが次第に強くなる。道を行き交う人々は、きっとコーヒーを提供してくれる茶屋に向かっているに違いない。


「改めて訊いておこうと思ってね。京介、君は神様を信じているか?」

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