アクアグレイ

卯月なのか

第1話

 抱えた段ボールに乗った塵に、私のため息がかかる。かび臭い美術準備室の外からは、私に片付けを押し付けて帰りやがったほかの部員たちの声が響く。皆はこの後、今日行われていた文化祭の後夜祭に行くのだろう。文芸部に所属している私の友達は、塾があるからと先に帰ってしまった。皆私が暇だからって。



 ぼうっとそんなことを考えていたら、びしゃっ、と、足元で嫌な音がした。こつん、という鈍い音にハッとして、足元を見た。水彩絵の具のバケツをひっくり返してしまったのだ。幸い透明だった水が、私を急かすかのようにゆっくりと床に大きなシミを作る。しまった、やらかした。私は慌てて、抱えていた段ボールをそっと、少し離れたところの床に置き、部屋の隅の掃除道具が入ったロッカーへ走った。湿気った海苔みたいなボロ雑巾を仕方なく取り出し、広がる水を何とか食い止めようとする。誰だよ、こんなとこにバケツ置きっぱなしにしたやつ。なんで私だけがこんなことしないといけないんだよ。

 考えれば考えるほど、苛立ちが大きくなる。でも、私が本当に苛立っているのは、他の皆に何も言えなかった自分なんだろう。それに気づいてしまったら、なんだか一気に自分がみじめだ。悲劇のヒロインを気取っているわけじゃないけれど、そんな気持ちに襲われてしまう。

「大丈夫?」

筋肉のない、情けない細さの腕で床の水を吸い取れたところで、誰かが正面から声をかけた。

「……先輩⁉」

私は驚きのあまり、後ろに尻餅をついた。痛たたた、と情けない声を出した私に、先輩の形の良い眉が八の字に下がった。

「あらあら、ほんとに大丈夫?一人でやってたの?」

先輩は、私の隣にしゃがんで、私の腰をさすってくれた。先輩の、小さな白い手から伝わる温度に、少しだけ心臓の音が大きく聞こえた。先輩の問いに、はい、と力なく頷くと、そっかぁ、と、先輩は力無く笑った。

「あの子達も相変わらずだね〜」

先輩はそう言って、私が持っていた雑巾を代わりに片付けてくれた。

「あぁ、すみません」

「いいのいいの」

先輩は優しく微笑んで、私にそのしなやかな白い手を差し出した。

「立てる?」

私はその柔い手を掴み、冬眠明けの熊みたいにのろのろと立ち上がった。

「ありがとうございます、なんかすみません」

「ううん、全然いいの。ついでだったし」

「ついで?」

「あ、うん。受験の息抜きに、絵でも描こうと思って」

先輩は、少し下がり気味の眉尻を、さらに下げて柔らかく笑うと、背負っていた黒いリュックサックの中から、A3のスケッチブックを取り出した。

「先輩が描いてるの、見ててもいいですか……?」

先輩ともう少し話がしたくて、私はつい口走ってしまった。私の言葉に、先輩は猫のような大きな黒目をさらに丸くした。やっぱり迷惑だったかな。

「いいよ!あ。でもここだと狭いから、美術室の方に行きましょ」

先輩は快く許可してくれたようだ。そんな先輩の笑顔が眩しくて、私は小さく頷くことしかできなかった。



 一番前の窓際の席。私の隣でHBの鉛筆をスケッチブックの上で自在に踊らせる先輩の手は、今年の四月に引退した時よりも遥かに動きが速かった。長い睫毛に隠された眼差しは真剣で、私は金縛りにあったみたいに、先輩から目を放せなかった。

「最近どう?」

ピアノ線の空気の中から、先輩が口を開いた。その口調は本当にいつも通りで、私は驚きのあまり、返事にやたらと間をおいてしまった。

「まぁ、まぁまぁって感じです」

「部活は?」

「気楽に、やってます」

「そっかそっか」

先輩は、私の言葉に優しく微笑んだ。一瞬だけ、鉛筆を踊らせる先輩の手が止まった……ように見えたのは、先輩のその柔らかな笑顔が、私の時を止めたからだろう。

「先輩は、最近どうですか?」

「う〜ん、私は受験勉強で大忙しかな。毎日毎日、さすがに飽きてくるよ」

そう言って、先輩は鉛筆をスケッチブックの上に置いた。困ったようなその微笑には、どことなく疲弊の色が浮かんでいた。

「食べる?」

黒いリュックサックの中から、また宝物がでてきた。チョコレートだ。ビビットな包み紙に包まれたそれは、食べてくださいと言わんばかりに私を誘惑する。

「いいんですか?……いただきます」

袋の中から、ショッキングピンクの包み紙のチョコレートが出てきた。一つ口に含むと、小さな甘さが私を満たす。私のことなんか少しも気にせず、先輩は一つ、また一つと、チョコレートを頬張る。大福のような白い頬が、リスみたいになって、いつもより少し幼く見えた。先輩は、同級生の前ではどんな感じなんだろう。どんな感じで笑うんだろう。

「受験、大変ですよね。そういえば、先輩って、どこの大学目指してるんですか?」

馬鹿な考えから頭を冷やしたくて、無理に話題を作った。手元の包み紙は無造作に折ったせいで、端がそろっていない。


「受けようと思ってるのは、A美大」


 その時の先輩の瞳は、あまりに真っ直ぐで、私を丸呑みしそうだった。ブラックホールみたいなそれは、小さな小さな絶望の渦の中に、私を引きずり込んだ。

「A美大……先輩、東京行っちゃうんですか……?」

「うん、そうだよ」


 その瞬間に、私はいっぱいの喪失感に襲われた。今まで、何故か勝手に、これからもずっと、いつでも先輩に会えるような気がしていた。長期休みとかに、ちらっと顔を出して、お菓子を差し入れしてくれて。そんなふうに。でも、それは叶わなくなってしまうんだ。


 でもどうして、こんなにも胸が痛くなるのだろう。


 それに気づいたら、何やら頭の中に灰色の靄がかかったような感覚に陥った。針で指先を刺してしまった時のような、微妙な胸の痛みだけが、ただ、そこにあった。

「先輩。もう、会えないんですか……?」

教室に吸い取られる弱々しい声に、ハッとした。私の声だ。

「あっ、いや、その……!」

慌てて掻き消そうと吐いた言葉たちは、逆に私の首を絞める。身体が妙に熱い。言葉を振り絞るためにスカートを握る不格好な自分の手が、ひどく情けないものに見えた。

「ふふふっ」

先輩は、手で口元を隠して笑った。その可愛らしい仕草と、自分への恥ずかしさで、また顔が熱くなる。

「よし。じゃあ寂しがりの可愛い後輩のために、絵でも描こうかな!……あ、でも一個条件!」

先輩はそう言うと、人差し指を立てて、私の顔の前に出した。

「せっかくだからさ、贈り合いっこしようよ」

先輩はそう言って、にやりと笑った。

「はい、これ」

困惑する私をよそに、先輩はスケッチブックから画用紙を切り取って、私の正面に置いた。机の上のそれは、私の気持ちなんて知ろうともせず、でんと構えている。

 どうしたら良いか戸惑いつつも、私は大して勉強用具の入っていないリュックサックから、筆箱を取り出し、美術室の後ろにある棚から三十二色入りの色鉛筆を取り出した。やるからには、本気でやってみたい。少しでも、先輩の記憶に、私という存在が残るような。そんな絵を描きたい。

「テーマは、お互いのことにしよ」

スケッチブックのページを捲りながら、先輩が言った。先輩は優しいけれど、絵のことになるとたまにちょっと意地悪だ。私の困り顔まで、きっと見透かしているのだろう。でも、今の私は不思議とやる気だ。思えば、こんなにも描きたい何かがあるのは久しぶりかもしれない。



 先輩のことを表す絵、と聞いて、一番始めに思い浮かんだのは人物画だ。柔らかい笑顔とか、絵を描いているときの、周りの全てを飲み込むような目つきとか、そういうところを描きたい。ふと、隣の先輩を見た。先輩は、スケッチブックと前の黒板の間みたいな虚空を見つめていた。描き始める前の先輩は、いつも変なところを見ている。長い上向きの睫毛の奥のその瞳には、どんな世界が見えているんだろう。じっと見つめれば見つめるほど、なんだか胸が、糸で縛られたみたいに苦しくなった。肩に届かないくらいのふんわりとした黒髪とか、お人形さんみたいに白い肌とか。ちょっと太めの眉毛とか、小さいけれどしなやかな白い手とか。見つめるたびに、先輩の全てが、私の目に焼き付いて離れない。そんな不思議な感情を振り切り、思い切って、下描きを始めた。自分で言うのはおかしいかもしれないが、描くのは割と速い方だ。空想より、写実的な方が得意でもある。

 しかし、描き進めるほどに、違和感が増していく。やはり人体はバランスの取り方や構図が難しい。なにより、目の前に描かれた先輩は、先輩のようで、そうでない人のような、そんな気を起こさせた。何かが違う。これは、先輩を表す絵、と、言えるのだろうか。そう思えば思うほど、手が止まる。何が間違っているのだろう。顔のパーツの位置?胴体のバランス?手指の長さ?考えるほどに、私の手は氷漬けにされたようにピタリと止まってしまった。



 「そういえばさ」

もうすでに鉛筆で下描きを始めていた先輩が、スケッチブックから目を離さず私に聞いた。

「もう二年でしょ?そっちは進路とか、どうなの?」

「進路……うぐっ」

言葉の意味を咀嚼した途端に、嫌な心地がした。そんな私に先輩は一瞬目をやると、ふふふふ、と私を面白がった。

「今絶賛迷い中、です……」

私は正直に先輩に告げた。発せられた、自信のない自分の声は、情けない響きを冷たい窓に吸収させた。

「何で迷ってるの?」

「まだ全然、自分が将来何したいのかわかんなくて……絵を仕事にするなら、先輩みたいに、美大もやっぱ、かっこいいな〜って思ったりしたことはあるんですけど……」

「あ〜、そうなんだぁ。なるほどね〜」

正直な気持ちから発せられた自分の声は、少し慣れなかった。けれど、私の話を聞いた先輩の表情は、なぜか満足気だった。ただ、だからといって私の中の迷いが消えるわけではない。

「美大にするにも勉強するにもなんにせよ、すっごくハードだと思う。勉強ももちろんそうなんだけど、美大受験はね……自分より遥かに上手な人を見ると、正直こたえるよ、ホントに」

それは、いつも通りの先輩の口調だった。でも、その中に、普段あまり見ることの出来ない先輩の本音が、一瞬露わになったように思えた。

「先輩より上手い人なんて、ホントにいるんですね」

「いるいる。そりゃあもう、ごまんといるよ」

自虐めいたように、先輩は笑った。先輩がこんな笑い方をするのを、私は今まで見たことが無かった。先輩が見ている世界は、私の知らない、知ることもないような世界なのだろう。優しく、陽だまりのような笑みに隠れた彼女の闇を、垣間見たような気がした。その闇の中にいる先輩を、なんだかひどく遠く感じる。腕を伸ばせば手が届く距離に、彼女はいるのに。

「先輩は、絵の練習の息抜きに、絵を描きに来たんですか?」

先輩のことを描くためには、先輩のことをもっと知る必要があるのかもしれない。そんな直感が頭をよぎり、ストレートな疑問をぶつけてみた。

「そうだよ。ふふふっ、おかしいって思うでしょ?」

先輩は、一緒だけ手を止めて、ちらりと私に視線を向けた。少し身体をかがめて、上目遣いに私を見る。そんな先輩の仕草が、私の胸のざわめきを大きくさせる。なんだか顔が無性に熱くなって、私は目を伏せてしまった。

「……思います」

「ふふふっ、そうだよね〜」

先輩は、かがめた身体を起こし、教室の少し上の方を見ながら、言った。

「正直、最近は受験の練習!って感じでやりすぎちゃってたからさ。そういうことは考えないで、自由なものを描きたかったの。絵ってさ、やっぱ自由なものであるべきなのかな〜って」

そう語る先輩の瞳は、力強い光を宿していた。先輩はすごい。自分の好きなことにどこまでも真っ直ぐで、自分の夢を、自分で掴み取る覚悟があって。それに比べて、私はなんなんだろう。私は、何をしたいんだろう。今まで、ずっと見ないふりをしていたことが、目の前に大きな壁となって現れたかのような。そして、私の頭の中に大きな岩となって重くのしかかるような、そんな感覚に陥った。先輩と私は、まるで月とスッポンだ。否、何も考えず適当に生きて、道の途中で彷徨い続けている私は、きっとスッポンに食べられる小魚か何かだ。水の中にいる私は、水面越しにしか、月光を感じることはできない。

 その点、先輩は本当に月のような人だと思う。絵という太陽があるからこそ、先輩はあんなに美しく輝いているのだろう。あの柔らかい笑顔は満月のようだし、たまに見せるいたずらな笑顔は三日月だ。何より、私のこの灰色の毎日を、優しく照らしてくれる。なかなか弱いところを見せないところまで、同じだ。

「先輩。もう一枚、紙もらってもいいですか?」

「うん、いいよ」

先輩は、一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、いつもどおりの笑顔で、私に新しい画用紙を手渡した。

 気づけば私は、画用紙の上で鉛筆を踊らせていた。満月だ。光をその面いっぱいにたたえた満月で、先輩を表そう。でもきっと、ただ単に月を描くだけじゃ面白くない。私から見た先輩。つまり、水中から見た月を描こう。あれこれと思案するうちに、描き込みがどんどん増えていく。さっきまでの時間が嘘みたいだ。少しずつ構築されていく世界に、私は久々の興奮を覚えた。やっぱり、絵を描くのって楽しい。



 しばらくの間、二人きりの美術室に沈黙が流れた。私と先輩の、鉛筆の音だけが、そこに響く。ふとした瞬間に、たまに耳に入ってくるのは、体育館で行われている後夜祭の音だ。やや騒がしい楽器の音と共に、結構上手な、女の人の歌声が聴こえる。バンドでもやっているのだろうか。

「先輩っ」

「ん〜?」

私が手を止め、先輩の方を見ると、先輩はスケッチブックから顔を上げずに応えた。先輩は、いつの間にかイラストマーカーで、既に色をつけ始めていた。やっぱり速いな。

「先輩は後夜祭、行かなかったんですね」

「うん。なんか、人多いとこってどうしても苦手なんだよね〜」

「あ〜。ちょっとわかります、それ」

「だよね!……それにね」

先輩は、一瞬だけ手を止めた。先輩の持つ水色のマーカーが、一点にだけ濃いシミをつくる。


「帰ろうとしたとき、教室から美術室の明かりがついてるのが見えて。そこに、君が一人でいるのが見えたから、なんか、ちょっかいかけたくなっちゃって」


 先輩はそう言って、ふふふっ、と笑った。私の方を見て、にっこりと笑った。その笑顔は、目を背けたくなるほど、それはそれは眩しくて、私の胸は締めつけられるように苦しくなった。どうして彼女の笑顔は、残酷なまでに美しいのだろう。どうしてこんなに、私の心を掴んで放さないのだろう。どうして、どうして。

 その瞬間、私はこの苦しみの正体に気づいてしまった。先輩と話すと、それだけで心が弾むのは。先輩の視線の先には、何が見えているのか気になって仕方がないのは。先輩の優しい笑顔が、忘れられないのは。


 私、先輩に恋してるんだ。


 「ん、どうしたの?」

「えっ……?」

先輩が、上目遣いに私を見た。形の良い眉尻が、八の字に下がる。

「なんかつらそうな顔してるけど、大丈夫……?」

いつのまにそんな顔をしていたのだろう。口下手な癖に、すぐ顔に出してしまう自分の悪癖に嫌気がさした。私は、なんのことかというふうに前髪を整えるふりをすると、


「なんでもないですよ」


と笑ってみせた。頬の筋肉が、少しだけ痛い。先輩は、なーんだ、と笑って、また手を動かし始めた。私の気持ちを伝えたら、きっと先輩を困らせてしまうだろう。あるいは、恋愛的な意味でないと誤解されるか。どちらにせよ、これで良いんだ。私の気持ちは、水底の小さな宝箱に、そっとしまっておこう。それで、良いんだ。それだけで、十分なんだ。

 でも、なんだかそれでは物足りない自分がいる。くるりと指先で鉛筆を回すと、私はまた絵を描き始めた。月の光に向かって、水中で手を伸ばす構図に変えるのだ。どれだけ手を伸ばしても届かない、彼女を表現するために。



 チャイムの音でハッと我に返り、私は手にしていた灰色の色鉛筆を机に置いた。もう六時か。秋の終わりとなれば、暗くなるのも早い。二時間以上、ずっと描いていたのかと思った途端に、身体からぬるりと力が抜けた。

「どう?描けた〜?」

既に絵を完成させた先輩が、チョコレートを食べながら私に聞いた。相変わらずマイペースだなと、笑いたくなるのを我慢して、はい、と頷いた。完成した絵を見せる瞬間は、いつでも、相手が誰であろうと緊張する。でも。それでも私の作品を見て欲しい。私の気持ちを、受けとって欲しい。

「灰色の……海?ふぅん、面白いね!」

私の絵を受け取ると、先輩はそう呟いた。本当はあれこれ解説したい気持ちもあるけれど、なんだか知られたくないような気もして、私は聞かなかったふりをした。

「わぁ……すっ、すごい……!」

先輩の絵を受け取った私は、思わず感嘆の声を漏らした。

 先輩の絵には、大きな金魚鉢の中に植えられた一輪の小さな花が描かれていた。背景は何も描かれておらず、ただそれだけが、その世界に存在しているみたいだった。先輩の技術は流石で、金魚鉢のガラスの質感とか、花が植えられている土は、まるで本物さながらだった。この花の名前はわからないが、多分、実在するものなのだろう。陰影や、物のバランスも完璧で、これを色鉛筆とイラストマーカーで表現してしまう先輩の実力に、私は鳥肌が立った。

 写実的だからこそ、描かれている状況の異質さが際立つ。金魚鉢に花を入れるインテリアは、写真などで見たことはあるが、普通は中に造花を入れたり、花瓶のように水を入れるものだろう。この絵は、まるで植木鉢のように金魚鉢を扱っている。何より、花はこの小さなものが一輪しかない。

「その花の色、綺麗でしょ」

先輩に言われ、私は花の色に注目した。水色、いや、それにしては明度が低い。だからといって、青でもない。爽やかで、確かに綺麗なのに、なんだか中途半端でパッとしないような印象もうけるような、そんな色だ。

「その色はね、『アクアグレイ』っていうの。ちょっとグレーがかった青だけど、水色っぽくも見えるし、青緑っぽくも見える。いろんな可能性を秘めた色だよ」

先輩はそう言って、優しく笑った。先輩が、この絵に込めた想いは、すべてはわからない。けれど、先輩が贈ってくれたこの作品を、エールと捉えたっていいだろう。

「先輩、ありがとうございます!この絵、宝物にします!」

「こちらこそ、あたしのワガママに付き合ってくれてありがと!成長した後輩の姿も見れたし、今日はなんか、不思議な一日だった!あたしもこの絵、大切にするね!」

「ありがとうございます!」

ふふふっ、という先輩の笑顔が、また私の胸を刺す。校舎の外は、体育館から出てきて、これから帰宅するであろう生徒達の声で溢れていた。そうだ。もう帰らなくちゃいけないんだ。

「先輩っ」

リュックサックを背負い、帰る準備を始めた先輩に、私は声をかけた。先輩は私の声に、小さく首を傾げた。

「先輩。もう少しだけ、付き合ってくれませんか……?」

外の喧騒にかき消されそうになる私の声は、小さく震えていた。顔が熱い。心臓の音が先輩に聞こえそうになるのを、制服のスカートをきゅっと握りしめて誤魔化した。

「ふふふっ。いいよ!どうしたの?」

「え!やったぁ!先輩、一緒に飲み物買いに行きませんか?帰るのは、それからにしましょうよ!」

なんだか無性に嬉しくて、私はつい矢継早に話してしまった。私の我儘が叶うなら、もう少し、もう少しだけ、先輩と一緒にいたい。

「うん、いいよ!一緒に行こ!」

私は、ありがとうございます、を言い終わらないうちに、先輩の手をとり、外の自動販売機まで駆け出した。走る必要なんてないのに。でも、その小さな白い手の温もりが、駆け出したくなるほどに私の胸をときめかせる。先輩は、なんてずるい人なんだろう。なんて、素敵な人なんだろう。



 きっとこのあと、私達は温かいココアでも買って、二人で近くのベンチにでも座ってそれを飲むのだろう。先輩は、美味しい!って、幸せそうにそれ飲むのだろう。そしてその笑顔を、私は永遠に忘れられないのだろう、きっと。

 だから、せめてもう少しだけ、この青く曖昧な時間の中で、貴女を独り占めさせてください、先輩。

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