第4話:物心付いたころから自分の生きてきた全日数の記憶を完全に思い出せる男女 ― 驚愕の“自伝的記憶力”

筆者は、小学校1年のときに体験したはずのことを一切覚えていない。絵の才能がありそうだということで一年くらいの間、絵の先生のところへ通わされていたのだが、その記憶が完全に欠落している。その1年のおかげで(何があったかは一切思い出せないが)、絵の才能らしきものは完全に失われた。そもそも自分が小学校1年のときに絵を習っていたという事実を知ったのは、30代に入ってからである。その事実を身内から偶然聞かされて知るまで、「確か自分は小学校に上がるまで何十枚も絵の賞状をもらっていたのに、どうして突如として絵が下手になったのだろうか」といつも不思議に思っていた。


何年の何月何日にどんなことがあったか――というタイプの記憶が実に苦手なのだ。ところが、日付を言われただけで、その日、自分が何をしていたか、世間ではどんなニュースが伝えられていたかを克明に思い出せる人がごく稀にいるらしく、米国カリフォルニア大学アーバイン校のジェームズ・マクゴー教授(神経生物学)が研究を進めている。


マクゴー教授が最初に注目したのは、カリフォルニア在住の40代半ばの女性。フルネームは明かされておらず、A.J.というイニシャルで呼ばれている。A.J.さんがマクゴー教授に送ったメールには、過去の日付を言われるだけで、その日の記憶がこんこんと湧き出してきて、映画のように再生されると書かれていた。


A.J.さんは、記憶が奔流のように蘇る現象を自分でも制御できないでいる。記憶が蘇り始めると、もう止めることはできず、疲れ果ててしまう。「天賦の才だと言わても、私にとっては重荷でしかありません。毎日のように、私のこれまでの人生が頭の中で再生されるのです。頭が変になってしまいそうです」


マクゴー教授らはA.J.さんを研究室に招き、一連の心理学テストを実施した。ランダムな日付を与えるだけで、A.J.さんは、その日が何曜日だったか、そしてその日に自分が何をしていたかをほぼ完璧に答えることができた。彼女が口頭で述べた記憶の詳細は、数十年前に彼女が書いた日記の記述と毎回一致していた。


マクゴー教授らがA.J.さんの記憶再生能力を詳しく調べた結果を学術誌“Neurocase”で発表したのは2006年のことだった。するとまもなく、エリック・ウィリアムズという名の男性から連絡があった。自分の兄ブラッド・ウィリアムズも、過去の日付を言われるだけで、その日に体験したことや世間で起きたことを克明に思い出す能力があるという。


ウィスコンシン州ラクロスでラジオのキャスターをしているブラッド・ウィリアムズさん(当時51歳)は、物心ついてから現在に至るまで、すべての日付の記憶を維持している。たとえば、1965年の8月18日に何があったかと尋ねてみれば、次のような答えが返ってくる。


- その日は、家族みんなで車に乗って、ミシガン州を旅していた。


- 途中でRed Barnハンバーガー店に立ち寄った。当時8歳だった自分もハンバーガーを1つ食べた。


- その日は水曜日だった。


- 夜は、ミシガン州クレアのモーテルに宿泊した。小屋みたいなモーテルだった。


自分の能力を自分で制御できず苦痛に思っているA.J.さんとは対照的に、ブラッドさんは自分の能力をポジティブに享受している。日付を言うだけで、その日にあったことを思い出すことのできるその能力は、いつもみんなを楽しませている。


しかし、2007年の夏以来、ブラッドさんをテストにかけているマクゴー教授らは、彼の記憶力が世界トップ・クラスであることを認めている。ブラッドさんは楽しげにテストを受けながら、驚くべき記憶再生能力を示す。


研究者たちが過去40年のうちからランダムな日付を選んで彼に告げると、ブラッドさんは宙を見つめて記憶の引き出しを探し始める。わずか数秒後、彼はすらすらと答え始める。その日に彼が何をしていたか、そしてその日世間で何が起こったかを。


1991年11月7日を提示されたときの答えは、こうだった。「確か、マジック・ジョンソンがHIVポジティブであることをカミングアウトした日ですね。曜日は木曜日。その前の週には、ここらで猛吹雪がありましたね」


「昔から、ずーっとこうでした」とブラッドさんは言う。「成長過程で特に自分が他人と違うと思うこともありませんでした」


ブラッドさんが自分の全人生の記憶を1日分たりとも忘れることなく維持できていて、簡単に思い出すことができる理由は、マクゴー教授にもまだわかっていない。「その理由がわかったら、ノーベル賞ものですよ」と教授は言う。


「まだわかっていないのです。今わかっているのは、ブラッドさんがこれらの情報を失わずに生きているという事実、これらの情報が詳細性に富んでいるという事実、そして、それらの情報が確かに彼の頭の中にあるという事実だけです。なぜ、彼の頭の中にこれらの情報が維持されているのかを我々は何としても突き止めたいのです」


過去の学術文献にも、類稀なる記憶力の持ち主に関する記述は多い。50個から100個のランダムな文字や数字を記憶できる人もいれば、330語のストーリーをたった2回読むだけで、1年後にその内容を一字一句たがえず読み上げることができる人もいる。


しかし、この手の記憶の達人は情報を意味のある情報として記憶しているわけではない。一方、ブラッドさんとA.J.さんの場合は、遠い過去の日付とその日の記憶を有意な情報として思い出す能力がずば抜けている。2人は類稀なる“自伝的記憶力”の持ち主なのだ。


「自伝的記憶力を有していると思われる被験者はほかにもいますが、この2人はどのテストにおいても、他の被験者より90パーセント以上も優れた成績を残しています」とマクゴー教授は言う。


マクゴー教授らが実施しているテストでは、被験者に個人的情報を思い出させるのだが、思い出した内容が正確であることを確認できなければならない。そこで、昔のスクラップブック、卒業アルバム、日記、その他の情報源から正しい回答があらかじめ確認できている質問を被験者にぶつける。本人に気づかれないように被験者の家族から情報を得ることもよくあるという。


また、世間を騒がせた出来事を最初に告げて、それが起きた日付を答えさせるテストと、ある日付を告げて、その日に世間で起きた出来事を答えさせるテストも含まれている。要するに、これらは被験者自身の体験とは無関係なテストである。


このタイプのテストの場合、ブラッドさんとA.J.さんの正答率は話題によってばらつきがあり、自分が興味を持っている分野の話題に関しては正答率が高かった。ブラッドさんの場合は、アカデミー賞の受賞者など、ポップカルチャー部門での正答率が高かったが、スポーツの場合は正答率が低かった。


51歳まで独身を貫いていたブラッドさんは、1990年に「ジェパディ」というクイズ番組に出演したことがある。そのとき惜しくも2位に終わったのだが、敗因は「ヘビ」が関係するカテゴリーの問題と“kh”で始まる単語の問題でしくじったせいだったという。


記憶を思い出す能力には、対象となる情報への関心度が大きな影響を及ぼす。このため、他の研究者の中には、ブラッドさんとA.J.さんの能力はさほど特殊なものではないと見る人もいる。


オハイオ州トレド大学の神経心理学者ステファン・クリストマン氏は、こう疑義を唱えている。「何もかも吸い込んでしまうほどの驚くべき記憶力だというのなら、物事に興味があるとかないとか関係ない能力のはずですよ」


A.J.さんは過去の体験に強迫観念的に取り付かれているだけではないか、というのがクリストマン氏の推測である。強迫観念的に過去のことを繰り返し追体験しているうちに、過去のどんな日のどんな出来事でも簡単に思い出せてしまうようになったのではないか、と。


ブラッドさんとA.J.さんの二人に匹敵する能力を持つ人が世界中にどれくらいいるかは、今のところはっきりしていない。マクゴー教授がA.J.さんの記憶力のテスト結果を発表した後、自分も同じ能力を持っている、あるいは同じ能力の持ち主を知っているという人たちから50件ほどの連絡があったという。


その中から、3番目の人物が浮上している。オハイオ州在住の50歳の男性だという。


ともあれ、このような“自伝的記憶力”が極度に優れた人たちもいれば、極度に劣る人たちもいる。冒頭に書いたように、筆者は紛れもなく後者である。やはり、キーとなるのは日付に違いあるまい。筆者など、今日が何月何日の何曜日かさえわかっていないことだって、しばしばある。ましてや、遠い過去の日付となると、もう完全にお手上げである。


日付というものに興味がないというより、締め切りに追われる仕事に長年忙殺されてきたことが悪影響を及ぼしているのかもしれない。本来なら、日付と日程を人一倍意識しなければならないわけだが、どうしても逃避したくなる。だから日付から目をそらそうとするのかもしれない。


逆に言えば、“自伝的記憶力”を身につけたい人は、これから毎日、日付を意識して暮らすとよいのかもしれない。日記をつけている人は、おのずと日付を意識して暮らしているだろう。上記のA.J.さんも、過去何十年にわたって毎日日記を付けることを欠かしていないという。(ブログも日記的に機能することがあるが、当ブログの場合は日記として機能していない)。


さて、冒頭に述べた小1で画家に師事したが何も覚えていなかった件、ジャニーズ問題がニュースになり始めたころ、よくわからない苛立ちとジャニー氏への嫌悪感に襲われた。指示した画家がどこの誰だったかは、両親共に没した今は確認のしようもないし、あの昭和時代は今では考えられない悪事も見逃されていた。


■ References:


Remember when? Man's amazing memory attracts interest from scientists


Total Recall: The woman who can't forget

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記憶にまつわる驚愕列伝【コラム】 ミッキー大槻 @miccckey

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