果たす約束〈光貴視点〉

「さあどうぞ、入って」

「お邪魔します……うわ、すごっ……」


 十数年ぶりに再会したのは、光貴こうきにとって兄のような存在の人だった。

 昔は彼を見上げていたけれど、今は光貴のほうが背が高い。いつの間にか、つむじを見下ろしてしまえるほどの身長差になっていた。


 栄田さかえだ のぞむ。二十九歳。職業は特殊清掃員。 


 あの日、教会で再会を果たしたあと、ふたりはすぐそばの定食屋に入った。せっかくの再会だったが、顔色の悪い望にすぐにでも温かい食事をとって欲しくて、手近な店に入ったのだ。


 そこで光貴は、望からたくさん話を聞いた。自分と離れているあいだ、望がどんなに苦労したかということを——……。


 裕福な家庭に引き取られた光貴とは違い、望は十八歳まで施設で過ごし、そこから一人暮らしを始めたという。

 進学という選択肢は、望にはなかったらしい。高校の成績はさほどよくなかったし、なにしろ大学に進むにはありえないほど金がかかる。


 だから高卒ですぐに仕事を探したけれど、見つかる仕事はどれもハードな割に時給が安く、身体の弱い望は長く仕事を続けることができなかった。


 今は特殊清掃の仕事に就いている望だ。

「できればずっとこの仕事を続けていたい」と疲れた顔で、うつろに微笑む望の姿は、光貴の目にひどく痛ましく映った。


 小柄で痩せた身体に、少し肩幅の大きすぎるスーツはあまり似合っていなかった。

 顔色は悪く猫背気味で、望は二十九歳とは思えないほどに老け込んで見えた。


 おまけに食も細い。……光貴はすごく不安になった。


 亡くなった人間の痕跡を消す仕事についているせいだろうか。望の全身からは、生気というものをほとんど感じないのだ。

 すでに向こう側の世界に片足を踏み込んでいるかのような儚さがあり、ほうっておいたらふらりとこの世からいなくなってしまいそうで、光貴はすごく怖くなった。


 仕事が忙しく、なかなか帰国することができなかった自分を呪った。

 もっと、早く帰ってくるべきだった。


 ——これ以上、のぞくんをひとりにするわけにはいかない。


 せっかく果たせた再会を無碍にしたくない。

 光貴は、行動を起こすことにした。



   +



「災難だったね。上の階からの水漏れなんて」


 コーヒーを淹れながら、ソファにちょこんと座っている望に声をかけた。

 ほんの数時間前、望から光貴のスマホに連絡が入ってきたのだ。


『上の階からの水漏れでしばらく家に帰れないんだ。数日でいいから泊めてくれないか?』と。


「ほんとだよ。上の人、しっかりしてそうな若者だったんだけど」

「まぁ、風呂を溢れさせることくらい誰にでもあることさ。のぞくんのアパートずいぶん古そうだったし、原状回復までかなり時間がかかりそうだね」

「うん、家賃が安くてありがたいんだけどね……。家具も畳もぐしょぐしょだったし、あれじゃ当分帰れそうにないよ。光貴がいてくれて助かった」


 最後のセリフに、どきどきと胸が高鳴る。

 望が、光貴の存在に感謝している。光貴がいてよかったと、思ってくれている。


 カップアンドソーサーを持つ手が震える。行儀の悪いことに、カチカチ……と微かな音がキッチンの中に響いているが、望に聞かれていないだろうか。


 だけど嬉しい。嬉しくて震えが止まらない。

 光貴は心の底から満面の笑みを浮かべ、震えを抑えた声で「……ほんと? よかった」と言った。


「それにしても、ほんとに俺……ここに居候していいわけ?」

「うん、もちろん! 一人じゃ広すぎるしね」


 社からあてがわれたマンションの一室に、望がいる。

 エントランスで固まっていた望を、光貴は部屋へ連れ帰ってきたところだった。


 望は白い大理石でできた玄関を恐々としつつゆっくりと歩き、広いリビングを見渡してため息をついていた。

 壁いっぱいの窓から見えるのは、地上35階の都会の夜景。望は窓のほうへと駆け寄り、「わぁ……すごい」と嘆息を漏らしていた。


 夜景を堪能し終えたらしい望は、小さなボストンバッグを抱きしめたままソファに浅く腰掛け、現実感のないような表情でこう尋ねてきた。


「それにしても光貴。お前、どんな仕事をしてるんだ? こんなすごい部屋に住めるなんて……」

「経営コンサルだよ。本社はニューヨークなんだけど、今回ようやく希望が通って日本支社に異動になったんだ」

「経営コンサル? しかも外資系……?」


 コンサルタント、という言葉を聞いたことはあるけれど、いまいち何をやっているのかわからない——といった顔をしている望のためのコーヒーをテーブルに置き、光貴は微笑みながら簡単に説明をした。


「まず、問題を抱えた企業の経営状況を分析して問題点を見つける。どうすればうまくいくかってことを考えて、アドバイスするのが仕事」

「へぇ……すごいな、難しそう」

「難しくはあるけど、すごくやりがいのある仕事だよ。関わった企業の業績が伸びれば僕も嬉しいし、クライエントとの一体感も感じられるからね。ハードだけど楽しいんだ」

「そうなんだ」

「まぁ、なかなか成果が出ない時は多少苦しいかな。忙しい時はほとんど家に帰れないし」

「へぇ~、すごいんだなぁ、光貴は! 海外でバリバリ働いて、こんな部屋に住まわせてもらってさ。変な話だけど、俺まですごく誇らしいよ」

「っ……」


 翳っていた望の瞳が、輝いている。


 光貴の存在を誇らしく感じてくれている。光貴の頑張りを認めてくれている——……嬉しくて嬉しくて、たまらない。


「……ありがとう。全部、のぞくんのおかげだよ」

「ええ? 俺、なにもやってないよ」

「そんなことないさ。……ほら、冷めないうちにどうぞ」

「うん、ありがとう。ああ……いい香りだ」


 望の隣に腰を下ろし、光貴は震える手をぎゅっと握りしめて唇を引き結び、目の奥に熱さを感じながらにっこりと笑った。



 ——「ぜったいにまた会おうね。りっぱなおとなになるからね」



 里親に引き取られる日、光貴は望にそう約束した。


 ふたりは、同じ施設で幼少期を過ごしていた。

 物心ついた頃から、光貴のそばには望がいた。望はいつも優しくて、幼く小さな光貴を守ってくれる存在だった。


 光貴を庇護したところでなんのメリットもないだろうに、光貴を小突いて笑い物にしようとする悪ガキどもからかばってくれた。

 無口で無表情な光貴を気味悪がって意地悪をしてくる女の子たちを、毅然とした態度で制止してくれた。


 目の前に立つ背中は大きくて、頼もしくて、光貴はすぐに望のことが大好きになった。


 望と一緒に遊んでいたら、自然と笑えるようになっていった。

 何の味もしなかった食べ物を美味しいと感じることができるようになり、プール遊びの水を気持ちがいいと思えるようになった。


 桜の花、青々とした緑のきらめき。

 茹だるような夏の夜に閃く花火のまばゆさ、光貴の手のひらと同じ大きさの紅葉の鮮やかな朱色。

 園庭に積もった雪の冷たさとはうらはらに、大きな大きな雪だるまを、つくったときは真冬なのに汗が吹き出す。


 優しい笑顔とともに、いろんな感覚を光貴に教えてくれた人だった。


 ある意味、光貴という人間をこの世に生み出してくれた人といってもいいと思う。

 望がいなければ、光貴は人としての心を持つことはできなかっただろう。


 望に、この恩を返せるだろうか?

 大人になって、もし望の身に何かあったとき、彼を守れるだけの力が欲しいと光貴は願った。


 そのためには、光貴自身が立派な大人にならねばならない。立派な大人になるために、どうすればいいのだろう。


 必死に考えて考えて、ふと、閃くものがあった。


 裕福で、教育熱心な家庭に引き取られればいい——……幼い光貴は、そう考えた。


 人生に勝てる人間には財力があり、知力がある。

 そしてそれを得るためには、人生の早いうちからあらゆる教育を受けるのが手っ取り早い。そのためには、ある程度優秀な保護者を得なければならない。


 光貴が示した関心ごとに寄り添い、喜んで金を出してくれる大人が必要だ。


 親ガチャという言葉があるように、子どもは生まれてくる親元を選べない。だが、幸いにも光貴は孤児だ。光貴は光貴の意思で、親を選ぶことができる立場にある。


 施設にいる子どもたちの中で、光貴は群を抜いて愛らしかった。

 小柄で、端整な顔かたちをした小さな光貴を、引き取りたいと願い出る大人たちはたくさんいた。


 引き取られた先でうまくやっていけるかどうか、里親と相性がいいかどうかをみるために、まずは”お試し”として一緒に住んでみることになっている。

 期間は最長で一か月程度。ひと月もあれば、その家の経済状況や里親たちの人となりを理解するには十分な時間があった。


 里親について知りたいことはシンプルだ。

 光貴をすぐれた人間に育て上げることができるだけの経済力と、教育熱心さをもっているかどうか。それだけ。

 かわいそうな孤児を引き取って、愛情たっぷりに育ててあげたい——……甘ったるい戯言を口にして、光貴をぬいぐるみのように可愛がろうとするような里親には用はない。


 将来の光貴に対する投資を惜しまない熱心な保護者。光貴はそれが欲しかった。


 ただ、光貴は愛らしかったから、よこしまな下心をもって光貴を引き取ろうとする大人もいた。

 風呂場で身体を撫で回されたり、「寂しいだろうから一緒に寝てあげよう」といってベッドに潜り込み、生暖かい吐息を吹きかけられたりすることもたびたびあった。

 不快ではあったが、光貴が望む環境を与えてくれるのならば、多少の人格的破綻には目を瞑ろうと思っていた。


 だがその手の里親はすべて、光貴の望む保護者になりえなかった。彼らは、光貴が賢くなることを一切望まないからだ。


 施設育ちの5、6歳の子どもに告発される気分はどうだっただろう。防犯のためにと施設から貸与されたキッズケータイで、光貴はそれらの現場をすべて録画しておいたのだった。


 見切りをつけた変態どもの家からは早々に退散し、光貴は尊敬していた女性施設長に泣きついた。気持ち悪かった、怖かったと訴えれば、施設長はすぐにしかるべき対応をとってくれた。


 そうして光貴は里親を徹底的に選別し、この人生を手に入れたのだ。


 擦り切れるほどに繰り返し読んだ揃いの絵本をお守りにして、望のために努力を重ねてきた。


 絵本の中に望を探す日々は、もう終わりだ。


「のぞくん、ずっとここいてくれてもいいんだよ? 部屋も余ってるし」

「いや、でもそれはさすがに悪いって。光貴が恋人を連れてこようと思ったときに、俺がいたら面倒だろ?」


 望はそう言って、ちょっと自虐的な笑みを浮かべた。光貴はすかさず首を振る。


「まずはこっちの仕事に精を出さなきゃいけないし、恋人なんて作ってる余裕ないよ。それに久々の日本で僕も心細いんだ。のぞくんがいてくれると安心できる」

「そ、そうか……?」

「ね? だからしばらく、ここにいてほしいな」


 つい、年甲斐もなく懇願してしまった。

 二十七歳の男にこんなことを言われて喜ぶ男はいないだろうが、望は戸惑いがちだった表情をふと緩めて、にっこり優しく笑ってくれた。


「……わかったよ」

「ありがとう! ああ……嬉しいな、のぞくんとまた一緒に暮らせるなんて」

「ふふ、そうか? そんなことを言ってくれるのは、光貴だけだよ」


 しかも、ポンと頭を撫でてくれた。


 望の軽い手のひらが、光貴の頭を撫でている。

 その感触があまりにもくすぐったくて、むずがゆくて、嬉しくて、幸せで……全身がぶるりと震え上がった。


 ——のぞくんが撫でてくれた……! 小さい頃みたいに、あの頃みたいに……!!


 感涙が溢れ出しそうになるが、光貴は必死でそれを堪えた。


 これからは望とふたり暮らしだ。朝起きたら望がいて、仕事から疲れて帰ってきても望がいてくれる。


 料理は得意だから、望のために美味しいものをたくさんたくさん作りたい。痩せた身体がもっとふっくらするように、顔色が良くなるように、栄養満点の食事をたっぷりと作ってあげたい。


 そうすれば、望はもっと明るく笑ってくれるようになるに違いない。

 施設で過ごした、あの幼い頃のように——……!


 歓喜に打ち震える光貴に向かっていた優しい笑顔が、ふと我に返ったように微かに薄れた。


 望は不思議そうな顔をして、こんなことを口にした。


「ところで……光貴って、どうして俺が古いアパートに住んでるって知ってたんだ?」

「え?」

「それに俺、上の階の人が風呂を溢れさせたってこと、話したっけ?」


 疑問を抱く望を見つめ、光貴はまろやかに微笑んだ。


 その瞳には、ひとひらの動揺さえ浮かんではいなかった。





 了

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絵本の約束 杏たま @antamarion

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