絵本の約束
杏たま
絵本の約束
讃美歌が聞こえる。
見上げた先には、白い十字架。
背の高い石造りの教会が、夜空の下に悠然とそびえている。
控えめなライトアップで白く浮き上がる教会の前に佇む
そして、今年のミサが最後であること。年明けには、この教会が取り壊されることが控えめに書かれていた。
「……やっぱり、なくなるんだ。ここ」
小さく呟きとともに、吐息が白く煙る。
ここは、クリスマスの時期になると思い出す場所だ。毎年、かつての記憶を手繰り寄せるように通っていた教会である。
脳裡に浮かぶのは、小さな膝の上で開かれた綺麗な絵本。その向かいでは、もう一冊、よく似たタッチで描かれた絵本が開かれている。
——のぞくんのが冬の絵で、ぼくのは春の絵だね。
望の小さな膝の上にあるのは、今、目の前に建つ教会とよく似た教会の絵だった。
ふんわりとした、やわらかなタッチ。鮮やかな群青色の空にふわふわと白い綿雪が舞い、教会の屋根は柔らかそうな雪が積もっている。
教会のそばではカラフルなセーターやニット帽を身につけた子どもたちが駆けまわり、赤いマフラーを巻かれた雪だるまが並んでいた。
そして、向かいにいる少年——
雪のかわりに桜の花弁が華やかに舞い、空は淡いブルーで塗られている。教会のそばで遊ぶ子どもたちは軽装になり、雪だるまのかわりに菜の花が咲き乱れる。
冬の絵からは冴えた寒風を感じたし、春の絵にはうららかな花の匂いが漂うようだった。
ふたりは、その絵本を——特に、季節違いの教会の絵を特に気に入っていた。絵本に描かれた教会は、望たちの住む施設に併設された教会に瓜二つ。まるで自分たちが絵本の中から飛び出してきたように思えて、わくわくした。
もういちど教会を見上げる。
ここにはかつて、望が幼少期を過ごした児童養護施設が併設されていた。
設備の老朽化にともない、施設は隣町に移転となり、教会だけがここに残された。地域の人々が集う場所として利用されてきたらしいが、徐々に維持費を捻出することが困難になり、とうとう取り壊されてしまうという。
——結局、会えずじまいだったな。
+
贈られてきた善意のクリスマスプレゼントを、施設で暮らす子どもたちで分け合った。
七歳だった望が「おれ、これにする」と手にした絵本を見て、望よりも二つ年下の
おとなしい望に、光貴はなぜだかとても懐いていた。よちよち歩きの頃から、いつも後ろをくっついて回る光貴のことを、まるで本当の弟のように可愛がっていた。
光貴は、色素の薄い髪と白い肌が目を惹く子どもだった。
聡い上に素直で愛らしく、幼くして容姿も端整だった光貴を引き取りたいという大人はたくさんいて、時折”お試し”という名目で里親の家に仮住まいしにいくことがあった。
だが”お試し”はその都度失敗し、光貴は施設に——望のそばに戻ってきた。
あとから聞いたところによると、里親の家に行くやいなや家のものを壊して暴れたり、わがままを言って里親を困らせてしまうらしい。
まだ幼く情緒が不安定なのだろうという理由で再び施設に戻ってくると、光貴はケロッとしていつもの可愛い光貴に戻る。そしてまた、望のあとをくっついて回るのだ。
だが光貴は小学校に上がる頃、とうとうとある里親に引き取られていった。
地元の有力者の家系で家柄も確か。ただ、肉体的な理由で子どもを持てない若い夫婦の子どもに、光貴はなった。
その時も、てっきりすぐ施設に戻ってくると思っていた。だが光貴は大きな目に涙をいっぱいに溜めて望の手をぎゅっと握りしめ、「ぜったいにまた会おうね。りっぱなおとなになるからね」と、強い決意を口にした。
しばらくは手紙のやり取りをしていたけれど、光貴の家族が海外に引っ越すことになって以降は連絡が途絶え——……二十年の月日が経った。
疲れた身体に冷気がこたえる。
くたびれたスーツにマフラーだけという格好ではさすがに耐えられなくなってきた。
——立派な大人、か。……俺は立派からはほど遠いな……。
ふと記憶の片隅に蘇った思い出に、自嘲の笑みを浮かべる。
施設出身で、高卒の望がありつける仕事は限られている。身体もそう強いほうではない望は、今は小さな清掃会社で働いている。
ここ最近は特殊清掃の依頼が多い。
特殊清掃とは、人が亡くなった家を掃除する仕事だ。誰にも看取られず、静かに朽ちた人間の痕跡を消していくことが、今の望の主な仕事だった。
冬場はまだ救いがあるが、夏場の遺体はかなりひどい。
生命を維持できなくなった肉体は腐敗し、溶けて崩れてゆく。床や畳に染みついた体液の痕を特殊な薬剤で洗い流し、消してゆく作業は、決して楽なものではない。
だが不思議と嫌悪感はない。むしろ望は、そこで亡くなった人たちに親近感すら覚えていた。
いつか自分もこうなるのだとわかっているからだろうか。遺品を整理しながら、ひっそりと生き、ひっそりと消えていった人の人生の端々を感じるたび、この人たちこそが自分の未来だと感じるのだ。
今を生きている人々よりもむしろ、亡くなった人たちを親しく感じる——……それは、ひょっとしたら普通ではないのことなのかもしれない。
だが、特に目的も希望もなく、漂うように日々を生きることしかできない望の目に、彼らの最期の姿は自分のそれと重なるのだった。
建て付けの悪いドアを押し開け、教会の中へ滑り込む。
揃いの白いワンピースに身を包んだ少年少女たちの歌声が、静謐な空間の中に美しく響いていた。
低く控えめなオルガンの音。指揮をとる神父の背後姿。そこここに灯された蝋燭の光。
教会の前方に鎮座した厳かな祭壇には、亡くなったイエスキリストを抱く聖母マリアの像がある。橙色の炎に照らされ、白い彫像はほんのりとあたたかな色に染まっているそれは、まるで生きてこの場にいるかのように見えた。
物悲しいメロディを儚げな声で歌い上げる子どもたちを眺めながら、物音を立てないようにベンチに腰を下ろした。望以外、彼らの歌に耳を傾けるものはいない。
もうすぐ、彼らもこの場で歌う機会を失うのだ。
望は傍に置いた薄い鞄から、擦り切れた絵本を取り出した。光貴がいなくなったあとも、何度も何度もページをめくった懐かしい絵本だ。
もはや施設は移転し、ここにはない。教会さえも、あと数週間のうちに取り壊される。
思い出の場所も、かつての家も、すべて消えていってしまう。
そうしたら、望はなにをよすがにして生きればいいのだろう。
孤独が骨身に染みて、涙が込み上げてきそうになる。
いい歳をした男が、こんなところで泣いていていいわけがない。望はぎゅっと唇を引き結び、膝の上に広げた教会の絵を指先でそっと撫でた。
冷たい指先に、さらりとした絵本の感触が懐かしい。
——寂しいな……。もし戻れるんなら、あの頃に戻りたいよ。
そのとき、微かな物音がした。
通路を挟んだ隣のベンチに、誰かがすっと腰を下ろした。
ふわりと香るのは、上質そうな香水の匂い。嗅いだこともないはずのその香りにふと郷愁をくすぐられた望は、なにげなく隣に座る人物のほうへ目をやった。
——……え?
背の高い、身なりのいい男がいる。
見るからに柔らかく、あたたかそうな黒いコートに身を包んだ若い男だ。
清潔に整えられた淡い栗色の髪、西洋人と見紛う白い肌。形よく整った綺麗な鼻筋に、輝きを湛えたアーモンド型の凛々しい双眸に、ふと、かつての記憶が重なった。
「……光貴?」
名を呼ばれたことに驚くでもなく、男はゆっくりとこちらを向いて微笑んだ。
そして黒い革手袋の嵌められた手で、あの春の絵本を、そっと持ち上げて見せる。
望は絵本と男の顔を交互に見比べ、椅子の上で後ずさった。
そこにいるのはまぎれもなく、幼い頃に離れ離れになった弟のような存在。
光貴だ。
「こっ……こんなところで、何を……っ」
聞きたいことは山のようにあるのに、まず口から飛び出したのは情けない震え声だった。
すると光貴は目を細め、うっとりするような優しい笑顔を望に向けた。
こんなふうに誰かに笑いかけてもらえるなんていつぶりだろう。ぐっと胸がつかえ、堪えていた涙が溢れそうになり、あわてて拳で目元を拭った。
「ただいま、のぞくん」
低くなった声は、甘い響きをともなって望の鼓膜を震わせる。光貴はすっと腰を上げ、望の隣に座した。
「やっと帰ってこれたよ」
「や……やっぱり、光貴だ。光貴なんだよな」
「そうだよ。ずっと海外にいたから、なかなか会いに来れなくて、ごめんね」
小さかった光貴を、今は望が見上げている。
淡い栗色の瞳が燭台の灯りを溶かし込んで、まろやかに輝いた。
ひとづてにこの教会が取り壊されると聞いて、いてもたってもいられなくなったらしい。無理やり休みをもぎ取って一時帰国した光貴は、なんとこの教会を買い取ったという……。
突然の再会な上に情報が多すぎて、処理が追いつかない。
ぽかんとしている望を見つめて、光貴は少しはにかむように微笑んだ。
「あとね、来年からは日本で仕事をすることになったんだ。久々の故郷だ、嬉しいよ」
「そ、そうか。……よかった、そうなんだな」
大事な友人が、弟のようだった存在が戻ってきてくれた喜びと安堵感が、こわばっていた望の表情を溶かしてゆく。
とはいえ、うまく笑顔が作れない。だが、よううやくここに帰ってきた光貴に笑顔を返したい。
最後に笑ったのがいつだったかも思い出せないくらい久しぶりに、望は精一杯口角を上げ、ぎこちなく微笑んだ。
「お……おかえり、光貴」
「ただいま、のぞくん。これからはずっと一緒にいられるね」
とろけるように甘い笑顔を浮かべる光貴の瞳に揺らめく妖しい光に、望はまだ気づかない。
冴えた月が浮かぶ聖夜の空に、教会の鐘が鳴り響く。
了
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