思い出のシュガートースト

miobott

思い出のシュガートースト

 父の四十九日が終わったのは、嫌味なくらい晴れた冬の日のことだった。


「ああ疲れた」

「ああ、ほんまにね」

 思わずため息を漏らすと、隣の母もつられたように肩を鳴らす。

「四十九日終わってホッとしたんかな。一気に疲れが出たわ」

 父の体に病が見つかったのは10年前のことだ。

 最期の半年は植物が終わりを迎えるように、ゆっくりと萎れていった。

 幸いだったのは、父があまり苦しまなかったことだろう。そんな父の強さに助けられ、私と母は少しずつ覚悟を積み重ねていった。

 さすがに最期の日は堪えたが、葬儀から四十九日までの期間といえばまるで毎日が50メートルダッシュのような忙しさである。

 しかし、これもまた終わってしまえば呆気ない。

 全てを終わらせたその足で、私達は父が最後に勤めた会社に向かっていた。


「なあお母さん、ほんまに今から行くの?」

 早足で進む母に向かって、私はつい小言をこぼす。

 歩みが重くなった私に気づいたか、母がため息交じりに振り返った。

「こういったことはね、早いほうがええの。不義理してると思われたらお父さんに申し訳ないでしょ」

 父が勤めていた会社にお礼がてらお菓子を持っていく……と、母が言い出したのは昨日のこと。

 数年前に退職済みで、すでに縁もゆかりもないというのに、会社は花や弔電を贈ってくれたのである。

 当然、お返しはすべきだ……しかし。

「なにも四十九日が終わった足で行くことないやろ、向こうも気い遣うし」

 郵送でもいいだろう、と説得したが昔気質の母は聞く耳も持たない。

 言い出したらきかない母に急かされて、私は久々に淀屋橋へ降り立った。

 駅をあがってすぐ見える土佐堀川には、昭和初期に作られたアーチ型の橋がかかっている。

 この橋の名前が淀屋橋。駅の名前の由来だ……と、父は何度も教えてくれた。

 かつては問屋などが多く並んだ商売の町だ。そしてその精神は形を変えて現代に息づいている。

 今でもスーツ姿の男女が忙しそうに行き交う、大阪随一のビジネス街だ。

 これまでの人生の全てをミナミで済ませてきた私は、キタのシャンとした空気に気圧された。

 空気だけではない。自分たちの恰好がこの町では異質だ……同じ黒でもスーツの黒と喪服の黒は異なる。

 漆黒を抜き出したような喪服に身を包んだ母と私。そして私の娘の3人はスーツ集団から逃れるように、こそこそと細道に隠れる。

「いやわぁ、喪服目立つんやもん」

「せやから。日を改めよって言うたのに」

 母が漏らした愚痴に言い返すと、彼女は小さな目をとがらせた。

「何よ。お寺さんから淀屋橋まで電車で一本やし。それに今から家の片付けやらお墓のことやら忙しいんやから」

「お母さんも婆ちゃんも喧嘩せんといてよ、恥ずかしい」

 私と母の間に腕を差し込んだのは、今年中学1年になった娘のアヤカ。彼女はスマホを手から離さないまま私と母を睨む。

「お腹すいてるからイライラしてんちゃうの。なんか食べたら」 

「あら……ほんま。なあちゃん。私、お腹すいたわ」

「……私も」

 中学生の娘に諭されて、私たちはぽかんと目を合わせた。

 腕時計の時刻は16時。昼食にも夕食にも微妙な時刻だ。

 思えば今日一日、お給仕に忙殺されて、口にしたのは、ホットコーヒー、巻き寿司3つにグラスビールを一杯だけ。

「なあちゃん。そこの喫茶店でええかな。ぱっと食べて、それからお礼にいこか。もう会社さん、すぐそこやし」

 と、母が指さしたのは、道むかいの店である。

 まず見えたのは緑にオレンジ色で縁取られた雨よけだ。カフェオーニングと呼ばれるそこにはリスボンという文字が刻まれている。

 まるで大理石のような壁にはステンドグラスがはめ込まれ、木の扉の向こうに温かい色が見えた。

 それは闇にぽつりとともる蝋燭の色によく似ている。

「いらっしゃいませ」

 店内に入るとコーヒーの良い香りと、湿ったような暖かさが私達を迎えてくれた。

 店員に案内されたのは窓際の席だ。赤いシートの椅子に腰を下ろすと足にじんわりとしびれが広がった。

 ……ああ、なるほど疲れていたのだな。と私は初めて気がつく。

 思えば、父の死から四十九日の今日までずっと気を張っていた。

「あれ? 私、ここに来たことあるわ」

 少し落ち着いて店内を見渡し、私はふと思い出す。

 うるさすぎず、静かすぎない店内には、心地よい雑音が響いていた。

 打ち合わせ中らしいスーツの男性3名。一人で珈琲をすする女性客。

 近所の人なのか、新聞を広げる野球帽のお爺さん、手元で鳴り響く小さなラジオの音。

 その風景は、遠い記憶を揺り起こした。

 そうだ。私はここを知っている。

「だってこの店、お父ちゃんの行きつけやもん」

 母はお手拭きで手を拭いながら平然と言う。そして注文を取りに来た店員さんに、勝手にメニューを告げた。

「えっと。バタートースト3つ、ホット2つ。あやちゃんはミックスジュース。ミルクはいらんから、砂糖だけつけてね。はいはいよろしく」

 母は言いながら運ばれてきた水に手を伸ばす。一つを私の前に、一つをアヤカの前に。そしてもう一つの水を自分の左側に置きかけ……止める。

 左側は父の定位置だ。

 テーブル席でもカウンターでも、彼の定位置は母の左側。だから母はいつも右の席に座るし、左ばかりを気にして生きてきた。

「お母さん……」

「おまたせです」

 私の声は、店員さんの声に塞がれた。

 きゅっと唇を閉じている間に、テーブルには次々とお皿が並ぶ。

 机に置かれたのは、コーヒー2つにクリーム色のミックスジュース。そして湯気を上げるきつね色のバタートースト。

 それを見て、私の腹がぐうっと大きな音をたてた。

「まあ、とりあえず頂こう。お腹ぺこちゃんやと、何もできんでしょ」

 母に促され、私は焼き立てトーストに手を伸ばす。

 トーストは分厚い。斜めに切られたそれは、少しだけずらして皿に置かれていた。

(関西のトーストは東京より分厚いって聞いたことあるけど、なんでやろ)

 縁まで黄金色に焼かれたトーストの上には、バターのかけらがこびりついて輝いている。

 それを見て、私と母は自然な動作でコーヒーについていたシュガースティックを破いていた。

 そして、何の迷いもなく砂糖をパンの上にそっとかける。

 さらさらと落ちる砂糖は、トーストのバターに蕩けてきらきらと輝いた。

 自分でやったくせに、母も私も驚くように目を丸める。

 そして二人、目を合わせて同時に呟いた。

「……バターシュガートースト」

 それは父がいつも好んで食べたやり方だ。アラレのように輝く砂糖を見て、私の記憶が渦を巻くように蘇った。

 クラシカルな音楽が流れる店内、人のささやき声、熱々の分厚いトースト、バターの黄金の色、父が破く、シュガースティックの音。

 父は仕事の合間に、よくこの店へ連れてきてくれた。父は営業の管理職で時間なんてなかったはずなのに。

 忘れ物の書類を届けに行った日も、大学の合格を知らせにいった日も……夫と結婚したいのだと伝えにいった日も。

 仕事人間の父と会うのは決まって喫茶店だった。

 そして父はいつもバタートーストを頼んで、必ず砂糖をかけて言うのだ。

 こんな風にしたら、うまいんや。

「いや……何なん。やめてよ恥ずかしい」

 ……やめてよ、恥ずかしい。自分の幼い声が耳の奥に蘇った。

「え?」

 はっと顔を上げると娘のアヤカが本気で嫌がるように目をとがらせている。信じられないものをみた、という顔で私たちのトーストを睨んでいるのだ。

「お母さんも婆ちゃんも。それさあ、コーヒーのお砂糖やん。なんでパンにかけるん、見てよ。周りにそんなんしてる人、誰もおらんやん」

 その目を見て私は思わず吹き出した。笑いは伝染し、母も笑い出す。

 幼かった私も、かつて父の前で同じ言葉を口にしたのだ。

 若い頃の私からすると、砂糖をパンにまぶした父が異質に見えたのだ。

 誰もそんなことをしてないのに、信じられない。私はそう言って父相手に本気で怒ったのだ。

 確かその後、私は父としばらく口をきかなかったと記憶している。

「なんなん……もう」

 アヤカは怒ったのか、頬を膨らませたままパンにかじりついた。ご丁寧に体ごと、斜めに傾けて私達に対する怒りを表現している。 

 その恰好も、声も、姿も数十年前の私と全く同じ。

 あのとき、こんな私を見て父はどんな顔をしたのだろう。もう、記憶にもないが。

「……こんな風にしたら、うまいのになあ」

 母は、ぼんやりと呟いて、パンをかじる。私もそれを真似た。

 バターのしょっぱさの向こうに、じゃりりとした砂糖の甘みが続く。

「あったかい炭水化物に、バターに、甘い甘いお砂糖、か」

 母がふふ、と笑う。

 こんな組み合わせ、不味くなるはずがないのだ。

 父はきっと私の反抗をみて苦笑したに違いない。いつかこのうまさが分かるさと、心の中でせせら笑って。

 そして私もアヤカの反抗に対して、そんなふうに思っている……いつかきっと、彼女もこの美味しさに気づくだろう、と。

「もう、お父さん、おらへんのやなあ」

 母は小さくなっていくシュガートーストをかじりながら、ぼんやりつぶやく。

 ガラスの向こうに広がる道を見ると、スーツ姿の人々が忙しそうに通り過ぎていく。

 そして喫茶店には新しい客が入店し、食べて、飲んで、去っていく。

 驚くくらい代わり映えのない平凡な日常だ。もう何十年も前に、私が父とここで見た風景と全く同じ。

 ただ父が消えただけだ。

 父は消え、それでも世界は回っている。

「おらへんなって、しもうたんやなあ」

 そうやねえ。と言いかけた私の目から一筋だけ涙がこぼれた。

 それは嫌味なほどに晴れ上がった日。

 シュガートーストを食べていた父はもう、遥か遠く遠く空のどこかへ去っていった。

 喫茶店の思い出と、代々受け継がれるであろう味だけ遺して。

 それは、これ以上ない幸せの遺産だ。と私はそう思った。

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