雪の密室
櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)
雪の密室
明治の半ば。
雪深い山奥に唐突に存在している豪奢なホテルでは、暖かい暖炉の前で客たちが談笑していた。
「環さま、今回の博覧会に行かれました?
電車って、あのようなものなのですね。
私、初めて見ましたわ」
「……ええ、私も初めて見ましたわ」
春に、夫に内国勧業博覧会に連れていってもらったのだ。
大変な人出で疲れはしたが。
珍しい物もあり、面白かった。
「ずらりとつづく万国旗と提灯を見ているだけで、なんだかワクワクしましたわね」
上品に微笑む環を見て、明義の近くにいた紳士が微笑んで言う。
「ほんとうに可愛らしい方ですね」
明義は妻を褒められ、ちょっと嬉しそうだった。
だが、その和やかな空間に、ホテルのボーイが駆け込んできた。
「大変ですっ。
雪で吊り橋が落ちましてっ。
我々は、このホテルに閉じ込められてしまったようなのですっ」
まあっ、とご婦人方が声を上げる。
「大変ですこと」
とみな口々に言っているが、やんごとなき方々の間には、あまり緊張感はなかった。
いつでも、どんなときでも。
誰かがなにかをいいようにして、どうにかなってきたからだろう。
だが、環は口元に閉じたレースの扇を持っていき、呟く。
「これは、まるで……
あれですわね」
どれですわね? とみんながこの愛らしき伯爵夫人を見る。
「雪山に閉じ込められて、次々と人が殺される。
クローズ・ド・サークル!」
環は思わず立ち上がっていた。
「まあ、異国のお言葉」
「環さまは海外にお住まいの経験がおありなのでしたかしら?」
「え、ええ、少しだけ」
と環は微笑む。
「向こうで読みましたの。
そういうミステリ……
推理小説を」
「環さまは、ほんとうに博識でらっしゃるのね」
「環さまは、皇族の血をお引きでいらっしゃいますし」
と争いごとなど知らない人の良いご婦人方は環を誉めそやす。
彼女の中に、自分たちとは違うなにかを感じとっているようだった。
いや、ミステリーの知識と皇族の血、関係ないと思うけど、と思いながらも、環は言った。
「外界から隔絶され、閉ざされた雪山は、犯人にとって好都合、という謎解きのお話ですの」
ははは、と恰幅のいい紳士の一人が笑う。
「それは殺されるあてがある人間にとっては、確かに恐ろしい話ですな」
「そうですわね。
自分でここに来たわけではなく、誰かに招待された人など要注意ですわ」
全員がちょっとこの場には不似合いな書生姿の青年を振り返る。
青年は真っ青になっていた。
彼は商店街の福引で当たってここに来たらしい。
「心配なさらないで、私たちがついていますわ」
とご婦人方はやさしくその感じの良い青年に話しかけている。
客たちがうろたえないか、心配して駆けつけていた支配人が落ち着いた微笑みを浮かべて言った。
「大丈夫ですよ、皆様。
なにがあろうとも、このホテルが外界から閉ざされることはありません。
ここには電話も設置してございますし」
「まあ、電話が」
「こんな山の中なのに?」
「それは安心ですわね」
「環さまのところはもうありますの? 電話」
「うちもこの間つけたばかりで……」
と環が言いかけたとき、さっきのボーイがまた飛び込んできた。
「大変ですっ。
電話線が切れましたっ」
もうこのいろいろ言って飛び込んでくるボーイがなにかの犯人なのでは、という目でみな、純朴な青年を見る。
「これで灯りも切れたら」
「切れましたっ」
「
全員異様な緊張状態で朝を迎えた。
「朝ですわね。
雪もやんで、無事にみなさん帰れるようでよかったですわ」
朝食の席で環が言う。
昨日とは打って変わって良い天気だ。
朝の光が雪で反射し、食堂の大きなガラス窓から見える外を一層眩しく見せている。
雪が少し溶けたので、吊り橋を通るより時間はかかるが、山を回って駅まで出られるようになったのだ。
「……ほんとうに妻がお騒がせして申し訳ない」
と明義は客たちに詫びる。
だが、みんな楽しげだった。
「いやいや、普段味わえない緊張感があってなかなか面白い旅になりました」
紳士たちは笑い、ご婦人方は商店街でホテルの宿泊券が当たった青年をねぎらっていた。
「強く生きるのですよ」
「また命が狙われることがあったら、私たちを頼ってね」
「は、はい、ありがとうございます」
長逗留する者以外はホテルが出してくれた大型の車で帰ることになった。
環たちは自家用車が到着するまで待つ。
みんなと一緒に車で帰ろうとした書生風の青年、前田を環は呼び止めた。
「駅まで乗っていかれませんか?」
「え?」
いえそんな、とんでもない。
まあまあ、と二人は押し問答した挙句、前田は車に乗ってくれた。
「これが自家用車ですか」
と遠慮して助手席に乗った前田は物珍しげに中を見回している。
「ホテル、楽しかったですか?」
と環は微笑みかける。
「はあ、僕のようなものが物珍しいのか、皆様、やさしく。
今、職がないと言うと、仕事先まで紹介していただきまして」
それは、環の、あの人が狙われているかもしれません、という発言のせいもあるだろう。
あんな人が良さそうなのに、何故っ?
とご婦人方の同情を買ったようだった。
「よかったですね」
「……僕はちょっとお金持ちの方々に偏見があったかもしれません」
少し恥ずかしそうに前田は言った。
そのあと、しばらくお互いの住んでいる町の話などしていた。
「ああ、駅が見えてまいりましたわね」
と環が言ったとき、
「あの」
と意を決したように前田は環たちを振り返った。
「博識な環さま。
あなたにはすべてわかっておられたのではないですか?
僕は、あなたのおかげで、昨夜、何も事件を起こせませんでした。
環さまがいろいろとおっしゃるので、みんな警戒してしまって。
今日この日に復讐を果たそう――。
そう思い、あの場に臨んでいましたのに」
環さまはほんとうに賢いのですね、と前田は言う。
「僕が商店街のクジで当たったという理由をつけてあの場にいたことを利用し、あんな話をして、みんなに僕を監視させるとか」
背筋をしゃんと伸ばして座り直した彼は車の天井を見上げて言った。
「なんかもう吹っ切れました。
復讐とか莫迦莫迦しいですよね。
ありがとうございました、環様、伯爵」
彼が何度も頭を下げながら駅に向かうのを見ていた環に明義が言う。
「よくわかったな。
あいつが殺人を犯しそうだと」
「誰が見てもおかしかったですわ。
一般庶民には夢のようなホテルなのに、ずっと青ざめていて。
それでいて、ちゃんとみんなの歓談の場には出てくる。
普通だったら、怖気付いて、部屋でゆっくりしてますわ。
皆様、人がいいので、なにも気づかれなかったようですけれど」
あの落ち着きのなさは異常でしたわ、と環は言う。
「まあ、善人が悪人になるのは大変ですから」
どんな事情があるのか知らないが、彼にはこれらも善人のまま生きていって欲しいと環は思っていた。
「……誰にでも、なにがしかの秘密はありますわ。
私も――」
あなたに秘密があります、と環は夫を見つめた。
「お前がほんとうは私の許嫁の環ではないと言うことか」
「えっ?」
知っていた、と明義伯爵は溜息をつく。
「確かに見た目は似ているが、環はもっと気性が荒かった。
二、三度顔を合わせただけでもわかるほどに。
大方、金の力で偉そうな顔をしている伯爵程度の私とは結婚したくないと言って、家に閉じこもっているのだろう、ホンモノの公爵令嬢は」
「いいえ、環さまは真実の愛を見つけたとかで、飛び出して行かれたそうです。
私は拾われたんです。
環さまによく似ていたので」
結婚を控えていた娘がいなくなってしまい、須賀宮伯爵家から援助を受けていた公爵は慌てた。
そこで、たまたま見つけた環そっくりの娘に目をつけたのだ。
「……真実を話してしまったので、あなたの側にはもういられませんね」
そう環は言ったが、明義は窓の外を見ながら言う。
「家と家が結びついていると周りに見せることが大事なのだ。
ホンモノでもニセモノでも構わん」
「えっ」
「私は――
お前で良い」
と窓の外を見たまま、明義は言った。
「は、はいっ」
とニセの環は照れて、微笑んだ。
「旅行は楽しかったか?」
「はいっ」
「そうだ。
瀬戸内の穏やかな島にでも今度二人で行ってみるか」
だが、そんな夫の提案に環はハンケチを握りしめて言う。
「島は危険ですわ」
「は?」
「嵐が起こって、その島は孤島になるかもしれませんっ。
クローズ・ド・サークルですわ!」
「そ、そうか……」
と明義は言い、この愛らしい妻に呆れながらも、頷いてくれた。
いつかこの人にもうひとつの秘密を打ち明けよう。
自分は今よりずっと後の時代に暮らしていたミステリマニアであることを――。
そう思う環を乗せた車は静かに駅を後にした。
『雪の密室』完
雪の密室 櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん) @akito1
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