金では買えぬもの

寳田 タラバ

壺の中の幸運

 ファミレスのテーブルに頬杖をついて、僕は止めどない不幸話を垂れ流していた。彼女がテーブルに置いたバッグには見覚えのないロゴが入っていた。それをちらりと見た僕は、安物じゃなさそうだなと思っただけだった。彼女は相変わらず無表情で、それでも一応は耳を傾けている。僕は話を続ける。


 「昨日の夜さ、コンビニでカップ麺を買ったんだよ。でも帰ってきてお湯を注ごうとしたら、ガスコンロが壊れてるのに気づいたんだ。で、仕方なくレンジで温められるご飯だけ食べて寝たよ」

 僕は苦笑いを浮かべながら、彼女の反応を探る。彼女は首を少し傾けてメニューをとっただけだった。

 彼女がメニューに目をやる仕草はどこか機械的だった。まるで、ここで食事をするのは初めてだとでも言うように。


 「それから今日の昼。仕事帰りにおばあさんが荷物を落としたのを見つけてさ、拾ってあげたんだ。そしたら、ありがとうも言わずにいきなり荷物を僕に押し付けて、『家まで持ってきてくれ』って言うんだよ。断りきれなくて家まで運んだら、そこに飼い犬がいてさ、いきなり僕の足に噛みついてきたんだ。で、その後おばあさんが言ったんだよ、『あんたが急に来るから犬が怒ったじゃないか』って」


 少し誇張を交えたけど、ほとんどが事実だ。彼女は小さく息を吐いただけで、まだ特に反応はない。僕は少し焦って、さらに続ける。


 「あと、数日前に電車で席を譲ったんだ。目の前に妊婦さんっぽい人が立ってたから、当然だろ?でも、座った途端にその人、急に大声で泣き出してさ。他の乗客たちがみんな僕を睨むんだよ。後で聞いたら、その人、妊婦じゃなかったらしい。それどころか、自分の体型のことで他人に気を遣われるのがトラウマだったみたいでさ……」


 僕がその話をすると、彼女は一瞬だけ目を伏せた。まるで、何かを思い出したかのように


「これは数ヶ月前の話だけど、家の郵便受けに高級ホテルのチラシが入っててさ。このチラシのを受け取った方限定でディナー付きスイートへにご招待、って。でもそのホテルの部屋、全部ダミーで予約できなかったんだ。それなのに次の日、そのホテルの前で知らない人に『あんたに会いたかったんだよ!!』とか言われて追いかけられてさ、警察沙汰になったよ」



 僕は軽く頭を抱えながら言った。「なんで僕が悪いみたいになるんだろうな、こういうの」


 彼女は今度は少しだけ目を見開いた。その後、静かに息を吸って、僕をまっすぐに見つめた。


 「……あなた、どうしてそんなに笑って話せるの?」


 その問いは鋭いけれど、どこか温かさも含んでいた。僕は一瞬黙り込んで、どう答えるべきか考える。でも、思いつく言葉はたった一つだった。


 「慣れたんだよ、多分。あと、こういう話を聞いてくれる人がいるだけで、なんか救われる気がするんだ」


 彼女は静かに微笑んだ。その笑顔は美しいけれどどこか冷たくて、僕は目を逸らしたくなる。次の瞬間、彼女はその笑顔を崩さないまま言った。


 「もういいでしょう。今までよく我慢したわ。20万。現金のみね。そうすればあなたの階位はダイヤモンドになり、壺が贈呈されるわ。これを手に入れれば、あなたの人生は救われる」


 ファミレスのテーブルに置かれた木箱を見た瞬間、胸が熱くなった。ああ、これだ。これで、やっと――。


 「これが、かの壺よ」

 彼女は静かに言った。壺は意外と小さく、派手さのない地味な作りだったが、それが逆に神々しく見えた。


 「これさえあれば、僕は……僕の人生は……!」

 言葉が詰まる。声を出すたび、喉の奥が熱くなり、涙がこぼれそうだった。


 震える手でカバンを開ける。中には、僕がかき集めたすべてが詰まっている。まず取り出したのは、薄汚れた封筒。中には徹夜のバイトで積み上げた札束。次に、友人に頭を下げて借りた現金。その下には、家中の金目のものを売り払ったときに手にした小銭でぎっしり詰まった貯金箱。


 「これで……これで20万あります!」

 テーブルに広げたそれらを見つめながら、僕は胸を張るように言った。これが僕のすべてだ。これでようやく、僕も救われる。


 彼女は微笑んだ。いつもの無表情とは少し違う、わずかに興味を含んだ笑顔だった。彼女は封筒を手に取り、中身をちらりと確認すると、すぐに満足げに頷いた。貯金箱も迷いなくバッグに押し込む。その手際には一切の躊躇がなかった。


 「確かに、受け取りました」

 そう告げる声は、どこか冷たい。それでも僕は気にしなかった。彼女が壺を僕の手元に押し出してくる。


 「これで、あなたの人生は救われるわ。」


 僕は壺を両手で抱きしめ、喉の奥から感情が溢れ出した。

 「ありがとうございます……本当に、本当にありがとうございます!」


 僕は何度も礼を言いながら席を立った。壺を胸に抱え、出口へ向かう足取りは軽い。外の冷たい風が頬を打つが、心は暖かかった。


 ファミレスを出たとき、ふと見上げた空に星が瞬いているのが見えた。それは、まるで僕の未来そのもののようだった。


 それからの日々は、奇妙だった。最初の兆候はささやかなものだった。借金を申し出た友人たちのうち、一人が電話をかけてきた。出ると、意外な言葉が耳に飛び込んできた。


 「この前のこと、むしろありがとうな。おかげで助かったよ」


 頭を下げてお金を借りたはずの相手が、感謝の言葉を口にする。訳がわからない。でも、それが始まりだった。


 翌日、働いている職場で突然呼び出される。嫌な予感がして上司の前に立つと、彼は僕に書類を差し出してきた。目を通すと、それは正社員登用の通知だった。


 「君はずっと頑張ってくれていたからね。これからもよろしく頼むよ」


 そんな言葉を背中に浴びながら、呆然と席に戻った。僕の人生にこんなことが起きるなんて、ありえないはずだった。


 その日の帰り道、ふと街中で何かが目に入る。足元に落ちていた小さな紙片。拾い上げてみると、それは宝くじの券だった。なんとなく持ち帰り、翌日番号を調べると、それがなんと当選していた。高額ではなかったが、それでも十分に驚くべき出来事だ。不思議なのが、その額と、女性へ渡してきたお金がほぼ一致したことだ。そんなことあるもんだ。


 そこからは、信じられないほどの幸運が連続して訪れた。壺を買う前の僕を中心に漂っていた不運の靄が、まるで風に吹き払われたようだった。いや、それだけではない。今度は僕を中心にして、信じがたい幸運が波紋のように広がっているのだ。


 知人たちにまでその波が届いているようだった。遠方の親戚から、何年も前に投資していた株が急騰したという報告が舞い込む。幼馴染が仕事で大きなプロジェクトを任されたという噂を耳にする。どれもこれも、僕の周囲で起こる出来事に見えた。

 父と母?彼らは、僕がまだ幼い頃に死んでいる。事故だと聞かされていた。でも、あの女性が言うには、父は別に家庭があって実は母はその不倫相手だったと。

 彼女の話では、父は母に恨まれて刺され、母は自ら命を絶ったという。その話を語る彼女の顔ほど恐ろしいものを、僕は後にも先にも見たことがない。


 彼女との付き合いは、かなり長い。ファミレスの前で、僕が夕ご飯にありつけずに立ち尽くしていた時、声をかけてくれたのが彼女だ。僕の様子を見て、食事に連れてってくれて、さらに連絡先も教えてくれた。

 それからことあるごとに僕の前に現れ、僕がいかに不幸かを、時にはつまらなさそうに、時には目を輝かして聞いていた。僕はそれだけで満足だったが、彼女はそれを許さず、やはり僕にご飯をご馳走してくれるのだった。

 定職に就いた僕を今でもご飯に誘ってくれる。相変わらずの不幸話のマシンガントークをお見舞いしていた。彼女は時折、僕の話を聞きながら静かにたまに語り始めることがある。彼女の人生観、それは何度聞いても僕には非常に感銘を受けるものだった。僕は、その話が聞きたくて、いつのまにか‘お布施’をするようになっていた。といってもこれまでご馳走していただいた分の半分にも満たないだろう。


 今回の壺は、数年前に彼女が持ちかけてきたものだ。

「いつかタイミングがきたら時でいいわ。現金で20万を渡してもらえれば、あなたは人として次のステージに上がれる。あなたの暮らしはきっと豊かになる」

 僕の中で神様みたいな彼女がそう言うんだ。僕は死に物狂いで貯めた。まさかこんなことになるとは、思いもよらなかった。


 不思議だった。怖いくらいに、不思議だった。でも、壺を買った僕は、それらをただ受け入れることにした。だって、これが僕の人生が「救われた」という証なのだと、信じたかったから。


 ──────────


  「ええ、ええ、今、あの子が壺を買ったわ」


 女性の声は落ち着いていた。ファミレスの片隅、青年が席を立った後の誰もいない席に一人で座り、バッグから取り出したスマートフォンを耳に当てる。淡々とした口調は事務的で、抑揚も感情もほとんど含まれていない。


 「そう、予定通りよ。手筈通りに進めて」


 電話の相手が何を言ったのかは聞き取れない。けれど、そのやり取りに特別な緊張感は感じられなかった。彼女は続けて別の番号を呼び出し、再び同じような会話を繰り返す。


 「ええ、よろしくね」


 また一つ電話が終わり、さらに新しい番号を押す。彼女の動きには無駄がない。慣れた手つきで操作を続ける様子は、どこか儀式めいていた。


 その間、ファミレスの自動ドアが開く音がする。振り返ると、例の青年が壺を胸に抱えながら店を出ていくところだった。彼女は何の感慨もない様子で、その背中を見送る。


 「……全く、あの子のお人良しさって誰に似たんでしょうね」


 女性は独り言のように呟き、最後にかけた電話を切る。その瞬間、彼女の微笑みが深まる。スマートフォンをバッグにしまう動作も、いつも通り機械的だった。


 「あの子の不幸な話は全部知っているわ。だって──」


 その言葉の続きを、彼女は誰にも告げなかった。周囲の誰も聞いていない。ファミレスの店員も、出て行った青年も、そして電話越しの相手でさえも。


 だが、彼女が残したその言葉は、空気に溶けることなく、どこか別の場所へ漂っていった。静かな夜の闇に向けられたその呟きは、まるで遠い未来を見越した呪詛のようだった。


 彼女は席を立ち、支払いもせずにその場を後にした。誰もそれを止めようとしない。それどころか、彼女の存在そのものが、最初からそこにはなかったかのようだった。


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金では買えぬもの 寳田 タラバ @takaradataraba

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