見えざる手

氷雨ハレ

見えない導き手

 帰り道のことだった。日課のながら歩きは、スマホの充電切れによって禁止されてしまったので、仕方なく、久しぶりに街を眺めていた。

 久しぶりに見た河川敷、昔はよく川遊びをしたなって懐かしんでいた時、気づいてしまった。川を手が泳いでいる。それだけじゃない。空を飛ぶ鳥の正面にも、転がるボールの前にも、横を通り過ぎた車のナンバープレートにも、「手」はあった。


「少年、どうしたんだい?」


 突然呼びかけられた。振り向いて見ると、それは女性だった。


「あれ、見えますか? 手です。手があるんです」


 自分でもそれがどれほどおかしなことか理解していた。しかし、今の自分が正常であるか確かめる為にも、訊いておきたかった。


「見えるのかい? 『見えざる手』が」

「『見えざる手』? それは一体……」

「『見えざる手』とは『自然』だ。物が上から下に動くこと、鳥が前へ前へ動くこと、需要と供給が価格を定めること、その一切の『自然』的な事象を、そうであるべき場所を導く、その担い手のことさ」

「で、でも、未来なんてそんな、分からないものをどうして」

「『見えざる手』は意志の代弁者だ。車が前に進むのも、車やその運転手の意思が成す『自然』を汲み取った『見えざる手』が引っ張っているだけさ。物がいずれ落ちるのも、星が廻るのも、誰かの意思、誰かの『自然』なんだ。それは私かもしれないし、君かもしれない。知らない一個人かもしれないし、有名な集団かもしれない。無欠の神の御技かもしれないし、ラプラスの悪魔かもしれない。———そういう風に考えていると、やはり『唯脳論』が正しく思えてくるね」

「な、何を言ってんのかサッパリ分かんない! 大体、アンタこそ誰だよ!」

「何を言っているのか分からない。そう君は言うんだね。———首元を見てごらん」

「また、何を……」


 そこには「手」があった。「見えざる手」、誰かの「自然」が、首を絞めようとしていた。女性はその「手」を叩き、そして飛んでいったその「手」を眺めながら言った。


「あれも誰かの意思、誰かの『自然』だ。誰かが君の死を、そうあるべきことだと願っているんだ」

「そんな、恨まれることなんて、何も」

「そうかもしれない。もしかしたら、君は他の意思に恨まれていないかもしれない。じゃあ、誰の意思になるのか。———君の意思だろう? 君が、君自身の死を『自然』のことと解釈している。それが意思で、その導き手がそれだ」

「それは———いや、そうかもしれない。そうだ、僕は常に思っていた。昔、僕より歳上の女の子と友達だったある日、二人で川遊びして、そして僕はその子を殺してしまった。その子は流された僕を助ける為に死んだんだ。それが、真実なんだ」


 目の前が暗くなる。「手」に顔を掴まれているんだと、心を隠すのが「自然」となっているんだと、そう理解した。


「君、一つ助言だ」


 そう言って、女性は僕の顔をついた手を取り払った。


「『自然』は簡単に人を殺す。私も、君も、ね。そして、その『自然』は、大抵自分の『自然』だ。誰も恨んじゃいないよ。君を除いてね」


 そう言うと、女性は踵を返して、そのまま手を振った。


「私が導かれたのはそれを言う為なんだろうね。———強くなったね。でも、私に頼るなんて、まだまださ」


 僕は、その人の背中を見ることしかできなかった。それは僕が瞬きすると消え、「手」も同じように消えた。

 僕は夢を見ていたのだろう。そうでも言わなければ、あの経験に説明がつかない。それが一番「自然」だった。

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