「この世の終わりが届くときに」1

 蒼闇が世界を染めている。

 白い貌が蒼い光に染められたように、闇の中に動くことなく浮き上がっていた。瞼を閉じ身動きもしない容貌は闇にも蒼白な彫刻のように見え、僅かに黒い流れが二筋、頤を伝い襟許に落ちているのもまた彫刻にも似た冷たい生気の無さを感じさせる。

 黒に近いだろう生地のスーツも、色味があるのか不明なシャツにも履いている靴にも、細かな砂ともつかないものが降り掛かっている。

 僅かに額に落ちる髪が揺れて、だがその風にも鷹城は目を醒ますことはなかった。




 一



「いやな、夢をみたな、…」

溜息を着いて目を閉じ、額を押さえて乱れた黒髪をそのままに身体を起こす。

きちんと整えられた寝室に一人身を起こして、鷹城は薄闇に僅かに首を振っていた。

 蒼白い肌に黒髪が不吉な程に青黒く映える。

 溜息を吐きながらシーツに片膝をついて身を起こしたまま目を閉じて動きを止める。

 疲労が濃い。それは確かに、これまでの経緯を思えば、いま疲れが出てもおかしくないというものだろうが。

 …―――事の最中には割と平気で、後からくるとかはよくいわれるものね。

思いながら、シーツにふれる汗の多さに眉をしかめる。

「とりかえないと。…」

健康診断でも受けるか?確か、寝汗が多いのは何か体調が、…まあいずれにしても。

一度医者にいって、カウンセリングくらいは受けた方がいいかもしれない、と。

苦笑して肩から力を抜き、瞳を薄闇にひらき、静かに窓の外を見詰める。

闇に見えるのは白い月だ。朧な雲に遮られて、淡く境を消している朧月の光が蒼白く室内に射し込むのに。

 あの光景を思い出して、思わずも吐きそうになっていた。

「…――――、ったく」

口許を押さえて、冗談じゃない、と考える。

 車酔いだけじゃなくて、衝撃を受けた際の映像が蘇ってとかって、PTSD?どう考えてもそんなに繊細じゃないけどね。

 …――――いやになるね。

髪をがしがしと掻いて、床に足を下ろす。

 思い浮かぶ情景は、まるで冗談だ。

 ―――蒼白い闇、青い闇に浮かぶのは、――――…。

 自身の死体だ。…

「どうかしてる」

目を閉じて呟く。そういえばその幻が消えるというように、願うように強い口調で。

「…――――関、…。」

首を振る。強く歯を食い縛っていたことに気付いて、苦笑して。

 闇の中に、血が抜けていく感覚。

 闇に吸い込まれるような、力が抜けて冷たく、…。

「冗談じゃない、…関、たすけて、」

目を閉じて首を振り、微苦笑を漏らして。己の言葉にあきれてしまっていた。

 いつまでも、こどもじゃないのに、…。

 たすけを求めるなんて、…大人だろ?自分?

あきれて息を吐いて、無理に笑って立ち上がった。

―――…シャワーでも浴びて、この嫌な汗を流してしまおう。

闇に僅かにおぼつかない足取りで、壁に手をついて歩いて。

「…関、のばかに、とかはともかくとして」

 …休暇をとって、実家に帰るか、すこし。

仕事で使っているこの部屋は、無機質すぎて。夢をみて、それを紛らせる何物も無い。

 ―――人間、休むのも大事だよね。

 七月の大雪。

都市が機能を止めた。

あの事件は起きなかったことにされた。

 観覧車を燃やした映像と、それらは、…―――。

 そして、あの映像は、…。


 ―――、は、それもまた、…。


 まあ、なかったことにでもしなければ、この世に既にいない犯人を、いや、もとよりこの世界の存在でなかった犯人を一体どうしろっていうそういう話だけどね。

 ―――…単純な唯一人を除いては、だけど。

その単純な唯一人にとってはその消された存在が何であろうと、単に逮捕すべき対象でしかないものらしいけれど。

 その健全さにあきれて苦笑して。

目を閉じて、シャワーの水滴を受け止めて。身体を叩く水流に息を吐いて汗と嫌な思いがその流れに流されていくのを感じる。

 ―――本当に、きみの単純化する能力は本当にうらやましい。

苦笑して、そうして。

 ――――…関、

ふと目をひらいて、浮かびかけた映像を消す為にくちびるを咬み、闇でなくバスルームを照らす照明を見詰めた。

 そんな世界は、もうみたくはない。

「ああ、…まったく、――――…」

真面目にカウンセリングが必要みたいだけど、と。

 ―――ああでも、まともな医者じゃ無理なのかな?

どうにかして、コンタクトを取らなくてはならないかもしれない。常に世界中の予測もつかない場所に居て、かなり連絡が取りにくい相手らしいけれど。

 ―――…。

あの刻から。

 正確にいえば、そう、…―――。

 彼自身があの刻負った傷は、大したものではなかった。

 その筈だったのだが。

 だが、だからこそ、…―――――。

 あそこで見たことの、意味が。

「相談するか、…それに」

それに、やっぱり、と。

 ――関。

 単純に、会いたいんだけどね。

今度の件で、それに。

子供の頃からの安心毛布ではないけれど。

 きみがいるだけで、安心できる。…まったく、いい大人なのにね。

小さな子供の頃からの習慣が、つまりこれは精神的依存とかって奴だろうか?と。

あきれながらも、シャワーを浴びて壁に手を置き、軽く拳を握るそこに額を押しつけて、あきれながら笑んでいた。

 暖かなシャワーが物理的に身体を温めてくれるように。

 息を吐く。

 こどもの頃からの安心毛布な関に相談しようと決めただけで情けない話だが心が落ち着くのはどうしようもないことだけど、と。

 あきれた話だけど、…けど、でもそれにね。

 ―――関って使えるし。

実際にいま起きている事件に関して、―――或いは事象と呼ぶべき事に関して。

 例え専門外でも、関に相談して解決しなかったことがないしね。

まったく、どうしてあれで刑事なんて仕事にしていて解析とか分析のポストについていないんだか、と。

いつもあきれる本人の頑固さと職業選択を絶対に間違ってるって、と本人に対する度に思うことを考えて、思わず笑う。

 まったくね、…きみは。

 そして、そんなきみが安心毛布だなんて、僕もまったくね。

大きくあきれて、思わずそれに肩から力が抜けて。

 ―――…関。

とりあえず明日は安心毛布にケアしてもらうことにして、と。

随分と気楽に身体の緊張がとけるのを感じながら。

鷹城は明日のスケジュールを本人に問い合わせるつもりもなく勝手に関の分まで決めて細かな段取りや予定を立て始めていた。







「そ、れ、で?何だっておまえはいつも人の予定をきかずに勝手に何でも決めるんだ!おかげで今日は非番にさせられたんだぞ?解ってるか?おまえ!」

「ありがと、うん、美味しい」

しみじみ暖かいどんぶりに手を添えて、鷹城が温かなうどんをくちにしながらいうのにあきれて関が眉を寄せる。

「いいか?わかってるか?おまえ!おまえが突然人の都合も考えずにメールで突然連絡何か寄越すから、今日は突然休暇を申請することになったろうが!おい!聞いてるか?鷹城!」

しみじみ美味しそうにうどんを食べている鷹城を前に、関が睨んでいう。

 ちなみに、しばらく事件が無くて暇な為、突然当日の朝に、しかも出勤した後に、突然携帯の画面を睨んで額を押さえて休暇を申請した関に、山下他、一課のメンツは課長も大歓迎して休暇を取らせてくれたのだが。

 ―――どういう事情か知りませんが、その事情ができるだけ長引くことを祈ります。

真面目に見上げていってきた山下と、感涙にむせびながら肩を叩いていった課長に。

 ―――幾らでも休暇を取ってくれていいぞ?関。というより、おまえが自分から休暇を申請してくれるとはなあ、…。おまえの有休、どれだけ溜まってるか知ってるか?普通の休暇だってとってないんだぞ?おまえ。

 ―――何処の誰か知りませんが、先輩に休暇を取らせてくれて感謝してます。

御礼をいっておいてください、という山下と、俺からもよろしくいっておいてくれ、本当に感謝する、と真面目にいっているらしい課長にかなり判然としないものを憶えた関だが。

 ―――まあ、いいんだけどな。

 大体、いきなり連絡してくるこいつがいけないんだ、こいつが、と。事前にわかってれば、あーいう言い方を連中にさせないんだが、と考えつつ。そして、もしそうした場合、突然ではなく、段階と順序を踏んで彼が休暇を取るなどとした場合、一課の一同の心臓が持つのかどうかといったことはまったく考慮せずに。おれだって連絡が事前にあれば事前に申請して休暇を取る、と思ったりしながら。

 仁王立ちで腕組みをして台所を背に、しみじみうどんを食べている鷹城を睨んでいるわけだが。

「なんだって、うどん何だ」

「うん、―――きみが作るうどんって本当に美味しいよね」

「褒めても何も出ないぞ?まったく、来るなら来るでもう少し前に連絡を寄越せ!突然朝っぱらにメールを寄越すな!」

そういって、唯一言書かれたメールの画面を見せる。

 ―――うどん

たった一言、それしか書いていないメールの画面をみせる関に、鷹城がまったく視線を向けずに、うどんを食べながらいう。

「おいしいよね、玉子うどん」

「おい、ネギとワカメを避けるな。それにうすあげも避けるんじゃない!」

玉子うどんを食べながら、何気に箸でそれらを避けようとしていた鷹城に関が突っ込む。

「…みてたんだ」

「真ん前でよくみえるんでな。おまえ、人に作らせておいて食べる物を避けるな。ネギとワカメとうすあげは食え」

「…うどんと玉子だけでいいのに。」

ちら、と上目づかいに関をみあげていう鷹城に、関が怖い顔をして唸る。

「…おまえな。栄養が偏るだろうが!第一、人に作らせたなら文句をいわずに食え!」

「リクエストしたのはうどんだけだったのに」

くちを結んでわずかに頬をふくらせていう鷹城に関があきれて眉をを寄せる。

「おまえな、…。人がわざわざ作ってやったのに何いってる!第一、リクエストは、うどん、だけだろうが!」

「だから素うどんでも良かったのに。玉子はうれしいけど、ワカメとネギとうすあげは何で」

「ワカメとネギとうすあげはうどんには付き物なんだよ。玉子うどんに玉子とうどんだけなんて許されんだろ!」

「…妙な処で頑固なんだから、…」

いいながら箸でネギを避けようとする鷹城を関が睨む。

「…―――食べないと、ダメ?」

「当然だろう。二度と作らんぞ」

「…はーい」

気の抜けた返事をしてネギを眉を寄せてくちに運ぶ鷹城にあきれて息を吐いて。

 それから背を向けて、窓枠のように仕切られた台所のカウンター越しに手を伸ばし、材料を手に取って。

 薄味の鰹で出汁をとったうどんは実に美味しくて、身体が温まるのを実感しながら鷹城は食べているが。

 ――それにしても、何で関西風なんだろうね、出汁が。

いや、本当に関西風なのかどうかはよく知らないんだけど、と思いながら。関は根っからの横浜育ちだという割には、何故か作る料理はいろいろと混ざっていたりする。

 このうどんは特に顕著だ。関東風の黒い汁のうどんではなく、関西風のやさしい淡い色合いの柔らかな出汁は鰹の風味が豊かで、ほっと息を吐きたくなる。

 だからこそ、リクエストで関の携帯にメールで唯一言、うどん、と送り付けた訳だが。

「で、今晩は泊っていくんだな?いつまで休みを取ったんだ?今度は」

「どーして休みを取ったってわかるんだよ?」

「そんなもの、おまえが突然メール寄越して何か食わせろときたら、そのまま泊っていくに決まってるだろ。おまえ、それ以外の予定立ててるのか?」

背を向けたままカウンター越しに料理の下準備を始めている関を、その背中をつい眺めてみて。

「うん、それはそうだけど。この処仕事が立て込んでたから、いずれにしろ休暇とれとはいわれてたからね」

「…だろうな。おまえ、本当にちゃんと公務員なんだから、週休二日とかはとれるんだろうが?しっかりきちんと定期的に休みを取る生活をする気はないのか」

手を動かしながらいう背を見あげて、うーん、と天井に視線を逸らしてみる。

「おい」

それが見えているように咎める関に視線を泳がせてみる。

「おまえな」

芋を剥きながら関が振り向いて睨むのに。

「ん、だってさ。おいしかった!ごちそうさま」

いうと空のどんぶりを前にいう鷹城に、関が振り向いて手を伸べて、どんぶりを取りカウンター越しに洗い場に置く。

 なおも丸芋を剥きながら、手際良くすすめていく関の手をみながら、ぼーっと鷹城がしていると。

 いつのまにか、芋を剥き終わってボウルを台所に置き、次に緑の豆をすじを取りながらさやと豆に別けている手をぼんやりみつめて。

 ぼけぼけと、テーブルに腕をおいてこどものように眠り初めた鷹城をあきれた視線で関がみる。

「まったくな、…」

 ハードな任務とやらが終わる度に、――ちなみに、すっごくハードな任務が終わったから癒されにきたー、と、まるでこどものようにいって戻って来てはいつもそういうのだが、――――こうして戻って来て本当にこどもの頃のようにだらけている鷹城に。

「まったく、おまえはな」

いいながら、軽く手を布巾で拭いて、鷹城の髪を掻き混ぜるようにして撫ぜる。

 それにも起きずに、すっかり深い呼吸をして眠っている鷹城にあきれながら。

「―――…」

深く息を吐いて、グリーンピースを剥きながら、莢を別に切り、仕度を整えて。次に、カウンタの下にある貯蔵庫から、レンコンを取り出して軽く手に持って笑んで。

 泥を取る為に洗い、良い音を響かせて切り、水にさらして準備をして。

 冷蔵庫に入れて置いた牛すじを一度軽く焚いて味を染ませておいておいたものに、ごぼうの晒しておいたものを揃えて。

 浅く沸かしておいた湯に散らした鰹節が散り、淡く色をつけるのに小口にしょうゆをすこし加えて、軽く味をみる。

 さらさらと、水を湛えた鍋に剥いた芋とレンコンを入れて火を点ける。掬い取った鰹節を布巾で絞って、だしにグリーンピースの莢と豆に、刻んでおいたたまねぎをくわえて火に掛ける。

 しばらくして火を止めて、煮立ってきた芋とレンコンから灰汁を取り、火を小さくする。パッドに置いた牛すじとごぼうを漬け込んでいた汁と一緒にしばらく経って煮えてきた芋とレンコンに足して。

 そうしながら、土鍋に洗い置いた米を炊きはじめる。

 ちら、と眠っている鷹城をみて。

台所に入ると、冷蔵庫から山椒を出して、布巾に絞った鰹節と合わせる。

 粒山椒と鰹節をあわせて小鉢に盛り、缶詰のタケノコを出して軽く切り、煮立ってきた芋とレンコンと牛すじとごぼうが炊けてきている中に加えて。さらに煮立ってくるのに灰汁を取りながら、火を小さくしてグリーンピースの莢と豆に玉葱を加える。

 味をみてすこし醤油を足して、火をさらに弱くする。

しょうがを軽く刻んで、それから。

 炊けた飯に蓋をあけて、具の様子に軽く笑むと生姜を足して蓋をおいて蒸しなおす。

 さらさらと小鍋に昆布を入れて出汁をとり、醤油を加えて澄まし汁の準備をする。

とろろに昆布をふわりと削り、器にいれて蓋をして、それから蒸した炊き込み飯の様子をみて具をさくりと混ぜ入れる。軽く混ぜて山椒を上に散らして。

 もう一度蒸す為に蓋をおき、次に焼魚に添える為の大根を下ろしながら、漬けておいたはじかみをちら、とみて。

 はじかみの漬け汁を何かに使えないかな、と考えながら大根をおろして、辛いのが苦手な鷹城の分に器に入れて山椒を刻んだものをまぜて少し空気にさらす。

 はらわたをとり、始末をつけた秋刀魚の身を綺麗に切り分けてパッドに置いて。酢〆に薄く漬け込んでカボスを切って上に散らして焼く準備をしていく。

 漬け汁にこれも実山椒に生姜を入れて、煮ていた芋の火を止めて、秋刀魚を漬けたパッドを冷蔵庫に入れ、沸いてきた鉄瓶の湯に、手製の玄米茶を淹れて暫し手を止める。

 顔を組んだ腕に落して座ったまま寝ている鷹城をみて、少し苦笑して。

 それから、茶を呑んで、ふうと息をついて。




 鷹城は、ゆっくりと夢をみているような、みていないような心地でいた。

 良い匂いがする。…―――

それに、ときおり、気持ちを落ち着けるような包丁のおと。

リズミカルに軽く俎板を叩く音は、耳に心地良い。

だから、こうして、…。

昔から、関がご飯の準備をしながら何かいったりしている傍で、寝ているのが大好きだった。

 それは、本当に子供の頃から、――――…。

微笑んで寝ている鷹城を見ながら、関が香ばしい炒った麦を混ぜた玄米茶を手に温めてゆっくりと呑んで、思わずも微笑んで。

 微苦笑を零して、あきれながら寝顔を肴に玄米茶を呑む。




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