鬼灯の裏側で 4
永瀬が難しい顔をして唸っている。
「どうされたんですか?」
「瀬川か、…」
ICUを廊下側から見ることのできるガラス越しに、普段通り顔色の悪い永瀬が、無精ひげを蒼く無造作に剃ったうかない顔で眺めたままいう。
瀬川京一――現在、ICU専属の看護師をしている――が、永瀬の言葉にICUの患者達を見つめる。
若い看護師の瀬川は細身で強靱な体力を買われて永瀬にスカウトされ滝岡総合病院に勤めているのだが。
永瀬の脳裏にあるのが、いまもICUで管理している患者達の他に、ある人物が負った毒による症状だということは、勤務に入る前の会話でも確認していたが。
その人物――鷹城秀一の状態として聞いている経過。
記憶を失っているという。
「外傷はないというお話でしたよね?感染症の可能性も?」
「ないな。…一応、毒物を投与された可能性があるんだが」
「…神経毒とかではなさそうですね」
「その通りだ。第一、へび毒や何かの類いだったら、とっくに息の根が止まってあの世にいってる。だからといってふぐ毒とかじゃねえ。あれも一定時間が経てば、呼吸さえもたせてやれば何とか戻ってくるもんだ。けどなあ、…生きて還ってはきたけど、記憶が一部飛んでるなんていうのは、ある意味珍しくもねーとはいうんだが、…今後がな、」
「アルカロイドですか」
「…わからん。後は、有機リン系、…縮瞳はなかったぞっ!他は鉱物毒に、…第一!その手の有名処は一通り調べたんだよっ!ネットワークだって使ったし、迅速診断キットだって!ったく、…」
「…―――」
あきれた視線で瀬川が見るのに、じと、と視線を向けて永瀬がくちを曲げる。
「だってな?血液ももう綺麗なもんなんだぞ?胃洗浄もした!血液透析がどの程度効いたかしらんが腎臓の数値もおかしくなくなってはきてる、肝臓は、…血糖値もおかしくない、B1も補充してる、おまえさんも知ってる通りバランスも正常になってきた。…―――でもな、」
「落ち着いてください、永瀬医官」
淡々という瀬川に、じとりと視線を永瀬が送る。
「おまえさんを引き抜いてきて、よかったかわるかったか謎だよな、瀬川看護官。二尉、だっけか?せっかく出世コースに乗ってたのに、引っ張ってわるかったな」
「滝岡先生程じゃありませんよ。あの方はCSだったのに」
軽く肩を竦めていう瀬川に、永瀬がくちをへの字に曲げる。
「…それは光ちゃんにきーて。な、健康な人間が眠って起きないとしたら何を考える?そんで起きたら、記憶無くしてるとしたら?」
「極端な寝不足でなければ、薬を盛られたんですね」
「…薬、くすり、か。な、瀬川、おまえさんが看護してるときに気がついたことねーか?そーだ!な!森川ちゃんと、これから勉強会しよう!な?おまえさん、いまから非番だよな?」
背を向けて歩き出しかけていた瀬川の手首をがっし、とつかんで永瀬が無精ひげが浮いた顔色の悪い顔を近づける。
「永瀬さん、近いです」
「…今度、森川ちゃんからがめた緑茶一包わけてやるから」
「―――もしかして森川先生のご実家の茶園で作っておられる秘蔵の深蒸し茶ですか」
足を止めた瀬川が、真剣に永瀬を見返す。
「ちゃんと薬用保冷庫に保管してある!」
「…わかりました。次の勤務まで二日ありますからね。協力しましょう」
極真剣に頷いて見返す瀬川に、永瀬がうなずく。
「たすけてくれ。秀一っちゃんがまともに仕事できるよーにならねーと、関なんて、きっと、これから二度と美味しい料理くわせてくれなくなるぞ?秀一ちゃんに後遺症出て、美味しい料理食えなくなったら、永遠に関の奴、病人食しか作らなくなる自信がある!」
謎の自信を持って言い切る永瀬に、瀬川が無表情なまま視線を向ける。
「森川先生何処です?」
「こっちだ、行こう」
瀬川の手首をつかんだまま引っ張っていう永瀬に、逆に先に立って瀬川が歩き出す。
白いデスクに資料を広げて、永瀬が元々悪い顔色をさらに蒼白くして唸っている。
「全身のCTに胃のX線写真、妙な塊とかはないし、有機リン系って本当に考えなくていいか?」
処置前と後の検査資料を広げて、永瀬がぶつぶつと呟いている。
その永瀬を前に、瀬川が淡々と幾枚もの検査結果の数値をプリントした紙をみていう。
「遅効性の毒物と考えると、一定量が既に取り込まれてしまっていると考えれば、現在血液透析を行っても効果がみられない点に整合性はあるでしょうね」
「――毒が何か解ってればそれ専用のキレート剤やら何やら投入して、血液だって専用の吸着剤つかってきれいにできるが、闇雲に無理矢理浄化したって処だからな。肝心なものが取り除けてないってのはありな話だ」
それが記憶障害を残すタイプの毒だとしたら、…――処置は、と。
機嫌悪く無精ひげが蒼白い貌に浮いてみえる永瀬が半眼になって天井を仰いで睨む。
その前で、軽く息を吐いて瀬川が手にした束を机に置いて永瀬をみる。
「投与されていた毒物は特定できてないんですね」
「そ、まだ未定。もしかしたらだけど、経口だけじゃなくて、傷口からも直接入り込んだんじゃないかっていう気がしてな。剥離した表皮と組織、検査に回してはあるんだが、…毒物特定できてねーのよ」
「…珍しい毒ですか」
「いやな話だ」
しかし、と瀬川が眉を寄せる。
「傷口から、――…そうするともし経口摂取したのと同じ毒物でもより危険では?」
瀬川の指摘にうかない顔で永瀬がうなずく。顎を右手にあずけて少しうなって。
「大概はな。…逆に経口投与じゃ吸収されない毒もあるが。どちらでも吸収される場合、直接血液から入るのと胃腸から吸収されるのとじゃ、えらい違いだからな。…森川ちゃん、何か良いネタねーの?」
細身で背が高く痩せている森川が、黒縁の眼鏡でじっと睨んでいた顕微鏡から振り向く。細身の白衣は随分とくたびれているようにみえるが、色は真っ白で洗濯はきちんとされている。単に糊を利かせるのがきらいで、洗い立てでもよれよれの白衣にみえるだけらしい。
森川が何というのか、瀬川も興味をもって見ていると。
正面から永瀬を見て、森川が質問する。
「永瀬先生、ですよね?」
「…―――おれ、永瀬。こいつは瀬川。…先日もいったけど、憶えてる?」
「これに指をおいてください」
「…いーけどね」
永瀬が溜息を吐いて森川が差し出した端末に人差し指をおく。
端末上で表示がかわって、名前と所属が表示される。
「――確かに集中治療室所属の永瀬先生ですね」
こちらは?と次に瀬川をみていってくる森川に、珍しいものをみる視線で瀬川が森川のもつ端末をみて、永瀬を仰ぐ。
「いや、…こいつ嫌みとかでいってるわけじゃないんだぜ?瀬川ちゃん、指置いてあげて」
「…はい、構いませんが」
そいうえば、この森川先生の部屋に入るときにも永瀬さんも僕も認証が必要だったな、と思いながら端末の画面に指を置くと。
「認証しました。集中治療室所属の瀬川看護師ですね。初めまして、僕、森川です」
「…はじめまし、て」
戸惑っている瀬川に、永瀬がうなずく。
「大丈夫だ、これがこいつのデフォルトだから。こいつはな、人間を顔で認識してない。その内大体はぼんやりと認識することもあるらしいが、おまえと擦れ違う位だと完全に認識外だ。ちなみに、おれもまだぼんやり認識する範疇には入れてもらえてない」
「ええと、それは、…」
瀬川が永瀬の解説にさらに戸惑うのに、森川本人が笑顔で向き直る。
「永瀬先生のおっしゃってる通り、僕は人間の顔が認識できないんです。白血球の顔ならわかるんですが」
「…――白血球?」
絶句している瀬川に、永瀬がうんうんと腕組みして頷く。
「そーなんだよ。こいつ、血球の顔なら見分けがつくって云うんだ。つくか?ふつー?…けどな、こいつにいわせると、白血球でも幼弱な奴とか変異起こしてる奴は顔つきが違うんだそうだ。そりゃ違うけどな?」
「それぞれ個性がありますからね。というわけで、僕は血液を専門にしてるんですけど、人間の顔の区別がつかないので、もしこの後、何処かで会っても認識できていないと思ってください。それで、誰にでも何でも話してしまうとまずいので、仕事関係のお話の場合は、いまみたいに誰に話したかわかるようにしているんです。話してはいけない人に話してはダメですから」
「守秘義務って奴な、気を悪くしないでくれよ、瀬川」
「…いえ、むしろいいですね。これで誰に話したとか証拠が残るのでしたら」
興味深げに森川の手許に置かれた端末をみていう瀬川に、永瀬が溜息を吐く。
「おまえさん、割とそーいう奴だったよな。…というわけでさ、森川ちゃん!秀一に投与された毒物の特定すすんでないのか?な?」
森川が画面に分析結果のグラフをみせる。
「ご存じかと思いますが、これがクロマトグラフでの分析結果です」
画面に映し出されたのは細い線で幾つかの尖った山が描かれたグラフ。その一つをポイントして森川が云う。
「検出された物質が多い程、この頂点の位置が高くなります。残念ながら、こちらで毒物として検出出来るものは一つも出ませんでした。農薬として事故の多い有機リン系に鉱物毒のヒ素、アルカロイド等も別の検査を同時に行ってみたんですが。勿論、覚醒剤等や違法ドラック等もわかる範囲で」
「ゼロか」
蒼い顎ヒゲを撫でながら難しい顔で永瀬が唸る。
「…森川ちゃんの設定って結構鬼のように厳しいって他所からもきーてるんだけど。通常中毒で救急入ってくる範囲超えて判定出来たりするからって、院長通して警察から逆に鑑定依頼あるっていうじゃん」
「それは、滝岡先生が生きている患者さんを優先して僕に無理がない範囲でなら、引き受けて構わないといってくださってますからね。実際、死なれた患者さんからの知見は、生きている患者さんの救命に役立つことが多いんです」
笑顔でいう森川にちょっと引きながら、永瀬が困った顔で見返してうなずく。
「ま、そりゃそーだな?とにかく、…いま問題は秀一なんだよ。いま命がライブだからな?いちおー、意識は戻って動けるよーにはなったけど、今後、どうなるかは予断をゆるさねーのよ。本人、せかせか動き出しそーなのが、さらに頭痛だけど。いずれにしても、死体さん相手にしてるときみたいにまったりやるって訳にはいかないんだよ。できれば、追加処置で有効な奴をはやいとこかましたい。予後にかかわるからな、…。――…一応、警察には回してるんだよな?」
「勿論です。あちらは、時間は掛かりますが微細物の検出に関してはやはり専門家ですからね。それでもやはり、想定出来ていない薬物の検出には限界があるんですが。…ご存じの通り、検出する際には、ある程度毒物の種類を想定しなくてはできないんです。何かヒントがあればいいんですが」
「森川ちゃーん、…ヒントがほしいのはおれよ?」
情けない顔で永瀬が云って、クロマトグラフを睨む。
画面を指の背で叩いて。
「これと、これは、このピークは、生理反応物質?」
「その通りです。生体内に物質が入って、反応して変成したものですが、この二つは通常の免疫反応でも検出されるもので、…―――」
「つまりは、毒物特定には使えないってか。これでも、確かアルカリだと思ってたけど、やっぱりアルカリ?おれの記憶違いじゃない?」
「はい、そうです。当初アルカリでしたね。こちらが透析開始後二十分での数値ですが、回復しています」
「…反応がいいんだな、有り難い話だ。ばくち打ちが成功したからって威張れるもんじゃないが、…変成か」
「しかし、反応後の物質から前を特定するのは、科警研と同じくらい時間がかかります」
「…―――八方塞がりか。けど、森川ちゃん、そっちの計算も続けておねがい。あいしてるから」
「永瀬先生、いまの文節の意味がとれなかったんですが」
真面目な顔で振り仰いでくる森川に永瀬ががっくりと肩を落とす。
「いや、いーんだ、…。とりあえず、しっかり続けてやってくれ。毒物解析データベースと、メーリングリストには投げてる?」
「はい、唯、芳しい返答はありませんね」
「おれのほーにもきてない、…」
虚ろに永瀬が半眼で宙を眺める。
「…それにしても森川ちゃんリストに無いってな。な、森川ちゃん、鬼灯とかいう生薬に使われる奴の成分とかって、最初の設定にはあるの?」
森川が難しい顔で頷く。
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