関&鷹城「鬼灯」3
「西さん、何かでましたか?」
「橿原さん、昨夜の放水で随分流されてしまってますね。しかし、ここを見てください」
「…錠前のへこんだ部分ですか」
午前のまだ早い時間の日射しの中で鑑識が作業する中を、草に埋もれた坂を下って見えてくる河川沿いに建てられた小屋に下りて来た橿原が作業中の西に話し掛け、その示す部分に視線を凝らした。
「あなたと関刑事で相当強く叩いて壊されたんですね。それで歪んだ部分もありますが、これはもともと相当ゆるくなっていたようです。それにもともと、この鎖と錠前はこの小屋に付けられていたものではありませんね。本来の鍵はそれで、壊れてしまっているのを無用心だから誰かが追加でつけたという処でしょう。随分前の仕事のようですが、この扉に鎖と錠前をつけてるのは素人仕事ですね。子供とかが開けて中に入らないようにという程度のものでしょう」
作業する手を止めて、西が示す壊れた錠前と鎖を橿原が感情の伺えない眸でみる。
青空の下に、川原を流れる水音は、昨夜の轟々と響くさまとは似ても似つかない。何処かに、遠く響く鳥の声がして、橿原が空を仰いで、何を想うか読めない眸で続く青空と白い筋雲に、緑の連なる山々を眺める。
作業を続けながら、西が説明する。
「小屋自体は随分前に保管庫としては使われなくなっていたようですからね。確認してみましたが、堆積された砂などによって、河川の流量や方向が変化した結果、保管庫として適さなくなって随分前に保管庫としては廃止されています。尤も、地元の人達はここに元保管庫があることは知っていたようですが」
橿原が淡々とした視線を西に戻す。それに、採取した砂を袋に入れながら、西が続ける。
「いずれにしても放水があれば水底に沈むことも、こうした処の地元の方なら知ってるでしょう。特にこうした上流の急な箇所では河川の突然の増水は恐いですから。もっと下流で、放水の危険を知らずに遊びにきていた観光客なんかがダム放水で事故に遭うなんてことがあったようですが、地元の方なら無論危険は知ってたと思いますよ」
西が背を伸ばすのに、橿原がしずかに云う。
「――…そうですね。そして、地元の方ならば天候やダムの放水が何時頃行われるかについても、よく解っていたかもしれません」
採取した証拠品を仕舞い、周囲を確かめるように見廻して西が苦い顔でいう。
「何にしても証拠が殆ど流されてしまっているのは痛いですね。関刑事が持ち帰った例の鉄でできた棒以外は、犯人の足跡も何もかも流されてしまってますから」
西が周囲の鑑識に声を掛けるのを見ながら、橿原が淡々と問う。
「その鉄の棒についていた血痕は、鷹城君のものだったのですね?」
「はい、簡易検査で血液型が同じと出ましたので、ほぼ間違いないかと。勿論詳細な分析は後程出しますが、…指紋はやはり採れませんでした。ハンカチで保護してはいましたが、使ってしまってたのはおしいですね。まあ、こんなところでは他に適当な道具もすぐには見つからないでしょうから、仕方ないかとは思いますが」
いいながら小屋の扉に向き直り、別の鑑識部員から受取った道具で、痕跡を採取しようとしていた西が橿原を見あげていう。
「処で、関刑事はいまどうしてるんですか?」
「上司に報告しているはずです。彼は第一発見者にもなるわけですから」
「…そうですか、…鷹城さんはそれで」
「まだ意識は戻りません。ICUからは移りましたが」
「そうですか。…橿原さん、何か発見したらお知らせしますから」
「よろしくお願いします」
一礼し、草の生えた急な坂を登っていく橿原を見送って。その背に僅かに溜息を吐いて、西は作業に戻っていた。
「一体それで、鷹城さんは何をしていたというんだね?」
課長が質問するのに、俯いてくちびるを咬み関が答える。
「わかりません。自分は証人に再度証言を確認する為に赴いた際に、あいつを見かけただけなので、…」
「その際に、鷹城さんは誰といたんだね?それはわかってるのかね」
「それもわかりません。家の陰になってて、…。何か誰かと話してるようではありました。声を掛けようかとも思いましたが、仕事中でしたので、戻って報告する為に」
「では、鷹城さんを監禁し殺害しかけた犯人について、おまえさんはまったく心当たりがないということなのかね?随分とらしくないが」
「…課長、…。情けないですが、その通りです。もし、自分が声を掛けてれば、あんなことには、…」
問い掛けた課長を見返して答えながら途中で言葉が途切れる関に課長がいう。
「被害者があんな山奥で何をしていたかについてはわからないかい。そりゃあ、向こうさんも仕事やら何やらいろいろあるだろうから、おまえさんがこっちの仕事を優先してくれたのは、とってもらしくないが、普通の事だ。おまえさんが責任を感じることじゃあない」
「…課長」
「しかし、あちらの方々にはいつも世話になってるからねえ、…――。それに、そんな事は関係なく、凶悪犯だ。成人男子を負傷させ監禁して殺害しようと、いや、殺意があったかどうかはこれからだけどね。放置すれば死亡してた可能性は高いだろう。殺人未遂事件として、何にしてもこの犯人を捕まえなくちゃならんよ」
「その通りですよ。先輩、落ち込んでないで、事件の経緯について報告書を出してください。僕達が捜査しますから」
「…――――」
課長の言葉を引き継いで山下がいい、無言で関が頭を下げて、デスクに下がるのを二人が見送る。
生気の無い関の様子に、課長が窓際に立ったまま眉を寄せる。
「…さて、それにしても一体どんな奴が犯人何だ」
「確かに、その通りです。でも、鷹城さんの意識が戻れば犯人の特定は簡単ですよね」
課長が窓から青空を振り返り、白い雲を仰いで嘆息する。
「こんなに天気は良いっていうのになあ、…」
神奈川県警本部内にある一課の部屋は、旧庁舎の古い建物を使用している。上に少し尖った大きな観音開きの窓を持ち、高い天井に濃茶のニスが塗られた板張りの床という、レトロな建物は風情があり、建築学的に貴重な物であるらしいが。
歴史的建造物故に、改装等が禁止されている窓の古い枠越しに青空と鳴る緑の梢を眺めて、小柄な課長がもう一度溜息をつき肩を落として、書類を自分のデスクに置いている山下を振り返っていた。
「まだ意識は戻らないのかね?」
「病院からの連絡はまだありません」
「そうかい」
立ち上がり窓際をぶらぶらと歩き出す課長を山下が見つめる。
動くのも忘れたようにまるでデスクを睨むようにして、無言でいる関を同僚達が心配そうにみる。
課長の机に資料を置き、席に戻って心配そうにみていた山下が、隣の斉藤に何か話し掛けようとしたとき。
突然、無言のまま関が立ち上がり、両手をデスクについて睨むようにしているのに。
「…――おい、関、…。気持ちは解るが、落ち着け、…――その、な?」
斉藤が宥めるように話し掛ける声が届いているのか。
無言で、鬼のような形相で動かない関に。
そっと、斉藤が声を掛ける。
「関、」
「先輩?どうしました?何か、」
「…―――」
無言のまま難しい顔をして何かを見据えるように睨んで。
突然、それから廊下に視線を向けて。
無言で、そのまま一課を出ていく。
苦虫ををかみつぶしたような顔で大股に歩いていく関に、斉藤と山下が慌てて追い掛ける。
「おい、関!」
「先輩!」
廊下を足早に歩いていた関が突然立ち止まり、二人がぶつかりそうになる。
「おい、関、」
宥めるようにいう斉藤を振り向いて、関がいう。
妙に感情の見えない視線に、斉藤が思わず息を呑む。
「斉藤さん、例の報告書の後頼みます」
「…頼むっておまえ、こっちの事件はまだ、…」
「もう証言もとれて、報告書を上げるだけでしょう。頼みます」
真剣に見返す関に斉藤が唸る。
「おまえな、頼むって、…」
「頼みます」
「…鷹城さん、危ないんでしたっけ、何とか中毒になってて、」
しまった、という風に関をみてくちを噤む山下に関が答える。
完全に感情のみえない視線に、二人が揃ってくちを噤む。
「知ってる。今朝まで病院にいたんだ。斉藤さん」
「じゃ、その、…僕も行きますから」
「おまえは課長の用事があるだろ。それじゃ、後を頼みます」
「って、先輩!…斉藤さん!」
踵を返し歩き去っていく関を追い掛けようとした山下が斉藤に腕をつかまれていう。
「何で止めるんですか。先輩危ないでしょう。二人で動かないと、鷹城さんに危害を加えた奴は、まだ捕まっていないんですよ?―――それに、関さんは捜査には、」
斉藤さん、という山下に携帯を取り出しながら答える。
「わかってるよ、…けど、もう終わりがけでも現在進行中の山を二人も放り出したらまずいだろ!関だってわかってるから、今朝まで交替に警備の連中がつくまで病院にいたんだろ、一応、先生に連絡しとこう。――――――――――
…橿原さんですか?斉藤です」
「…―――」
山下がくちを結んで連絡を取る斉藤をみつめる。
「…はい、お願いします。先生の方から、はい、ええ、…はい。お願いします」
通話を切って斉藤が山下の腕を叩く。
「ほら、何してる、いくぞ。俺達も報告書を早く仕上げるんだ」
「…わかりました」
難しい顔で頷く山下に。
「関のバカが何を考えてるかは知らんが、先生に任せて、こっちをはやいとこ済ませちまおう」
一度、関が去った方角を振り向いて。
山下が促す斉藤に頷き、反対側に向けて足早に歩き出す。
山懐に近い集落の一角で、家々の僅かに並ぶ辻の端に立ちながら、関が携帯を取り出し、睨むようにして見つめていた。その番号を押そうとしたとき、着信があり思わず見つめる。
「橿原さん?」
通話に出た関が思わず内容を繰り返す。
「鷹城が、意識を取り戻した?はい、いまからいきます」
通話を切り関が駆け出す。
病室の前に、急いで走って来た関を迎えて、相変わらず感情の読めない表情で橿原が立つのに。
「橿原さん」
「関さん、はやかったですね」
「それで、鷹城は何と?」
淡々と問う橿原を無視して、急いで関が問うのに。
冷ややかとも違う、淡々とした声と視線で橿原が言葉にする。
「それなのですが、関さん」
「…どうしたんです?まさかまた容態が、」
驚いて、必死に見ていう関に、廊下に佇んで病室を眺めながら橿原が答える。
「容態は落ち着いています。問題なのは、記憶です」
「記憶?…橿原さん?」
「では、診察も終わったようですし、いきましょうか」
「…橿原さん?」
鷹城の病室から出て来る医師達と、廊下の反対側に立つ制服警官に一礼して、橿原が先に歩き出す。その後を慌てて着いていきながら、関が病室の扉を潜る。
白い病室は、明るい日射しに満ちていた。
その中に関が目を凝らし、半身を枕に支えられて起こしている鷹城の姿を見つける。
「…―――――」
息を呑んで、その呑気な笑顔が見返しているのに、関が声に詰まるような顔で見返す。
何を云うこともできずに見つめる関に。
のんびりと、鷹城があくびをして。
「やあ、あれ?橿原さんにきみまで。どうしたんですか?」
ギプスをつけた右足に、まだ左腕から点滴を受けている以外は。
蒼白い顔色ではあるけれど割に平然としてみえる鷹城に迎えられて、関が思わず睨んでから橿原をみる。
「どういうことです?普通じゃないですか、記憶がどうとかって、」
「別にちゃんと憶えてますよ。大丈夫です。けど、まあ、…。肝心な処がぼけちゃってるんですけどね、まったく」
「…肝心な処?」
橿原を睨んでいう関をいなすように、軽くいう鷹城に関が睨む。
「おまえな?何を軽く、」
怒って云い掛ける関に、橿原がその背後でのんびりとくちにする。
「そう、肝心な記憶が抜け落ちているそうです。鷹城君は、自分を襲撃した相手を憶えていないそうなのですよ」
関が鋭く鷹城を振り向く。
「…何だって?どうしてそんな間抜けなことになるんだ?襲った相手の顔を憶えてないってのか?」
睨む関に、鷹城がふくれる。
「ひどいな、間抜けってね?きみはね、」
「うるさい、間抜けは間抜けだろ!どーして憶えてないんだよ!少しは思い出せ!」
「まあ落ち着いて、関さん」
感情のこもらない橿原の声に、関が振り向いて睨む。
その隙に、鷹城が横を向いて、――――。
くちを噤み、無言で壁を見つめる鷹城の気配に、関が振り向く。
横を向いたまま、鷹城がぽつり、と云う。
握る手が白いことに、関が無言で眉を寄せる。
「―――…というより、衝撃のせいか、襲われたこと自体を何も。僕も情けないんですけどね」
「…――――」
言葉の無い関に、後ろに立ったまま淡々と橿原が云う。
「衝撃を受けた前後の記憶を喪失することはよくあることです。交通事故などでも、受傷した前後の記憶が抜け落ちていたりすることはよくあります。しかし、この場合は困りましたね」
ちら、と橿原がみるのに鷹城が溜息を吐く。
関も眉を寄せて鷹城を睨むようにする。
「そういわれましても、橿原さん。僕の記憶は、こうして病院で先程目覚めてからと、あの村を訪ねていこうとした処までしかないんです」
「じゃあ、襲われてあの小屋に監禁されてた間の記憶はないのか?」
「それ以前で、村に行こうと思ったことまでは憶えてるんですけど」
「…まったく役に立たないじゃないか」
「あのね?…何で橿原さん、関がここにいるんです?」
眉を顰めていう鷹城に、橿原があっさりと云う。
「ではやはり、君は関さんと僕が、君を救出した際のことも記憶してはいないのですね?」
「…――――御二人が?…その、橿原さんの手をどうして煩わせて、――――それに、きみがなんで?」
「…たまたま居合わせたんだよ!」
驚いてみあげる鷹城に、関が睨んでから横を向く。
「橿原さん、自分はこれで、…証言が取れないんだったら、」
「待ちなさい、関さん。では、これは憶えていますか?鷹城君」
橿原がしずかに訊ねる。
息を呑むようにして、関は何故かその問い掛けに鷹城を見詰めていた。
「君は、誰を訪ねてあの村を訪れたのですか?」
「――――…」
思わず無言で見返す鷹城を、橿原の読めない眸が見つめ返し。
そうして、その橿原と鷹城に、言葉を失くしたように関もまた、無言で見詰めていた。
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