第3話 熱気と悲鳴

 あれは、神様なんてどこにもいなかった、三年前。

 仕事を辞めた。何も考えなかった就活のせいで就いた単調な仕事、なのに分量は多い。目まぐるしい職場についていけず、ある朝玄関から足が動かなくなった。

 それから、起きている間はずっとスマホを見ていた。休みの日に読もうとしていた積読は、ずっと積まれたままだった。今までの忙しさを取り返すように、日々を無益に潰した。

 だから、あの作品に出会ったのは、ただの偶然だ。

 以前見ていたアニメの原作が、小説投稿サイトにあると知ってサイトを眺めていた。星の数ほどありそうな特集から、気を引かれたページをクリックした。

 そこから気がつくと三時間経っていたし、サイトのアカウントを作っていた。

 ザ、ネット小説とも呼べるような異世界モノだ。ある致命的な弱点を持った勇者の冒険譚。高校生のときの俺なら絶対に読まない。元々俺は、わざとらしいエンタメは苦手だった。

 だが、ワクワクした。読んでいる間、薄暗い現実世界は存在しないも同然だった。事件は予期できない予定調和で起こり、キャラはどれも個性的でぶっ飛んでるのに感情が痛いほど理解できた。

 読み終わって、レビュー欄があるのを知った。傲慢にも、作品を評価できるらしい。急いでメールアドレスを登録して、星を三回押した。

 サイトの機能を見ようと、マイページを見る。……ワークスペース?

 どうやら小説を書くこともできるようだ。この神作品の裏に、どれだけの無名の屍がいるのだろうか、なんてそのときは想像するだけだった。


 あれから何作書いたのか、覚えていない。長い小説は書けず、どんなに深いものを書こうとしても二万字以内に収まってしまうから、大きな賞には出せなかった。小さい自主企画と短編のコンテストに、開催趣旨とは合わないほどの暗い文章を書いた。所謂「受賞」はしたことがない。

 今回も同じだろうと分かっていた。別に神様の声が聞こえようが聞こえまいが、俺が書けるものは変わらない。書きたいから書いているのとは違う。書かなければおかしくなってしまいそうのだ。

 小学校の薄汚れた学級文庫を一人で読む話、中学の授業で寝たふりをして教室に隕石が落ちるのを想像する話、高校で唯一の友人が学校に来なくなってしまう話、職場で簡単な書類をミスしてトイレに籠もる話、一日中布団から出ずに天井の模様を見つめる話。

 全部、俺だった。一人称は「私」「僕」「俺」の三種類を使って誤魔化した気になっているが、そもそも三人称が書けない時点でお察しだろう。俺は、この二十年ちょっとかけて沈みきってしまった俺自身を、小説の力でどうにか掬おうとしている。

 だから、面白いはずはなかった。それでいいと思った。俺のための小説なのだから。

 なのにどうして、全世界から見られる可能性のあるインターネットに、わざわざ霧野塞なんていう名前まで作って投稿するのか?

 承認欲求? 違う。投稿したところで、コンテストや企画に参加したところで、何も起こらない。数字を見ていれば分かる。それでも俺は数年間、懲りもせずに書き連ねてきた。

 今は、俺の無職執筆生活のわずかな人とのつながりを、惜しみげもなく開示している。楽しくはない。時折、主人公「私」が、本当に俺なのではないかと勘違いする。いや、俺よりもちゃんと生きていて、主人公に値する人物だと思う。変だ。モデルは俺なのに。

 今日に限って、神様の声は聞こえない。あのバカ明るい声がないことで集中できるが、自分の書くフィクションに飲み込まれそうになるのが、少し怖かった。

 キーボードから壊れるかと思うくらい大きな音がして、自分の改行が強すぎたと気づく。だけど止まらず、文字数は増え続ける。

 

「何をしてるんですか?」

 すっかりお馴染みになってしまった神様の声に、俺は驚いた。今は執筆中ではなかったからだ。

「SNS徘徊。あ、SNSって分かるか? 同じ趣味の人が情報を――」

 俺の言葉を遮って神様は笑った。

「分かりますよ。ネット上の企画の神である私にとって、SNSの熱気というのは大きな糧になりますから」

 随分現代的な神様だ。説明の手間が省けた。

「熱気ねえ。俺にはさ、悲鳴にしか見えないんだけど」

 タイムラインには、締め切りの近さを嘆いたり、文学賞の一次に落ちたことを報告したりする文言があふれていた。誰にも読まれない長編の更新投稿や、一つのいいねすらつかない同人誌の告知。それらに比べれば、ときにはバズりすらする受賞報告はほんの一握りだ。

 はあ、と溜め息をついて思わず口が動く。

「人の不幸を食らって良いご身分なんじゃない?」

 言ってから、あまりに攻撃的だと後悔した。でも事実だ。

「神輿を担ぐ掛け声」

 急に声が低くなる。怒ったのかもしれない。

「神輿を担ぐ声を発する理由が、熱狂だろうと哀泣だろうと、気にする神がどこにいるというのですか?」

 それっきり、神様は現れなくなった。

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