ひとつ屋根の下で、君と過ごす幸せ

春風秋雄

何で親父は甲賀にいるのだ?

10年近く音信不通だった親父からいきなりハガキが来た。頼みたいことがあるから近々来てほしいと、住所が書いてあった。何の話か分からないので、連絡をしたかったが、電話番号は書かれていない。住所は滋賀県甲賀市になっている。何で甲賀なんかに住んでいるのだ?忍者にでもなったのか?

書かれている住所を地図で調べていると、甲賀市は「こうがし」ではなく「こうかし」と読むらしい。今まで「こうがし」だと思っていた。

東京から行くには、新幹線で京都まで行き、そこから在来線で草津へ行き、草津で乗り換えて甲賀駅というルートが最短のようだ。親子の縁は切れたようなものだが、一応父親だし、今の状況は気になる。それに草津とか甲賀とか、行ったことがない土地には興味があり、旅行がてら行ってみる気になった。カレンダーを見ながら来月の連休に行くと、親父に返事を書いた。


俺の名前は有本孝之。34歳の独身だ。東京の下町に住んでいる。親父が中古で購入した家だ。もう築30年は経っている。俺が高校2年の時にお袋が病気で亡くなった。それから親父と二人で暮らしていた。親父は職を転々としながらも、俺を大学まで行かせてくれた。そして大学を卒業して就職が決まると、当面の生活費だけ置いて、親父はどこかへ行ってしまった。最初の3ヶ月くらいは2週間に1回程度の割合で電話がかかってきていたが、俺の生活が安定していると知ってからは、連絡が途絶えた。携帯電話の番号も変わっていて、こちらから連絡を取ることもできなくなった。親父は俺が子供の頃からフラっといなくなって2~3か月帰らないことが度々あった。お袋に聞くと、仕事で遠くへ行っていると言っていた。俺は親父がどんな仕事をしているのか、全く知らなかった。学校へ提出する家族名簿の父親の仕事欄には「自由業」と書かれているだけだった。それでもちゃんと家族を養い、中古とはいえ家まで購入しているのだから、それなりに稼いでいたのだろう。


甲賀駅に着き、タクシーでハガキに書かれていた住所まで行ってもらう。タクシーを降りると、閑静な住宅街に建つアパートがあった。ハガキに書いてあったアパート名で間違いない。俺は階段で2階にあがり、203号室を探す。表札は出ていないが、203号室の呼び鈴を鳴らした。しばらくしてドアが開いた。

「おう、孝之。久しぶりだな」

髪を伸ばし、顔半分は髭に覆われていて人相がかなり変わっていたが、親父だった。

「突っ立ってないであがれよ」

親父に促されて中に入る。玄関のたたきに子供用の履物があった。親父には隠し子がいたのか?俺の兄弟か?

部屋に上がると意外に広く、2LDKの間取りのようだ。ダイニングテーブルに可愛い女の子が座っていた。小学校の低学年だろうか。親父は今年還暦を迎えたはずだ。そんな年で子供を作ってどうするんだよ。俺は驚いて立ちすくんでいると、親父にとりあえず座れと言われ、女の子の斜向かいの椅子に座る。親父が冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出して俺の前に置いた。

「とりあえず紹介するよ。谷川由衣ちゃんだ」

「初めまして、有本孝之です」

「おじちゃんは、幸太郎おじちゃんの子供?」

幸太郎おじちゃん?幸太郎は親父の名前だ。お父さんとは呼ばずにおじちゃんと呼ぶということは、親父の子供ではないのか。

「そうだよ。由衣ちゃんは今いくつ?」

「8歳」

「孝之、お前に頼みたいことがあるんだ」

「ハガキにも書いてあったけど、一体なんなの?」

「由衣ちゃんを、しばらく孝之のところで預かってほしいんだ」

「ええ?どういうこと?」

「俺、もう少ししたらボリビアへ行かなければならないんだ。3年くらいは向こうで暮らすことになる」

ボリビアって、どこだっけ?

「由衣ちゃんのお母さんはちょっと事情があって、しばらく家に帰れないんだ。それで、俺がいなくなると由衣ちゃんの面倒をみる人がいないので、孝之に頼みたいんだ」

「この子のお父さんは?」

「お父さんはいない」

もっと詳しい事情を聞きたかったが、親父は話をはぐらかし、今日は泊っていけと言う。どうやら由衣ちゃんには聞かせたくない話のようだった。


夜になり、由衣ちゃんが寝てから、親父は俺にビールを勧めながら、いきなり話し出した。

「由衣ちゃんのお母さんは、今刑務所にいるんだ」

唐突に始まったその話は想像を絶した。

由衣ちゃんのお母さん、谷川智絵さんは英語が堪能で、海外の会社と取引する親父の仕事を手伝っていたそうだ。ところが、仕事が忙しくなると遅い時間まで手伝ってもらうことが多くなり、それを旦那さんが怪しんだ。親父と智絵さんが出来ているのではないかと勘違いした旦那さんは、ある日親父の事務所に包丁を持って乗り込んできた。事務所に入ってきた旦那さんは酒に酔っていたのだろう、目が座っていた。普段は大人しい人らしいが、酒が入ると人が変わり、智絵さんや由衣ちゃんに暴力を振るうことが度々あったらしい。智絵さんはこんな時の旦那さんは何を仕出かすかわからないと警戒していたところ、訳のわからないことを一方的に捲し立てた旦那さんは、親父に向かって包丁を突き刺そうとした。まずいと思った智絵さんは、事務所に置いてあった作業用の角材の1本を持って旦那さんの頭を殴った。旦那さんは頭を押さえて一瞬動きが止まったが、いきなり立ち上がり智絵さんをにらみつけた。すると智絵さんは追い打ちをかけるようにもう一度角材を振り回した。旦那さんはそれを避けようとしてふらつき、風を通すために開けていた窓から転落した。事務所は2階だったのでヤバイと思い、すぐに救急車を呼んだが、打ち所が悪く、旦那さんは帰らぬ人となった。事情が事情なので、情状酌量が認められ、執行猶予が付くと思っていたのに、判決は3年6ヶ月の実刑だった。それが2年前のことだという。

「というわけで、智絵さんは俺を助けようとして由衣ちゃんを残して刑務所へ行くことになったわけだから、由衣ちゃんは俺が面倒を見ることにしたんだ」

「智絵さんのご両親や兄弟はいないのか?」

「智絵さんは幼いときに両親を亡くして、親戚の家で育てられたそうだ。だからやっとできた家族なので、どんなに旦那さんから暴力を振るわれても離婚は考えなかったそうだ」

「由衣ちゃんの小学校はどうするんだよ?」

「もう転校の手続きは終わっている。お前が通っていた小学校だ」

「俺はまだ引き受けるとは言ってないぞ」

「あの家は俺の家だ。お前が反対しようがどうしようが、由衣ちゃんをあの家に住まわすということは俺が決めたことだ。孝之に頼みたいのは、まだ8歳の子供なんだから、智絵さんが帰ってくるまでの間、食事とか、買い物だとかの世話をお前に頼みたいんだ」

「俺が結婚していたらどうしていたんだ。結婚してたら俺一人の一存では決められなかったぞ」

「お前が結婚していないということは住民票をとって確認してある」

どうやら俺に拒否権はないようだ。智絵さんの刑期はあと1年半ある。


由衣ちゃんは人懐こい子供だった。俺のことを孝之おじちゃんと呼んで、お手伝いもしてくれる。お母さんがいないのに、俺の前では寂しそうな顔は一切しない。見た目は元気に振舞っていた。学校にも慣れたようで、友達も出来たと言っている。しかし、俺が風呂からあがると、お母さんがくれたという縫いぐるみを抱えて寂しそうにジッとしていることがたまにある。お母さんに会いたいのだろうなと思うが、親父から面会には連れて行かないように釘をさされた。母親からの頼みらしい。今はわからなくても、大きくなってから、会いに行った場所は刑務所だったんだと理解する。そんな記憶を残してほしくないということだった。

智絵さんとは手紙のやり取りを始めた。手紙の出し方などは親父に最初に教わった。手紙を出すのは月に1回程度にし、内容に気を付けるように言われた。内容を検査される可能性があるということもあるが、それよりも智絵さんの心を乱すような内容は避けろと言われた。由衣ちゃんが病気をしたとか、学校になじめないといったネガティブな内容は絶対に書かないようにしろときつく言われた。俺は由衣ちゃんは元気でやっているということを淡々と書くようにした。

智絵さんが収監されている刑務所は栃木県にあった。一度面会に行こうと思ったが、事前の予約は出来ず、しかも面会日は平日のみという条件のうえに、親族でもない俺の面会が許可されるかどうかもわからないので、結局行かずじまいだった。その代わり、本などの差し入れは郵送で何度か送っている。


刑期が終わるのは来年だと思っていたが、仮釈放が認められたということで、由衣ちゃんを預かって1年足らずで智絵さんが出てくることになった。俺が身元引受人になっているので、さすがにその日は有給休暇をとって、栃木まで迎えに行った。親父からもらった写真で智絵さんの顔は知っているつもりだし、人柄なども聞いていたが、実際に会うのは初めてなので、どんな人なのか会ってみるまで不安だった。ところが、出てきた智絵さんは、写真と違い化粧けもなく、素朴な32歳の女性だった。

「初めまして。有本の息子の有本孝之です」

智絵さんはジッと俺の顔をみて微笑んだ。

「お父様にそっくりですね。谷川智絵です。娘が本当にお世話になりました」

智絵さんの声は、心地よい響きを持った優しい声だった。そして、微笑んだ顔は、化粧をしていないのに、とても綺麗だった。


家に帰り、これからの生活のことをあれこれ話していると、由衣ちゃんが「ただいま」と言って学校から帰ってきた。その声を聞くなり智絵さんが「由衣!」と呼びかける。由衣ちゃんは俺たちがいる部屋に駆けて来て、お母さんの顔を見るなりお母さんに抱きついた。智絵さんが「ごめんね。ごめんね」と泣きながら由衣ちゃんを抱きしめる。すると、今まであれだけ気丈に振舞っていた由衣ちゃんが、堰を切ったように大きな声で泣き出した。今まで精いっぱい自分の気持ちを封じ込めて我慢していたのだろう。二人の泣き声は、いつまでも止みそうにない。俺はそっとその場を立ち去り、自分の部屋に行った。


仮釈放されたからと言って、刑期が終わったわけではない。あと半年ちょっとの間は大人しくしていなければならない。谷川親子が増えたからといって、生活費は俺一人で生活していた時とそれほど変わらない。それに由衣ちゃんを預かるようになってから親父から毎月一定額のお金が振り込まれてくる。俺は智絵さんに、刑期が無事終わるまでは働かずに、家事に専念してもらうように伝えた。


出所したばかりの智絵さんは、刑務所暮らしの延長線上にいるようで、いつも緊張しているような顔をしていたが、次第に表情が柔らかくなってきた。由衣ちゃんと話している姿は、幸せなお母さんの顔をしている。そして、薄くではあるが化粧もするようになり、女性としてもあか抜けてきた。俺の心はざわつき始めた。このまま同じ屋根の下で、あと半年も一緒に暮らすのかと思うと、嬉しい反面、自分の気持ちを抑えるのが大変だと思わずにはいられない。

智絵さんが作る料理はとても美味しかった。お袋がいなくなってからは、ほとんどコンビニ弁当か外食だったので、煮物などの家庭料理は懐かしかった。この年になるまで結婚生活を意識したことはなかったが、食卓を3人で囲んで食べる食事は良いものだと、改めて感じた。

智絵さんを女性として意識し始めると、親父との関係が気になってきた。本当に何もなかったのだろうか。ゲスの勘繰りだとは思うが、親父がここまで智絵さんに尽くしていることを考えると疑いたくなる。ある日、由衣ちゃんが寝て二人でお茶を飲んでいるとき、俺は思い切って聞いてみた。

「智絵さんと親父は、旦那さんが疑うようなことは本当になかったのですか?」

失礼なことを聞いている自覚はあったが、智絵さんは意に介してないようにニコッと笑った。

「お父様を信用されていないのですか?」

「そんなことはないですけど、もともと親父は家にいないことが多かったですから、親父のことはよくわからないのです」

「有本さんは、本当にあなたのお母さまのことを愛していたのだと思います。そして、その気持ちは今も変わっていないと思います」

「そうなのですか?」

「一度、亡くなった奥様は、どういう方だったのですかと聞いたことがあります。すると有本さんは、本当に嬉しそうな顔をして、奥様のことを話して下さいました。そして、仕事とはいえ、奥様と一緒に過ごす時間をなかなか取れなかったことを悔やんでいらっしゃいました。そして、奥様が亡くなったときは本当に辛くて、あの家にいると奥さまのことを思い出して、何もやる気にならず、奥様のところへ行きたくなる衝動を抑えるのに必死だったそうです。だから、孝之さんが独り立ちしたのを機会に、孝之さんには申し訳なかったけど、家を出る決心をしたのだとおっしゃっていました」

そうだったのか。俺はお袋と暮らした家を出ていくなんて、なんて薄情な親父だと思っていたが、逆だったのだ。

「なんて素敵な夫婦だろうと思いました。私もこんなふうに愛されてみたいと思いました。それに比べてうちの旦那は、という思いもあって、あんなことになったのかもしれません」

意図せず辛いことを思い出させてしまい、俺は何といえばよいのかわからなかった。


智絵さんの仮釈放の満了日が来た。刑期が明けたのだ。俺は仕事帰りにワインを1本買って帰った。家に帰ると、お祝いという感じはなく、ごく普通の食卓だった。

「そのワイン、どうしたのですか?」

智絵さんが聞いてきた。

「今日はお祝いだと思って買ってきたんだけど」

俺がそう言うと智絵さんは戸惑った顔をした。そうか、由衣ちゃんの前では大っぴらにしたくないのか。

「何のお祝い?」

由衣ちゃんが聞いてきた。

「今日はおじさんにちょっと良いことがあったから、そのお祝い」

「良いことって、何?」

「それは内緒」

俺はそう言ってごまかすのがやっとだった。


由衣ちゃんを寝かしつけたあと、智絵さんがリビングに戻ってきた。そして俺が買ってきたワインとグラスを二つテーブルに置く。

「せっかくだから、頂きます」

智絵さんはそう言ってワインを二つのグラスに注ぐ。

「じゃあ改めて、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

グラスの半分くらいワインを飲んだところで、智絵さんが切り出した。

「明日から仕事探しを始めます。仕事が決まって、少しお金が貯まったらここを出ていきますので、もう少しの間お世話になってもいいですか?」

「それは全然かまいません。というか、ずっとここにいてもらってもいいですよ」

「そういうわけにはいきませんよ。私たち親子がここにいては、孝之さんは彼女も作れないじゃないですか」

「私は、智絵さんも由衣ちゃんも大好きです。こう見えても私の収入はそこそこあります。智絵さんが働かなくても十分生活は出来ます。だから、ここに一緒にいてくれませんか?」

智絵さんはしばらく考えるようにジッと俺の顔を見ていた。そして、口を開いた。

「私は前科持ちです。これから先、私と一緒にいることで孝之さんに迷惑をかけることがあると思います。だから、私たちはここから出ていきます。孝之さんは、孝之さんに相応しい、身の綺麗な女性を見つけて、お父様と同じように幸せな夫婦になってください」

「私は、そんなこと気にしません。だから・・・」

「私は先に休みますね。洗い物は明日しますので、このまま置いといてください」

智絵さんはそう言うと、自分の部屋に行ってしまった。


翌日から智絵さんは仕事探しに出かけた。ハローワークへ行き、リクルート情報誌を買いあさり、とにかく職を選ばず、片っ端から面接を受けているようだ。しかし、どこも採用通知を出してくれなかった。前科は先方から賞罰について質問を受けた際は正直に申告しなければならないが、自己申告の義務はない。最近の履歴書には賞罰の記入欄がないので、記入しなければ相手にはわからないことだ。ところが智絵さんは、あとあと分かったときに嫌な思いをするよりもと、聞かれてもいないのに、正直に自己申告しているようだ。誰でも良いので早急に採用したいという企業でない限り、やはり前科を持っていると、敬遠されてしまうのだろう。最初は意気込んで就活をしていた智絵さんだったが、1か月近く経つと、疲弊してきているようだった。

「智絵さん、就活は苦労しているみたいですね」

「ごめんなさい。何とか仕事を見つけますので、もう少しここに置いてください」

「そんなことは良いのです。それより、以前言っていた、ここに一緒に住むということを、もう一度考えてもらえませんか?」

「それはこの前お答えしたように・・・」

「智絵さんが嫌なら、私と夫婦になる必要はありません。寝室も今のまま別々で構いません。私は智絵さんと夫婦にならなくても、智絵さんと由衣ちゃんがそばにいるだけで幸せです。お袋がいなくなって18年になります。親父は1年のうち半分近くは家にいませんでした。その親父も12年前に家を出て、それ以来私は独りで暮らしてきました。こんな暖かい家庭は正直初めてなんです。もし智絵さんたちがこの家を出て行ってしまったら、私はあの寂しい生活に戻ってしまいます。それより、あれだけ楽しそうにしている由衣ちゃんが、可哀そうです。智絵さんと二人で暮らすようになれば、由衣ちゃんが学校から帰ってきたとき、お母さんはいない。智絵さんは働きながらでは、今のような、あんな手の込んだ料理は作れないでしょう。私が経験したお袋がいなくなってからのような寂しい思いを、あの小さな由衣ちゃんにさせたくありません。だから、もう一度考えてもらえませんか」

智絵さんは、何も答えずジッと下を向いていた。

「じゃあ、今日は先に休みます」

俺はそう言って寝室へ向かった。


俺がベッドに入ってウトウトしかけたころ、部屋のドアの向こうで声がした。

「孝之さん、もう寝ましたか?」

智絵さんの声だった。

「いや、大丈夫ですよ。入ってください」

引き戸が開き、智絵さんが入ってきてベッドの下で正座をした。

「さっきの話、本当に夫婦にならなくてもいいのですか?」

やはり、俺と夫婦になることに抵抗があったのか。俺はイケメンでもなんでもない。これだけの美人と夫婦になるというのは烏滸がましいよな。

「夫婦になる必要はないですし、寝室も別でかまいませんよ。私は一緒に暮らしてくれる家族がほしいのです」

「夫婦にならなくて良いのであれば、私たち親子をここに置いてください」

「よかった。嬉しいです」

「でも、夫婦にはなりませんが、寝室は一緒にしてください」

「どういうことですか?」

「夫婦になるということは、籍を入れるということです。それでは孝之さんに迷惑をかけることになります。孝之さんの戸籍を私の名前で汚してほしくないのです。でも、私はずっと前から、塀の向こうで孝之さんと手紙のやり取りをしているときから、孝之さんが好きでした。孝之さんの手紙でどれほど励まされたか。孝之さんの優しさが伝わってきました。そして、一緒に暮らすようになって、その気持ちは本当になってきました。夫婦になれない以上、これ以上ここにいたら苦しくなるだけだと思っていました。でも夫婦にならなくてもここに置いてくれるのであれば、寝室は一緒にしてください」

「智絵さん・・・」

智絵さんはゆっくりと立ち上がり、俺のベッドに入ってきた。


親父が一時帰国で日本に帰ってきた。電話では今までの経緯は伝えてあったので、様子を見たいのもあって、久しぶりに自分の家に帰ってきた。

「お前ら、やっぱりそうなったか」

親父の第一声はそれだった。

「そうなると思っていたの?」

「孝之の性格なら、この親子を放っておけないだろ?それに智絵さんはあれだけの美人なのだから」

「でも、智絵さんは籍は入れないと言い張っているんだ」

「由衣ちゃんのことを考えたら父親はいた方が良いだろうな。智絵さん、東京というところは、甲賀と違って、自分に関わりのない他人様のことは気にしないものだ。孝之の会社はそんなことで出世に関わるような会社でもないし、時機を見て籍を入れることも考えたらいいと思うよ」

智絵さんはかすかに頷いた。

「それより孝之、智絵さんはお務めは終わったとはいえ、旦那さんのことは一生抱えていかなければならないことだ。孝之も智絵さんと一緒に抱えていく覚悟をしなければいけないぞ」

「わかっている。智絵さんと墓参りにも一緒に行っている」

「そうか。それならいい。俺も墓参りには行ってきた」

「それより父さん、そろそろこの家に帰ってこないか?」

「俺のことは放っておいてくれ」

「母さんは今もこの家にいるよ。この家にいて、いつも俺を見守ってくれていると感じるんだ。父さんがいないと、母さんは寂しがると思うよ。何より、俺は父さんと一緒に暮らしたいんだ。家族なんだから」

親父は何も言わずチラッと俺を見たあと、天井をぐるりと見渡した。

「母さんは、いるのかなぁ」

「間違いなく、いるよ」

俺がそう言うと、親父は手に持っていた缶ビールをぐびっと一口飲んだ。

俺は近い将来に、この家で4人で暮らす暖かい家庭が想像できた。


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