ハカモリ図書館の孕ム本

エノウエハルカ

№1 『月が綺麗ですね』

 『月がきれいですね』、なんて誰かに愛を告白したことはあるだろうか?


 陳腐で、気障ったらしくて、なのに垢抜けない借り物の愛の言葉だ。


 とてもじゃないけど素面では口に出せない恥ずかしいセリフに順位をつけるとしたら、結構上位に食い込むことは間違いない。


 けど――僕は一度だけ、その愛の告白を口にしたことがある。


 


 


 あれは日が落ちるのが段々と早くなってきた晩秋のころの話だった。暑さもすっかり去り、蝉は死に絶え、静寂の冬がやってくる予感が日に日に近づいてくる十一月のことだ。


 何の変哲もない高校一年生の僕は当時から、部員数たったの二名という文芸同好会に所属していて、根城である図書館の第三自習室にこもって黙々と本を読んでいた。


 たしかあの時読んでいたのは安吾の『堕落論』で、102ページあたりで目が疲れてふと文字列から視線を上げた。


 十一月に入って早くも導入された古い空調設備が喘息のように空気を吐く音の他には、遠くで鳴る救急車のサイレンくらいしかない静かな室内。


 それもそのはず、グラウンドで練習に励んでいた運動部の連中はもう帰り支度を始めていて、外はすっかり暗くなってしまっている。


 窓の外に目をやれば、東の空に満月までまだ少し間がありそうな太りかけの月が浮かんでいた。手のひらでつかんで捻ればレモンのように果汁が搾り取れそうな、潤んだ月。


 窓の外に顔を向けたまま、向かいの席に座っている人物に視線だけをこっそり向ける。


 その人物はちょうど、白くて細長い指で古い本のページをめくっているところだった。タイトルは忘れたけど、たしか永井荷風だった。


 蛍光灯が照らし出す中、静かに文字を追う目元には長い睫の影が落ちている。緩く編んだ三つ編みを校則通りに着込んだ制服の肩に垂らし、少し猫背気味の姿勢で机の上に本を開いている。細い手首になめらかな白い肌、切れ長の涼しげな瞳にスカートから伸びる華奢なタイツの脚。


 文学少女、と聞いて真っ先に思い浮かぶであろう姿がそこにあった。決して溌剌とした輝くような女子高生らしい雰囲気ではないが、繊細で儚げで、知的で気だるい、そしてそこはかとないエロスを醸し出す少女だった。


 少女と言っても、僕より一つ上の二年生だ。


 姓は薄荷森、名は栞。たった二人の文芸同好会の残り一名。


 そして、僕が一目で恋に落ちた相手だった。


 入学当初、強制的にどこかの部活に所属しなくてはいけない校則を煩わしく思いながら、自他ともに認める読書狂である僕が選んだのは、部活紹介にも参加しておらずひっそりと掲示板の部活目録に名前を記すのみの文芸同好会だった。


 ここなら部活仲間だ部活動だという面倒なことも起こらない、好きな本だけを読んでいればいいだけだろうと踏んでのことだった。


 人間関係なんてものを醸成するつもりは端からさらさらなかった。


 人生において必要なものは大抵本で補える。本さえ読んでいれば様々なことを疑似体験できるし、知識は吸収できるし、楽しい思いもできる。わざわざ面倒くさい人間関係を維持する必要なんてない。


 時間の無駄だ、そんなことにかまけている暇があれば一冊でも、一ページでも、一行でも、一文字でも多く本を読むべきだ。


 という持論のもと、僕は一切の人間関係を意図的に捨て去っていた。


 同好会なので部室もない、根城であるという図書館の第三自習室に入部届を持って行った僕を出迎えたのは、挨拶もロクにせず山積みにした本を片っ端から読みまくっている一人の少女だった。


 好みのタイプは、と聞かれれば即座に文学少女、と答えることにしている僕にとって、読書に耽るその白皙の容貌はまさに理想のそれだった。


 ぼうっと見とれている内にやっと顔を上げた少女は、本を閉じて『ようこそ』とだけ告げて口元だけで笑った。目は細められているだけで笑っていない。慌てて入部届を出せば、咎城漣矢、という僕の名前を呟いて鼻を鳴らす。


 名前を聞けば僕同様変わった苗字が聞き取れた。薄荷森先輩ですね、と確認のために尋ねれば少女は自嘲気味に笑って、『私を薄荷森なんて呼ぶ人間はいないよ。みんなと同じように、気軽にハカモリ先輩と呼んでくれ』とまた本を開いた。


 ――それが、ハカモリ先輩という文学少女とのファーストコンタクトであり、僕が恋に落ちた事の顛末だった。


 その恋を育み、春が過ぎ夏が過ぎ、秋が過ぎようとしている。会話らしい会話はあまりせず、こうして図書館の第三自習室にこもって放課後に二人っきりで本を読む日々を淡々と送っていた。が、僕はそれで満足だった。


 風の噂で聞いたことだけど、ハカモリ先輩はいわゆる保健室登校生徒らしく、マトモに出てくるのはこの文芸同好会だけらしい。


 それはそうだろう、真面目にお勉強をして浮ついたクラスメイトと談笑する文学少女というのもイマイチ僕のイメージに沿わない。知的なアウトロー、それが僕なりの文学少女観だ。


 それに、ハカモリ先輩が僕とだけ一緒に時を過ごすことを選び、僕とだけ言葉を交わすことを許してくれたことが嬉しかった。


 要するに自惚れていたのだ。


 自惚れていた僕は、十一月、つまり現在になってハカモリ先輩に思いを告げることを決意して、虎視眈々と機会をうかがっていた。


 そして今、そのチャンスがやってきた。二人きりの自習室、夜もやってきてムードは満点、おあつらえ向きに月ものぼり、辺りは静まり返っている。


「……ハカモリ先輩」


 安吾を閉じ、僕は窓の外の月から視線を外さないまま呼びかけた。


「ん」


 ハカモリ先輩は本から目を離さず、短い声だけで応じる。いつもの反応だ。


「月が、」


 決めゼリフを拝借することを心の中で漱石に詫び、息を吸い込む。


 これから口にするのは特別な言葉だ。一世一代の大舞台に立っていると言っても過言ではないだろう。トチってはいけないし、小さな声でもいけない。


 丁寧に丁寧に、吐き出す息に乗せて、僕は有名な愛の告白のセリフをなぞった。


「……『月が、きれいですね』」


 先輩のページをめくる手が、止まった。


 先輩は本を読んでいた時と変わらない、どこか厭世的な表情で目を細め、ふぅ、と短い息をこぼした。月と同じ、レモンのような瑞々しい吐息。


 それだけで期待してしまって、僕はどんな文学的な返事が返ってくるのだろうと内心わくわくしながら先輩を見やった。


 先輩は本を広げたまま、窓の外に目をやる。その目線の先には熟れかけた月がたしかにあった。


 あった、はずなのに。


「――月なんて、どこにも出ていないじゃないか」


 返ってきたのは、そんな文言。


 文学的でも何でもない、けれど明らかな拒絶の言葉。


 そのまま読書を再開した彼女を前に、僕は最初、ぽかんと間抜け面で凍り付いていた。


 こんなの、想定外だ。てっきり先輩らしいさらりとした、それでいてウィットに富んだ愛の言葉が返ってくると思っていたのに。


 僕らの過ごした時間は、そういう結末を用意してくれているのだと思い込んでいたのに。


 しばらくの間唖然としていると、やがて拒絶されたのだという事実がジワジワと僕の中に染み広がっていった。あれが愛の言葉だと分からない先輩ではないはずだし、第一月はたしかに空にある。


 玉砕以外の何ものでもない。


 つまりは振られてしまったのだ、僕は。


 「そう、ですね」


 それ以外に何と言えたのだろう。僕は月が出ていないという虚構を受け止めるフリをして、そそくさと引き下がった。


 『堕落論』の102ページ目。もう過去に何度か読んだはずなのに、そこから先が認識できない。視線が文字列を上滑りする。


 先輩は何事もなかったかのように永井荷風を読み続け、空調は喘息のような音を立てて生ぬるい空気を吐きだすことをやめず、ないと言われた月は変わらずそこに浮かび、日常は非日常になることもなく淡々と続いていく。


 僕が愛の告白に失敗した、という事実だけを残して。

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