第5話 バイカル湖

九月二十四日(火)

 バイカル湖湖畔の町、リストヴャンカを目指す。市場の近くで乗車した十時三十分発のミニバスは冷や汗をかくほど運転が荒かった。恐怖のあまり、車酔いする間もなかったくらいだ。

 湖畔のホテルに荷物を置き、散歩がてら、湖畔を数キロ散策しつつ博物館へ行った。生まれ育ちも大学も仕事も、水と縁のある自分だが、これまでの私にとって巨大な水塊はすべからく海でありその水は塩辛いものだった。硫化ジメチル臭磯のにおいがして、海藻が生えていて、波打ち際はしばしば泡立つ。私のそのアイデンティティは、いま、圧倒的な迫力で覆されようとしている。はるか一面、清らかな水と書いて清水せいすい、つまり淡水。磯臭さのまるでない、低粘度の澄んだ水が、ぴちゃんぴちゃんと軽やかに寄せるのどかな岸辺。桟橋が突き出し、はるか沖を船が走り、水平線がくっきりと見えるこの巨大な水たまりが、すべて淡水。実感できなかった私が岸辺で最初にやったのは、水をなめてみることだった。しょっぱくない。頼りない味わいとその巨大なスケールとのミスマッチ。

 結局、見ても、嗅いでも、舐めても、どうやっても納得がいかなかった。

 小一時間歩いて着いた博物館には水族館もあった。彼女はバイカルアザラシが見たいのだと言う。なにそれ? バイカルアザラシとは、世界で唯一、淡水域にのみ生息するアザラシらしい。はち切れそうな紡錘形の体に巨大な瞳が特徴だ。それが目の前を誘うように泳ぐ。私たち二人以外に見物客はいない。贅沢なひとときだった。

 私はオームリが見たかった。バイカル湖というのは世界でも古い湖の一つで、そこには独自の生態系がある。バイカル湖にのみ生息する生物、すなわち固有種がきわめて多いのだ。オームリもその一種である。魚らしい形の魚で、この燻製が絶品らしい。でも燻製の前に、まずは、なまを堪能したい。深く、澄んだバイカル湖を模しているのだろうか、青く塗られた水槽には仄かな明かりだけが灯っている。ときおり銀のうろこをきらりと光らせながらオームリは泳ぐ。その姿は美しくてちょっと寂しかった。

 その日の夕食は湖畔のレストランに行った。オームリが食べたい私のリクエストである。案内されたレストランの二階にはまだほとんど客はおらず、窓から差し込む夕日が空のテーブルに並べられたカットグラスをきらめかせていた。念願の冷燻製オームリ(380ルーブル)はレモンとハーブバターが添えられたマリネ風で、ビールによく合った。ここのビール(150ルーブル)は500 mLだった。   

 夕食のあと、酔い覚ましに、しばらく暮れなずむ湖畔に坐っていた。暗くなるにつれ星が輝きを増し、波の打ち寄せる音がひときわ高くなり、隣では憧れのZさんが気だるげに――ひとりでワインを一本空けたので――湖を見つめている。天国の前借りだ、そう思った。


九月二十五日(水)

 昨日散策したのと反対方向に向かって歩いてみる。すると、オームリの燻製屋がいくらでもあるではないか。燻製屋といっても、民家の庭先に燻製を並べている感じだ。お土産に一枚買った。

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