第3話 いざ、ロシアへ!

九月十九日(木)

 ロシアに行くときの心構えは? もしもそう問われたなら、こう言おう:トイレに紙を流すな!

 事前の情報収集でそのことを知ったときには驚いた。さすがにホテルはもう違うだろうと思っていたが、甘かった。列車はもちろん、宿泊したホテルは全て、便器の脇に専用のゴミ箱があった。うっかりすると、すぐに便器内に紙を落としそうになる。要注意だ。

 ヴラジヴァストーク空港に着くと、当面のルーブル(10,000ルーブル、17,000円程度)をATMで引き出してから宿を目指した。飛行機の到着時刻の関係で、空港と市街地を結ぶバスはもう終わっている。タクシーを利用せねばならない。金髪のおばさまが座るインフォメーションにおそるおそる近づき、タクシーを呼んでもらいたいと願い出た。おばさまは気さくな笑顔で手配してくれた。ロシア語で何か話しかけてくれたけれど、わからない。でも彼女の笑顔のおかげで緊張がかなりほぐれた。

 ホテルのフロントには若い女性が一人いた。この子もまたにこやかだ。鍵を受け取り、部屋に入る。途端に膝が頽れるほどの疲労感に見舞われた。顔を洗い、少し休み、荷物を整理していると、ドアがそっと開かれた。入ってきたのは、小さなZさんの姿だ! 彼女に会うのはこれが初めてというわけではなく、関東のクラフトビール工場で、できたてビールを片手にすでに緊張の初対面を済ませていた。しかし、海外で無事に再開できた喜びと安堵感はひとしおで、文字どおり感無量だった。


九月二十日(金)

 シベリア鉄道乗車日だ。発車は十九時過ぎなので、それまで町を観光した。フロントのお姉さんに、荷物を夕方まで預かってもらえないかと交渉すると、快諾してもらえた。このあたりで、ロシア人の気さくで親切なたちが飲み込めてくる。

 朝八時から夕方五時まで、休憩しつつ秋の町を歩いた。海をまたぐ大きな橋を見上げ、地下道に並ぶ土産物屋を眺め、本屋を数件ひやかし、ハチミツ屋で試食し、さらにぶらぶらと歩いていると、浜辺に遊園地があったのでふらりと入った。Zさんと遊園地! デートやん! 観覧車がある(150ルーブル)。ゴンドラには壁がなく、ゴンドラというよりベンチに近い。高いところは怖いとしり込みするZさんを、大丈夫、大丈夫と励まし乗ったものの、吹きっさらしの観覧車は思った以上に恐ろしかった。

 夕方、スーパーマーケットに入った。シベリア鉄道は三泊四日、そのあいだの簡単な飲食物を調達するためだ。

 外国でスーパーマーケットに入るのは楽しい。旅の醍醐味とは、その地で生きる人々の日常を垣間見ることではないだろうか? 

 目についたのは魚の豊富さだ。バケツに突っ込んで冷蔵ショーケースに並べるという、なんとも大胆な扱いである。興味を引かれたが、さすがに今は買えない。

 シベリア鉄道の中にはサモワールがあるので、インスタント食品を持ち込むとよいと情報を得ていた。なかでも、湯を注いで作るインスタントマッシュポテトがおいしいのだそうな。マッシュポテトはいろんな種類の味があった。三泊四日の朝食はすべてそれにするつもりで、予備も含めて数種類買ってみた。それからカップ麺。海外のカップ麺はこれまた予想もつかない味のものがあって、楽しい。列車の中では運動不足で便秘気味にもなろう。干しプラムとヨーグルトを買った。それにパン、ソーセージ。

 レジに並ぶ。途端に緊張する。前の人を食い入るように見つめてお作法を学ぶ。支払い前に商品を自分の袋にどんどん詰めていくスタイルだ。これはいつも戸惑って一歩出遅れる。列がどんどん進む。金額を告げられたら素早く数え上げてお姉さんに差し出さねばならない。でも海外の通貨は見分けにくい。大丈夫だろうか? 心臓がばくばくいう。自分の番だ! ズ、ズドラーストヴィチェこんにちは。お姉さんがにっこり笑った。え、笑ってる? 混乱しながら荷物を詰め、支払った(約1000ルーブル)。ダスビダーニャさようなら、再び、お姉さんのほほえみ。

 別の列にいたZさんと店外で合流する。顔を見合わせて、「びっくりしたね!」。そう、私たちの共通項はC国。C国ではレジ係がにっこり笑うことはとても珍しい。特に首都ではまずない。同じスラヴ語圏でも、ロシア人はずいぶん人懐っこいようだ。

 十八時ごろ、荷物をゴロゴロ引きながらまだ暮れやらぬ町を駅に向かった。向かって右手にシベリア鉄道専用の小さな駅舎があり、入るときには保安検査を受けた。一気に緊張感が高まる。いよいよロシア号乗車である。

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