後編


いつもどおり東急田園都市線に乗った。


僕は混雑する車内で電子書籍を読んでいた。


その日の活字はなぜだかいつも以上に踊っているように見えて、なんだか目が疲れた。


あるいは普段の活字がそれほど躍っていないせいだからかもしれない。


二子玉川駅でいつもどおり多くの乗客が乗りかわり、車内が多少すいた。


ふっと、一息つく。


車窓から差し込む朝陽が平日的に眩しかった。


もちろん、それは僕の気分の問題なんだろうけど。


──しばらくして、車内放送が流れた。


油断していた僕はその車内放送に驚かされることになった。


「本日は東急田園都市線をご利用いただきまして誠に有難うございました。最近、車内における盗難の被害が増えております。貴重品はお手元に置かれますようお願い申し上げます。」


と、ここまではいつもどおりだったのだが、問題はここからだった。


「今日はご乗車の皆様にお話がございます。何を隠そうワタクシ車掌になって数十年、決まりきった車内アナウンスに辟易してまいりました。本日は少し趣向を変えまして、ワタクシ流の車内アナウンスをさせていただきたいと存じます」


ん?、何だ?どうしたんだいったい?僕は顔を上げた。


「えー、この世の中におきまして、果たして悲恋なんてございますでしょうか。いいや、悲恋なんてないんだとワタクシは思う所存であります。人を恋しく思う気持ち……。何ものにも変えがたいその気持ち。沢山の恋心を乗せた列車が突っ走る。西へ東へ突っ走る。素敵じゃございませんか。シュッポ、シュッポでございます。ワタクシ、最近、年甲斐もなく恋を致しまして、えー、燃えに燃えております。決してかなわぬ恋……。でも、これだけは云えると思うのです。悲恋というものはこの世にひとつもないんでございます。

それでは聴いてください。チューリップで『心の旅』」


そこまで言うと車掌は突然歌いだした。


“お前が歌うんかいっ”、と、みんながツッコミを入れると思ったけど違った。


信じられないことに、その日の朝、人々はその車掌に共鳴した。


一人が歌いだし、二人、三人と次第に合唱の輪に加わっていき、気が付くと『心の旅』の大合唱になっていた。


♬あー だから今夜だけはー 君を抱いていたい〜

♬あー  明日の今頃はー  僕は汽車の中〜


確かに、ここにいる大半の人は明日の朝も通勤列車に揺られているんだろうけど……。


この三つ目の予兆を通過したあたりから僕はようやく彼女のことを覚悟し始めた。



◇ ◇ ◇ ◇



渋谷駅で降りた僕は乗り換えのためにホームを歩いていた。


僕は人の流れにうまく乗れずに何度か見知らぬ人とぶつかってしまった。


とにかく、朝からひどく疲れる。


僕が大きくため息をついたとき、誰かが後ろから声をかけてきた。


「これ、落としましたよ」


僕は振り返ってその声の主を確かめた。


身なりがよく、管理職っぽい感じの40代くらいのメガネをかけた男性が僕のすぐ後ろにいた。すこし息が切れている。


走ってきたのだろうか?


「これ、落としましたよね」


今度はひどく断定的にそう言われた。手にはコインロッカーのキーを持っていた。


男性は「ね」といって僕の目の高さでキーを揺らした。


僕は“いいえ”と言おうとした。僕はそんなキーのことはまるで知らない。


でも、言葉が出てこない。


さの男性の揺らすコインロッカーのキーがまるで催眠術か魔術のように僕から声を奪ってしまったみたいだった。


僕と男性をよけるようにたくさんの通勤客が足早に通り過ぎていく。雑踏が何か大きな生き物の鼓動のように聞こえ始める。


「これは、あなたのものです。まちがいありません。私はこれをあなたが落とすところをちゃんと見ましたから」


男性のメガネが光った。


僕はもう頷くしかなかった


僕は結局そのコインロッカーのキーを男から受け取った。


『思考が行動を決定するんじゃなくて、行動が思考を決定するのだ』と村上春樹が何かに書いてたのを読んだことがあった。


手にしたそのキーは男性の汗で少し湿っていた。


僕はお返しに、彼のワイシャツの襟のところについていた赤い口紅の跡を指摘してあげた。


男性は素直に「ありがとう」と僕に言い、そしてどこへともなく消えていった。


さてと……、どうしたものか……。


僕はコインロッカーのキーをつまみあげ、顔の前で揺らしながらそう思った。


今日は朝起きたときからこんなことばかり考えているような気がする。


キーのナンバーは   1129


それは189番目の素数だ。


1129……?


なんだ?この数字は。ちょっとでかすぎやしないか。


コインロッカーを普段あまり使用しないので詳しくはないけど、コインロッカーの数字なんて2ケタくらいのものじゃないんだろうか。まあ3ケタくらいまであるところもあるのかもしれない。


にしても、1129って……。


これじゃあ、運び屋が何人いたって足りない数字じゃないか。


それでも僕は、念のため渋谷駅の中の全てのコインロッカーを調べてまわった。


当然というべきか、とにかく1129なんて番号のロッカーはなかった。


多分、どこの駅を調べたって同じだろう。


ん?なんだ!……そうか。


僕はこれが予兆であることを忘れていた。


きちんとそこに立脚した上で考えたら簡単だった。


189番目(いちはやく)分かれということか、なーんだ。


そして1129は 彼女の本当の誕生日だ。彼女は国際的なスパイみたいに幾つもの誕生日を持っていたけど、それについての情報は当時から僕は掴んでいた。


だからといって今となっては覚えていても仕方ない数字なはずなのに、僕はちゃんと覚えている。男の弱さか。


朝からの一連の不可思議な出来事のことと彼女を結びつけないわけにはもういかないだろう。


おそらく彼女に関する何かが僕の身に起こる。


それは、逃れることの出来ない近い未来。


未来同様、予兆だって変えられやしない。


それにしてもずいぶんと大げさだな……。いつものことだが。


めちゃくちゃに人を振り回す感じは彼女の性格そのものだ。


彼女はあの頃、まるでボクサーが繰り出すジャブみたいに、バンバン僕を困らせるようなことを言っては、その距離を測っていた。


……今頃どこで何をしてるんだろう。


いや、もう関係ないことだ。


僕は首をふり、そして会社へと急いだ。




◇ ◇ ◇ ◇




当然のことながら、その日、僕は会社に大幅に遅刻した。


11時29分出社。


もうすぐ取引時間の前場が終わってしまう。


急いでトレーディングルームへ。しこたま怒られる。


昨夜からのアメリカの流れを引き継ぐ形で東証の株価も大幅に下がっていた。特に個人投資家に人気の主力銘柄の下げがきつい。


ほぼ全面安の展開の中で、彼女を連想させる彼女関連銘柄だけは逆行高で異彩を放っていた。


同僚たちは自分の顧客にこの下げはおそらく一時的なものだと説明するのに苦心していた。


でも、


僕だけはわかっていた。


完全に一時的なものだと。


こんなインサイダーってありなのだろうか。


僕はさまざまな数字を目で追いながら、彼女に秘められた力に畏れを抱いた。


仕事が終わり、家に帰るまでもいろいろあった。


もはや予兆をスルーする術を身につけていたのでわりとすんなり帰れた。


ただ、確実に彼女は近づいてきていた。


おそらく今夜なんらかのアクションがあるだろう。


僕はなんの戦力外通告も受けてないし、トライアウトも受けてないけど、電話を今か今かと待たなければならないだろう。


── その日の夜、つまりはこの話の冒頭の、彼女から電話がかかってくるまでの間を僕はそんなことを考えながらやり過ごした。




◇ ◇ ◇ ◇




というわけで、今夜。


“今”にちゃんと至れたかの判断材料は着信音の中に溶けて消える。


── 彼女からの電話は相変わらず鳴り続けていた。


それは、どんな数列よりも果てしがないもののように思えた。


天の覆う限り、地の続く限り、鳴り続けそうな着信音だ。


部屋中が脳震盪をおこしたかのように揺れているような気がした。


いったい彼女は僕に何の話しがあるというんだろう。


結婚の報告だろうか……。


それとも、急に僕の悪口を思いっきり言いたくなったんだろうか……。


もしかすると、新しく買った家電製品の使い方が取説をよんでもよく分からなくて電話してきたのかもしれない。


彼女は、たしかびっくりするくらいのメカおんちだったから。


とにかく壮大な振り回され方だ。


昔と変わらない。


いずれにしろ、僕は傷つくんだろう。


彼女の声に確実に傷つくんだろう。


目の前では、巨大水槽の中をアロワナが泳いでいる


スマホが昭和歌謡メドレーを歌い出したので、いいかげん電話とった。


「もしもし」と、向こう側から久しぶりの彼女の声だ。


「やあ、どうしたんだい?」 


「ちょっとね、あのさ、今日アタシから電話があると思った?」


「そんな、まさか。だからすごく驚いてるよ」


「ふーん、そうなんだ」


電話の向こう側で彼女はつまらなそうに言った。








                      終

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