第8話 洋梨と陳皮のマドレーヌ

  スープはすっかり活発になり、家中を走り回るようになっていた。

その上、勝手に鍵を開けて、ベランダから外に出ては散歩をしたりしているようなのだ。


「ちょっと4ヶ月のチビッコには早いんじゃない?」


虹子にじこはササミをほぐしたものと、パン粥の入った皿をスープの前に置いた。

素晴らしい食べっぷり。

授乳の苦労は無くなったが、夜中でも起きている間中に動き回って遊べとせがむので、こっちが疲れてしまう事も多い。

かと思うと、あまり構うとご機嫌を損ねて逃げ出すし、なかなか難しい。

が、おおむね良い関係を築いているのではないかと思う。


最初は、夜に寝ようとしても、またはまだ寝ている明け方から仔猫が走り回っていて、柚雁ゆかりに、猫と言うものは、じゃあ寝るぞと言って一緒に寝たり、起きろと言って一緒にタイミング合わせて起きるものではないのかと電話で聞いたら、そんなわけがあるかと呆れられた。

面倒見きれなくなったら、もう1匹も青磁せいじに押しつけちゃいなと言われたが、それはしたくない。


それでなくとも、タンタンは帰ってこなくなってしまったと言うのに。

夜間だけ預けているうちに、タンタンは青磁せいじのところに居残るようになってしまったのだ。

離乳食から海老えびたい平目ひらめだと旨いものをたらふく食わされて、高級なシャンプーに毛にいいドライヤー、これまた人間用より高いブラシでの毎日のブラッシングや、ふわふわのラグの温かなホットカーペットと言う生活を、タンタンはすっかり気に入ってしまったようで。

そんなこんなで、タンタンは青磁せいじが飼うことになった。

ちょっとショックだったが、青磁せいじは得意気だった。


「・・・あー、なんだかんだともう十二月かー・・・」


テーブルの上に早めのクリスマスカードと、プレゼントのお菓子の箱がいくつか置いてある。

両親からと、友達からのものだ。

クリスマスは何年も帰っていないが、正月は実家に、旧正月は香港の親戚のところを訪れようかと思ってはいるが。

しかしそうすると、こっちの店を度々閉める事になる。

それも正直、面倒臭い。


虹子にじこは、階下へと向かった。

甘い香りに引き寄せられるようにキッチンへと入り、焼き上がったマドレーヌをオーブンから取り出すと、一つ頬張った。

洋梨と蜜柑の皮を乾燥させたものを刻んで、バニラと蜂蜜とラム酒で風味をつけたものが入っている。

毎年のことであるが、クリスマスが近くなると何となく焼き菓子が食べたくなって、最近はお菓子ばかり焼いていた。


面白がって買ったワイルドフラワーと呼ばれるユニークな南半球の花を生けるために、大きな花瓶を棚から出していた時、ドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


振り返ると、若い女性連れが二人、入ってくるところだった。


初めてのお客様。しかも素敵な装いの若い女の子。

ランチにもお茶にも少し遅く、夕食には少し早い。

土曜日の夕方だから、お洒落して友人同士の早めの食事スタートで遊びに行くのかな、と虹子にじこは何だか楽しくなった。


店内に満ちている甘い香り。バターと砂糖とバニラが溶けた匂い。

紗良さらは友人と顔を見合わせた。


「わあ、いい匂いする・・・」


思わずそう声が出た。


「洋梨と陳皮マンダリンピールのマドレーヌです。ちょうど焼けたところなので、よろしかったらお味見どうぞ」


虹子にじこは、メニューと、水の入ったグラスと貝の形の焼き菓子の乗った小皿を差し出した。

金蘭軒と書いてあるメニューは、英語でOriental medicinal Golden Orchid Cafes

と書いてある洒落たものだった。


虹子にじことしては、デザインや紙の種類も厳選して、結構頑張って作ったものなのだが、そもそも常連達はメニューをあまり見てくれないので、お客様に出せるのが嬉しい。


焼き菓子を頬張って、美味しさに二人は微笑みあった。

洋梨の香り高く、ほんのり甘酸っぱい味、爽やかで優しい柑橘の風味。


「美味しい、味見なんて、ちょっと得しちゃったね」と友人が笑った。


「良かった。梨も陳皮も、喉やお肌にいいんですよ」


虹子にじこも微笑んだ。

紗良さらは、薬膳と言うからにはもっと漢方薬のような味がするものかと思ったが、どうやらそこまで薬的なものではないようだとホッとした。


「・・・あの、これって。このメニューの、全部あるんですか?」


少し遠慮がちに尋ねられて、虹子にじこは頷いた。

時間帯が微妙だけれど、お茶だけでなく食事もできるのか、という意味だろうか。


「はい」


ニコニコして言われて、紗良さらは困惑した。


品数の多いカフェと聞いてはいたが、お汁粉の類から、ケーキ、煮物、炒め物、漬物、ミックスフライ定食のようなものまであるのだ。

これ、食堂だな・・・。


「・・・・おすすめとかって、ありますか?」


困ったのか、友人がそう聞いた。

確かに、これでは・・・・迷うと言うより、どうしたもんだか分からない。


「ありますよ。召し上がれないものはありますか?」

「特にないです」

「・・・・あ、じゃあ。私も、それで・・・。私、お魚があんまり・・・」


紗良さらは魚介類全体的に、特に甲殻類とか貝類が苦手だった。


キッチンで調理を始めた虹子にじこをちらりと目で追いながら、紗良さらは改めて店の様子を眺めた。


ターコーイズカラーにボタニカルな南国の植物の絵が描かれた壁紙、同じ色調のカーテン。

モザイクタイルの床。

カウンターの巨大な蛙の形の花瓶にも、変わった花が生けられていた。

そして、店主は、三十代くらいなのだろうが、チャイナ服と言うより、整体師みたいな白い調理服の上着に、これまた不思議な柄のワイドパンツ姿。

店名の刺繍入りの調理服は虹子にじこのお気に入りで、客達からケーシー高峰の服のようだと言われてウケがいい。


「・・・なんか、思ってたのと違う・・・・」


と思わず言ったのに、友人も同意した。


「・・・医者の愛人にしては、ちょっと変わってない・・・?」

「・・・愛人じゃないって!先生、独身なんだから・・・」


小声で言い返す。

青磁せいじと何らかの関係のある女性とは、一体どう言う人物なのか。

彼は独身なのだし、愛人である必要など無いのだけれど。

どうにも気になって、様子を見に来てしまったのだ。


どう言う関係なのかと、藤野に聞いても、本人に聞いてみてとはぐらかされた。

他人の人間関係に首を突っ込むなんて卑しい事よ、と言われた気がして、とても恥ずかしかったし、ちょっと彼女を恨んだほど。


でも一人で訪れる気にはなれなくて、友人である由実ゆみを誘ったのだ。

彼女は話を聞いて、すぐに了承してくれた。

由実ゆみは結婚の予定が控えていてここのところ忙しく、喜ばしくも少々寂しくも思っていたのだが、生活が落ち着いたらしく最近また色々と誘ってくれるようになった。


食事が終わったら、これから結婚のプレゼントを買いに行く予定。

友人達とお金を出し合ったら結構まとまった金額になった。

それぞれ忙しく都合がつかず、自分がお金を預かって、今日やっとお祝いのプレゼントを由実ゆみと一緒に買いに行くことになった。


カウンターには、ずらりといろんな形の瓶が並んでいる。

果物が入っているのを見ると、果実酒であろう。

藤野がよく言っている、美味しい手作りのお酒の素に違いない。


透明の冷蔵庫には、冷たいデザート類がいくつか入っていた。

以前、見たことのある丸いボールの沢山入ったシロップ漬けもある。

紗良さらは、それは果物のゼリーとクルミのプリンであった事、シロップは何の香りなのかわからなかったけれどとてもいい香りがしたと思い出していた。

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