第8話 洋梨と陳皮のマドレーヌ
スープはすっかり活発になり、家中を走り回るようになっていた。
その上、勝手に鍵を開けて、ベランダから外に出ては散歩をしたりしているようなのだ。
「ちょっと4ヶ月のチビッコには早いんじゃない?」
素晴らしい食べっぷり。
授乳の苦労は無くなったが、夜中でも起きている間中に動き回って遊べとせがむので、こっちが疲れてしまう事も多い。
かと思うと、あまり構うとご機嫌を損ねて逃げ出すし、なかなか難しい。
が、
最初は、夜に寝ようとしても、またはまだ寝ている明け方から仔猫が走り回っていて、
面倒見きれなくなったら、もう1匹も
それでなくとも、タンタンは帰ってこなくなってしまったと言うのに。
夜間だけ預けているうちに、タンタンは
離乳食から
そんなこんなで、タンタンは
ちょっとショックだったが、
「・・・あー、なんだかんだともう十二月かー・・・」
テーブルの上に早めのクリスマスカードと、プレゼントのお菓子の箱がいくつか置いてある。
両親からと、友達からのものだ。
クリスマスは何年も帰っていないが、正月は実家に、旧正月は香港の親戚のところを訪れようかと思ってはいるが。
しかしそうすると、こっちの店を度々閉める事になる。
それも正直、面倒臭い。
甘い香りに引き寄せられるようにキッチンへと入り、焼き上がったマドレーヌをオーブンから取り出すと、一つ頬張った。
洋梨と蜜柑の皮を乾燥させたものを刻んで、バニラと蜂蜜とラム酒で風味をつけたものが入っている。
毎年のことであるが、クリスマスが近くなると何となく焼き菓子が食べたくなって、最近はお菓子ばかり焼いていた。
面白がって買ったワイルドフラワーと呼ばれるユニークな南半球の花を生けるために、大きな花瓶を棚から出していた時、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、若い女性連れが二人、入ってくるところだった。
初めてのお客様。しかも素敵な装いの若い女の子。
ランチにもお茶にも少し遅く、夕食には少し早い。
土曜日の夕方だから、お洒落して友人同士の早めの食事スタートで遊びに行くのかな、と
店内に満ちている甘い香り。バターと砂糖とバニラが溶けた匂い。
「わあ、いい匂いする・・・」
思わずそう声が出た。
「洋梨と
金蘭軒と書いてあるメニューは、英語でOriental medicinal Golden Orchid Cafes
と書いてある洒落たものだった。
焼き菓子を頬張って、美味しさに二人は微笑みあった。
洋梨の香り高く、ほんのり甘酸っぱい味、爽やかで優しい柑橘の風味。
「美味しい、味見なんて、ちょっと得しちゃったね」と友人が笑った。
「良かった。梨も陳皮も、喉やお肌にいいんですよ」
「・・・あの、これって。このメニューの、全部あるんですか?」
少し遠慮がちに尋ねられて、
時間帯が微妙だけれど、お茶だけでなく食事もできるのか、という意味だろうか。
「はい」
ニコニコして言われて、
品数の多いカフェと聞いてはいたが、お汁粉の類から、ケーキ、煮物、炒め物、漬物、ミックスフライ定食のようなものまであるのだ。
これ、食堂だな・・・。
「・・・・おすすめとかって、ありますか?」
困ったのか、友人がそう聞いた。
確かに、これでは・・・・迷うと言うより、どうしたもんだか分からない。
「ありますよ。召し上がれないものはありますか?」
「特にないです」
「・・・・あ、じゃあ。私も、それで・・・。私、お魚があんまり・・・」
キッチンで調理を始めた
ターコーイズカラーにボタニカルな南国の植物の絵が描かれた壁紙、同じ色調のカーテン。
モザイクタイルの床。
カウンターの巨大な蛙の形の花瓶にも、変わった花が生けられていた。
そして、店主は、三十代くらいなのだろうが、チャイナ服と言うより、整体師みたいな白い調理服の上着に、これまた不思議な柄のワイドパンツ姿。
店名の刺繍入りの調理服は
「・・・なんか、思ってたのと違う・・・・」
と思わず言ったのに、友人も同意した。
「・・・医者の愛人にしては、ちょっと変わってない・・・?」
「・・・愛人じゃないって!先生、独身なんだから・・・」
小声で言い返す。
彼は独身なのだし、愛人である必要など無いのだけれど。
どうにも気になって、様子を見に来てしまったのだ。
どう言う関係なのかと、藤野に聞いても、本人に聞いてみてとはぐらかされた。
他人の人間関係に首を突っ込むなんて卑しい事よ、と言われた気がして、とても恥ずかしかったし、ちょっと彼女を恨んだほど。
でも一人で訪れる気にはなれなくて、友人である
彼女は話を聞いて、すぐに了承してくれた。
食事が終わったら、これから結婚のプレゼントを買いに行く予定。
友人達とお金を出し合ったら結構まとまった金額になった。
それぞれ忙しく都合がつかず、自分がお金を預かって、今日やっとお祝いのプレゼントを
カウンターには、ずらりといろんな形の瓶が並んでいる。
果物が入っているのを見ると、果実酒であろう。
藤野がよく言っている、美味しい手作りのお酒の素に違いない。
透明の冷蔵庫には、冷たいデザート類がいくつか入っていた。
以前、見たことのある丸いボールの沢山入ったシロップ漬けもある。
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